05 それぞれの思惑 上



 クスクス、クスクス、悪意のある嘲りが教室のなかで響いている。佐伯は耐えきれずに席を立った。

 その瞬間に笑いは消え、一斉に視線が佐伯の背中に突き刺さった。白い夏服のシャツの中で、細い背中は怒りに震えていた。


 普段なら、黙っていただろう。

 その日は暑くて、朝からイライラしていた。だからこそ、子どもっぽいからかいを見過ごすことさえ、ストレスになったのだ。

 教室のベランダ近くで騒いでいた生徒が、執拗に小突いていた小柄な生徒の胸倉を掴んだまま振り向いた。


 ──な、なんだよ……

 ──ふざけんな、みっともないことしてんなよ。

 ──佐伯に関係ないだろ!

 ──うるせえな! さっさと手を離せよ!


 佐伯はそう言っていじめていた生徒の胸を、軽く……ほんの軽く叩いた。


 その瞬間、すべての音が消えた。

 自分の内側から、何かが引きずり出される感覚がする。

 一気に放出される。

 風だった。

 光る風。


 周囲は時を止め、佐伯を中心に円状に物が吹き飛んだ。

 中でも、例の生徒はベランダに向かって弾き飛ばされ、ぽかんと口を開けていた。

 まざまざと覚えている。全員の視線が恐怖に塗り替えられる。


(そんな目で見ないでくれ……)


 その言葉が、記憶にある最後だ。



 次に目が覚めた時、薄暗い3畳くらいの狭い個室にいた。

 それはイメージする刑務所の独房によく似ていた。保護されてすぐ、魔力が安定するまで佐伯はそこで過ごした。


 最後の記憶では夏だったはずだが、見回りにくる魔導士隊の隊員たちは冬服だ。

 一体どれだけの時間を、意識のない状態で過ごしたのか分からない。

 ただ、佐伯の意識がはっきりしてくると同時に、様々な人間が彼を訪ねてきた。医官、上層部、心理士……魔導士候補生として耐えうるかどうか、魔導士とするべきかとうか、佐伯を判断する人々。

 意識ははっきりとしても、何かを考えるだけの力は戻らなかった。


 しばらくのあいだ悪夢にうなされ、その度に物を吹き飛ばしてしまったし、酷い時は無意識に自分の体を傷つける形で魔法が作動した。

 血まみれになって倒れた床の冷たさを覚えている。失血して、体の端々は冷えていくが、魔法を使ったせいで頭は酷く火照っていた。


 あの日々は、時間が奇妙に伸び縮みして、うまく把握も消化も出来ていない。

 蛹の羽化だとも考えた時もあるが、生まれたものは蝶ではなく、醜い化け物だ。

 佐伯は、魔法事故から8か月後、正式に魔導士隊の保護観察から外れ、魔導士候補生として迎えられた。


 ──お前が新しい仲間か。


 藤根空良そらと出会ったのは、その頃だ。

 2つ年上で17歳になったばかりの藤根は、当時15歳だった佐伯から見れば、とても大人に見えた。

 親族に魔導士がいたことから保護された藤根は、駐屯地の生活にも馴染んでいたし、佐伯の面倒もよく見た。

 今よりも幼くて、そして無邪気だった藤根は、青年営舎のロビーで佐伯を見かけるといつも手招きした。


 はじめは無視していたものの、あまりに毎回、めげずに笑顔で手を振ってくるので、流石に佐伯も折れ、風呂上がりの1時間藤根の一方的なトークに付き合った。

「はぁ」とか「そうなんですか」としか言わない佐伯相手にも、藤根は身振り手振りで楽しそうに話をする。どうせ狭い世界で暮らしている同士だ、会話の中身も想像はついたし、ほかの誰かから耳に入ったことではあったけれど、藤根はいつも真剣に、そして佐伯のために話していた。


 佐伯はそれを、黙って聞いていた。ロビーのウォーターサーバーから出した水を片手にただ頷いていると、藤根は不思議そうに佐伯を覗き込んだ。


 ──どうしてお前、いつも仏頂面なんだ?

 ──……楽しいことも、特にないので。

 ──マジか! 何も? 同級生に気になる子とか、好きなアイドルとかいねえの?

 ──……藤根先輩の楽しいことはそれですか?

 ──それだけじゃねえけど……うーん。本とかは? お前よく読んでるじゃん。

 ──魔導士の機密書とかも置いてあるので。外では見れないし。

 ──真面目か!


 藤根は佐伯に突っ込む。こてこてのツッコミに、思わず佐伯は噴き出したが、その笑いは長くは続かない。


 ──笑えよ~!

