雑草彼女
西藤りょう
出会い
季節は春。
僕――大久保蓮は一人、道も整備されていないあぜ道を歩いていた。
足元には冬を乗り越えた草木が穏やかな風に身を委ね、気持ちよさそうにダンスを踊っている。
田んぼの端で揺れるそれらはさながら雑草達の舞踏会のようだ。
舞踏会に参加している雑草達の特徴も知らなければ、名前も知らないけど目の前で力強く生きている雑草に僕の目は奪われていた。
もしかするとそれは春特有の穏やかで爽やかな雰囲気に呑まれているだけなのかもしれない。でも確かに僕はこの景色を綺麗だと感じてるのだ。
僕はひゅうひゅうでもピューピューでもない、表現することが困難なほど静かな風を感じると、風が向かってきた方向に目を寄せた。
そこにそびえ立つのは山肌を多く露出している大きな山。
町と同じ名前が付いているその山は、僕が産まれるずっと前に採石場として開拓され、自然界では中々お目にすることが難しい神秘的な景観をしている。
そんな神秘的な山をさらに綺麗に彩るのは、僕でも知っている桜の木。ソメイヨシノ。
春の代名詞ともいえる桜の代表であり、春の訪れとして人々が特別視する花だ。
その美しさは新生活を始める人達へ。そして別れる人達への贈り物とも言えるだろう。
名も知らない雑草達の舞踏会。そして遠目には神秘的な山の麓で咲き誇る春からの贈り物であるソメイヨシノ。
春の陽気に包まれながら、雲一つ無い青空の下。そんな景色を独り占めしているという小さな優越感を感じると、僕はひたすらに長い長いあぜ道を歩く。
それから少しの時間が経過し、周りに誰も居ないということを確認すると、僕はボソッと独り言を一つ吐き出す。
「もう嫌だ……」
本心から出た言葉。
なぜ僕がこんな良い雰囲気の中、愚痴のようなことを言ったのか。
それは今日の朝、そして今現在の僕の様子を見れば誰でも簡単に理解することができると思う。
朝。
僕は学校に行くための準備を済ませて家を出た。
僕と家族が住んでいるのはマンションの二階なので、階段を少し速足で降りる。
向かうのはマンションに設置されている駐輪場だ。
制服のポケットから鍵を手に取り解錠すると自転車にまたがる。
それは僕が高校に入学して一年と数日間繰り返した日常。
僕は右足をかけたペダルに力を込めるとその力はチェーンに伝わり、そしてタイヤに流れると自転車は進み出すーー何故か変な音を上げながら。
キュルキュルと変なゴムの音を上げながら進む自転車。
それは自転車に乗っている人達からしたら肩を大きく落とすであろう出来事を意味する警告音だ。
「……マジか」
僕は自転車を降りると、後輪のタイヤを指で押す。
するとタイヤは予想通り反発する力はなく、完全に空気が抜けていてパンクしているようだった。
昨日小石でも踏んだかな? それとも劣化?
僕が通う学校までは最寄りの駅まで自転車で約15分。電車に乗って20分。そして10分程歩いて到着する道のりで、時間にして合計45分かかる計算だ。
そして現在の時刻は7時30分。ホームルームは8時30分。
普段の自転車を使っての登校でホームルームの15分前に到着するのだが、しかし困った……。
今から歩いて駅まで行っては到底間に合わない。
そしてなによりもここは田舎で朝の通勤、通学ラッシュの時間でも走る電車は30分に一本なのだ。
遅刻確定。
僕はその事実に肩を落とすと鞄からスマホを取り出し学校に遅刻する旨を伝えるために電話を一本入れる。そして先程解錠した自転車に鍵を掛け、ゆっくりと駅に向かい歩き出した。
普段ならば自転車で15分程度の道をわざわざ歩いて行くというのは精神的に来るものがあるな。なんてことを考えながら歩く。
朝の清々しい風を浴びながら景色を楽しもう!
そんな風に今この瞬間を楽しめる人ならばどれだけ良かっただろうか……。
お生憎、僕の頭の中は朝の優雅な散歩のことなんて考えていない。
考えていることは遅れて教室に入ることへの恐怖、そして気まずさだけ。
進級してクラスが変わってからたった数日しか経過していない。クラスに馴染んでいない中たった一人遅れて入って行くというのは中々にハードな難易度なのだ。
憂鬱な気分を抱えたまま、僕は学校に向かう。
結局学校に着いたのは一限が半場終わっている時間だった。
クラスメイトが授業を受けている中、一人教室に入ったときに発生する静寂の洗礼を受ける。
授業を担当している教師に理由を説明して自分の席に着くと、心に負ったダメージを癒すように深呼吸していつも以上に真面目に授業に取り組むのだった。
それからはまだ慣れていない教室で午前の日程を済ませる。
今日は学校の都合から午前授業で終わるということで、クラスでは仲の良い人達で集まり今後の予定を立てていて、軽いお祭り状態になっていた。
華々しいスクールライフの一ページ。とても楽しそうだ。
ちなみになのだが僕は仲の良い友人が同じクラスに居ない。だから一人で静かに教室を出る他無かった。
廊下に出ると、そこは教室内と変わらない喧騒で包まれている。
僕は耳にスマホから繋いだイヤホンを差すと、顔を俯かせて昇降口へと向かった。
学年が変わる前までだったならば、僕はクラスで仲の良かった友人と今日の午前授業を喜び、そして青春の時を享受していただろう。
しかし環境が変わると付き合いも変わってしまうもの。
僕は先に昇降口から出て行った友人とその友人の新しいグループを後ろから盗み見ると少しの羨ましさを抱えて、学校を出た。
そんなこんなで現在。
僕は学校からの帰り道でこのあぜ道を歩いている。
少し遠回りになってしまうルートなのだが、沈んだ気持ちを切り替えるためにわざわざ道を逸れて田んぼ道に入ったのだ。
天気の良い中、自然に触れての散歩はとても良い気分転換になると考えての行動。
しかし、しかしだ。
いくらなんでも歩き過ぎた。
無意識に歩みを進めた僕の足はとっくの前に限界を迎えているし、気分的にも落ちてしまっている。
お日様の下を歩くことで幸せホルモンであるセロトニンが分泌されるというが、歩き過ぎは良くないのかもしれないな。
僕はいちはやく家に帰るために無心で足を進めた。
それから歩みを進めることしばらく。
いよいよ歩くことどころか呼吸することすら怠くなってきた頃、ふと俯いていた顔を上げるとそこにはあぜ道にぽつんと佇む一つの影があった。
なぜ顔を上げたかは分からないが、敢えて理由を挙げるとすれば、何か気配のようなものを感じたのだ。
それはこのあぜ道に似つかわしいものであり、それでいて何故か一つの絵画のように妙に一体感がある景色だった。
あぜ道に咲く一輪の花。
僕の頭にそんな言葉が浮かぶ。
これは恰好を付けたわけでもなく、バラードの歌詞を考えたわけでもない。
ただ僕はこんな何もないあぜ道に佇む制服姿の女の子のことを見て素直にそう思ったのだ。
紺色の制服に綺麗な黒髪を肩元まで伸ばしているボブヘアーの女の子。遠くから見えているだけなのでどんな顔をしているのかは分からないが、雰囲気だけで見ればそれは異色の存在のように思える。
あぜ道からほど近い住宅地をじっと見つめる姿は幻想的な雰囲気を醸し出していて、僕なんかが邪魔してはいけない。踏み入れてはいけない。そんなことを思ってしまうほどの景色だった。
彼女の足元には名も知らない雑草が生え、道も整備されていないただの砂利道。
しかし、何故か彼女はその風景に合致している。
まるで初めからそこにいるように。異色でありながらも景色に溶け込む姿を僕は瞬きを忘れてしまうほど見つめてしまっていた。
僕が彼女に視線を向けてからどれくらいの時間が経過しただろう。
一時間だろうか。それとも数秒だろうか。
静かに佇む彼女の雰囲気に圧倒された僕は時間を忘れてしまっていたのだ。
ハッと意識を取り戻した僕はゆっくりと、そして時間という概念を思い出すように固唾をのみ込む。
彼女に聞こえない程度に深呼吸を挟み、できるだけあぜ道の端っこを歩くことに努める。
どうか気付かれませんように。そんなことを考えて。
しかしそんな僕の願望を打ち砕くように彼女はゆったりとした動作でこちらに振り向くと、僕の存在に気付いたのだろう。
一瞬ビックリしたように目を見開いたかと思うと、少し警戒した様子で口を開いた。
「えーと、私に何か用?」
ナンパとでも思われたのだろう。彼女の警戒した視線を受け、僕の頭の中は真っ白になってしまう。
じっと見ていた僕が言うのもアレだが、会話する気など無かった。
しかしながら、僕のテンパった頭では釈明することができずに完全に雰囲気に呑まれてしまう。
それに、そもそもの前提として女の子と一対一で会話する機会など僕の人生において皆無。対応できるわけがない。
「い、いや。こんなところで何しているのかなって……」
先程まで彼女のことを直視できていた僕の目はその仕事を放棄。
田植え前の田んぼを見ながら、言葉に詰まりつつ彼女に返答した。
そんな僕の返答、そして明らかに挙動不審の様子を見て彼女は僕がナンパ目的ではないことが分かったのだろう。
警戒を解くと、小さく微笑んで口を開いた。
「あー。なるほどね。それはそうかも。こんな田んぼの隅っこで私みたいな学生がぽつんと一人いるのは怪しく見えちゃうよね」
彼女はそう言いながら頬を掻くと言葉を続ける。
「私はここで休憩してただけだよ。午前中で学校が終わって暇だったからね」
「そっか。でもここには――」
何もない。
僕がそう言葉を紡ぐ前に彼女は言葉を遮った。
「何もない……だよね。そう。何もない。あるのはここから見える見慣れた山と綺麗に咲いている桜だけ。あとは……足元にある雑草くらい。でも良いんだよ」
そう言う彼女の表情は少しの暗さを孕んでいたが、僕にはその暗さの理由を尋ねるなんてことはできるはずもなく、表面的で当たり障りのない疑問をぶつけるしかない。
「良い?」
「うん。良い。だって私は”雑草”みたいなものだからね」
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