 ──笑えって言われて笑うものではないと思うんですけど。

 ──そうだけど、お前可愛くないなぁ。

 ──藤根先輩に可愛いと思われたくて生きているわけじゃないんで。

 ──そうだとしてもよ、なんで笑わないの。正味な話。


 藤根は佐伯の方に身体をさらに寄せた。避けたいが椅子は固定式で、それ以上動くことはできない。

 じっと藤根が佐伯を見あげる。二重の目は好奇心でらんらんに輝いている。

 無遠慮で無神経。佐伯はため息を漏らした。


 ──魔法事故の相手は、即死しました。


 その言葉で、藤根も理解したのだろう。ごくりと唾を飲んだ。


 ──そうか……

 ──まだ、笑う気にもなれません。


 あの目は今でも佐伯を見ている。じっと、ずっと。責めているわけでもなく、そこにあるのは純然たる恐怖。

 化け物になってしまったのだ。自分は。


 その時突然、藤根が佐伯の手をパッと取った。

 気が付けば、テーブルが水で濡れている。動揺した。自分の手が震えて水を零していたと全く気付いていなかった。


 ──事故だ。

 ──……事故でも、俺は……

 ──オレは、お前が魔法事故のあとも生き残って、こうして候補生になったことを誇りに思う。

 ──誇りに?

 ──ああ。


 力強く藤根は頷いた。


 ──魔法事故を起こしてやってきた奴らのほとんどは適正なしで、どこかに行く。サエみたいに外に出てくる方が珍しいんだ。

 ──……その方が、どれだけよかったか。

 ──バカか!


 掴まれた手に、ぎゅうと力がこもる。

 その藤根の手の温かさに、どれだけ自分の手が冷えていたかを思い知る。


 ──いいわけないだろ!


 真っ直ぐだ。あまりにも。佐伯は目の奥が熱くなるのを感じたが、必死で涙を堪えた。




 藤根空良を、無神経だと呆れもすることは何度かあったが、それでも、やはり、佐伯にとって藤根は尊敬できる先輩だった。


 魔導士を兵士とするか、兵器として扱うかで大きく国は二分されている。日本ではアメリカにならい、兵士(soldier)ではなく、大量破壊兵器(Weapon of mass destruction)として厳重に管理する立場をとっている。


 ──おい、サエ! お前、1級認定されたんだってな、7年ぶりだぞ!


 魔導士として階級認定を受けたその日、藤根は我がことのように喜んで佐伯に飛びついた。


 ──苦しいですよ、それに、恥ずかしいです、人が見てます!

 ──お前ら相変わらず仲いいなぁ!

 ──だって、サエ、1級ですよ! すごくないっすか!

 ──お前だって2級だろ藤根、上級魔導士同士、仲良くやれよな!


 先輩方は笑いながら、手荒く佐伯を祝福した。


 魔導士候補生も全員魔導士になれるわけではない。思春期をピークに十代後半になると魔力が落ちる傾向にあるからだ。

 そんな中、20歳で受ける階級認定試験をパスすることは彼らにとって運命を分ける大きな転換点だ。


 特に1級及び2級に該当する上級魔導士に関しては、GPS等を駆使した徹底的な監視と外部交信の制限および検閲が実施されている。

 3級及び4級に該当する下級魔導士は、行動監視と外部通信の制限はされているが、検閲はピックアップ方式で行われ、抜き打ち調査が週に1度ひとりの魔導士を対象に行われる。


 魔導士ひとりの情報が国家機密扱いになる。

 参加する作戦、配置・稼働状況、そして、個々人の能力特性。

 魔導士隊幕僚部が最も恐れるのは、魔導士個人の情報が漏れることだ。

 どの階級に認定された魔導士がいるかの公表は行っているが、それ以上は機密となる。


 生ける最強の兵器。

 戦争の局面を一気に変えるだけの能力を持った、夢の兵器。

 それが、魔導士の持つ一側面であり、だからこそ、亡命や逃亡は、魔導士を保有する国の最もたる悩みでもあった。



***



「佐伯魔導1尉、お部屋の準備ができました」


 副艦長が艦長室で待っていた佐伯に声をかけた。


「すみません、お手数をお掛けします」

「いえ、こちらこそ、十分なおもてなしができず、巡航中ということでご容赦いただければ」

「勿論です。1名分魔導士隊から人員を増やしてしまい申し訳ない」


 大型艦船とはいえ、出港時に余分な荷物を積み込んでいるわけもない。

 佐伯の部屋も、魔導士である彼を適当な場所に置くわけにもいかず、魔導士用に用意された2部屋をやりくりすることになった。


 つまり、俐一に藤根の部屋に移動してもらうことになったのだ。階級を考えれば1尉である自分が個室となり、曹長同士のふたりが同室になることはとても自然なことだ。


(まぁ、魔導士隊から何も伝わっていないだろうから、まったくの偶然なんだろうけど、ラッキーだったな)


 藤根と佐伯が同室になれば、トラブルは避けられない。

 佐伯にそのつもりがなくとも、藤根は突っかかってくるだろうし、そうなれば佐伯も性格的に引くことはない。

 チャコールグレーの制服は、ネイビーの中でも沈んで見える。

 地味で、暗い。

 その色がまさに自分にはよく似合っていると佐伯はどこか自嘲気味に考えた。


「みなさんにはご面倒をおかけします」

「いえ。来てくださって、私共は正直安心しました」


 艦長はそう言って苦笑する。佐伯も合わせて苦笑した。


「私共では対処のしようがありません、巡視船の警備として魔導士の方はいつも付き添ってくださいますが、魔法を実際に見あることはありませんしね」

「そうですね」


 魔導士が魔法を使うのは最終手段だ。ほとんどの任務では魔導士は存在しているだけで、特に何かすることはない。

 存在することが、最も重要な任務ともされる。


「数日の間に、少なくとも方針を決めるはずです。対象を流山に連れていくか、どこかで確保するか」

「それまで、なんとか無事に航海を続けられるように細心の注意を払います」

「今も、運航計画通り進まれてますか?」

「はい、できるだけ気取られないようにと指令がありました」

「分かりました。魔導士隊としても異論はありません、よろしくお願いします」


 艦長も副艦長も疲れ切っているのが分かる。

 佐伯は会話を切り上げると、船長室を出た。

 廊下にいた案内役の隊員は、一挙動で敬礼する。それに敬礼を返す。

 機械的で、乾燥したやりとり。


 艦長たちに案内を指示された隊員も、佐伯相手に明らかな警戒心や好奇心を見せることはなかった。さっと確認した階級章は3尉。一応幹部クラスの人間だった。

 相手も任務だ、好奇心や恐怖心があっても、表に出さずに対応してくれる。

 ありがたい。一般隊員相手ではこうはいかない。

 佐伯は好奇の視線を向けられることに慣れてしまっていた。それでも、こういう風に対応されると、肩に入った力が抜ける。

 自分は兵器だ。しかし、その前に人間でもある。

 前を向いて、誰にも否定も肯定もされないように歩く。


「あちらです」

「ありがとうございます、この先はひとりで結構です」

「承知しました」


 ひとりになりたかった。

 流石に疲れる。

 考えければいけないことはたくさんあったし、そのためにしなくてはいけないことも多い。

 船室に向かっていると、すぐ手前の扉があいた。


「あっ」

「赤塚曹長」


 バッと俐一が敬礼する。


「部屋を開けてもらって申し訳ないね」

「いえ。お待たせしてしまってすみません」

「ひとつだけ、頼みがあるんだけど」

「はい、なんでしょうか?」


 魔導士になったばかりというだけあり、俐一の輪郭にはまだ幼さが残っている。


「昨日まで、例の魔導士の監視はどうしていた?」

「僕と藤根せ……曹長で交代で対応してました」

「そうか。今日からはふたりで必ず対応するようにして」

「ふたりで……ですか?」

「そう、あの魔導士の対応をする時、君と藤根曹長は必ずペアで行動すること。いいね?」


 佐伯の命令に、俐一は一度瞬きをした。

 そして、少し戸惑うような間をおいて、恐る恐ると言った様子で口を開いた。


「それは……僕に、藤根先輩を見張れと言っているんですね……?」

「ああ。じゃあ、頼むね。荷物の整理が終わったら、代わりにいくから」


 俐一の肩をポンと叩いて、すれ違う。

 見張り。

 そうだ、その通りだ。


(あの人はあまりにも御しやすい、俺なら、3人の中でもあの人から落とす)


 すべてのケースを想定して動かなければいけない。

 あの魔導士にがあって亡命していたというのなら、話しは単純だ。日本の魔導士隊や防衛圏での問題を起こしたかったというだけなら、最悪『』。


 今までも、そうやって侵略してきた人間を始末したことがないわけではない、前例がないものではない。

 むしろ、前例だらけだ。

 この場合、エリオールの出生がどこの国かは関係がない。秘密裏に動いている作戦を、叩き潰すだけであり、どうせ、そのあとも同じようにいくつかの矢が飛んでくるだけだ。


(問題は……本当に亡命希望だった場合だな)


 このまま国籍を明かさずに亡命した場合、身柄の扱いは慎重にならざるを得ない。

 先の0号実験事件の被験者たちは、その国での戸籍に相当するものを一切持っていなかった。人間としては存在していなかったこととされている。

 保護されてまず検討されたのは、彼らの人間としての市民権などはどう処理するか、各国は紛糾した。

 エリオールも同じように、法律上存在しない存在である可能性は十二分に存在した。


(そうなったら、所有権争いになるな……日本が抱え込むわけにもいかないから、国連の魔導士委員に報告することになるし、そうなれば他国も黙っていない……海を単独で数百キロ以上飛べるんだ、どこの国も所有の手を上げる)


 発見し、亡命を希望された日本か、中国、ロシア、アメリカ……恐らくインド以外の4か国が所有権を奪い合う。


(そうなったら……、本当に大変なことになる)


 船室に入る直前、佐伯は廊下を振り向いた。俐一は困惑した表情のまま、立ち尽くしている。

 その表情に、かつての藤根が微かに重なる。

 佐伯は小さく笑って見せた。



(あの人と似てる。──……俺とは違う)



 俺が立っているのは、闇の淵だ。

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