春の息吹
矢川トモ
春の息吹
清原義雄はその日、役所の待合室のソファに身体を預けていた。
月曜日の11時。役所には多くの人が集まっていた。彼らは番号札を手に持ちながら、最後の審判を待つ死者のように虚ろで、疲れた表情を浮かべて、自らの番号が呼ばれるのを待ち侘びていた。
清原は気怠さを感じながら、そうした待合人たちを呆然と眺めていた。昨晩の飲み過ぎからか、あるいは、スギ花粉の影響か、彼の思考はピントのずれた写真のように明確な焦点を合わせられずにいた。
「800番でお待ちの方。14番窓口までお越しください」
人工音声が清原の番号札を読み上げた。
長い微睡みの中にいた清原の意識は、ふいに外界の世界に呼び起こされた。そうして、彼は重たい身体を持ち上げ、14番窓口へと向かった。
「お待たせしました…あれ、キヨちゃん!」
底抜けに明るい声が机の向こうから聞こえる。
清原は不意に顔を上げ、その声の正体を見定めようとした。彼の前には佐伯詩織が座っていた。
「佐伯さん?」
「そうだよ。あ、今は結婚して清水だけどね。え、ほんと久しぶり!もう何年ぶり?すごい、なんか大きくなったね」
「まあ、中学卒業してから10年以上も経ってるからね」
清原はそう言って、苦笑いした。
佐伯は薄手のベージュのセーターを着ており、髪はセミロングのチョコレートブラウンに染め、髪先をカールさせていた。そして、彼女の左手薬指にはティファニーの結婚指輪がはめられていた。
「今日はどうしたの?引っ越し?」
「そう、来月大阪に転勤するんだ」
「へぇ、大阪か。いいなあ。でも、ちょっと寂しいね。また地元から同級生が出ていっちゃうのは」
そう言うと、佐伯は遠くを見つめるような目をしながら微笑した。
その時、彼女の頬は中学生の頃と同じように可愛らしいえくぼが出来ていた。
そうした佐伯の姿は清原からかつての遠い記憶を呼び覚ました。
それは幾年も海底近くに眠っていた難破船のように、誰かに発見されるまで永遠にこの世から忘れ去られていた記憶だった。
清原が中学生の頃、彼は周囲の生徒に比べて発育が遅かった。中学3年にもなるというのに、小学生のような幼さがあった。そうした様子から清原のことを半ばからかうような気持ちでクラスメイトの一人が「きよちゃん」と呼び始めた。このあだ名は男子の間に広まるだけにとどまらず、女子生徒にも広まり、果てはクラスの担任教師にさえ呼ばれるようになった。
清原はこのあだ名に始めは抵抗していたものの、次第に慣れ、最終的には受け入れるようになった。このあだ名によって、彼は幾つかの辱めを受けたが、それと同時に幾つかの幸運にも恵まれた。その幸運の一つに、当時片思いをしていた佐伯からも「きよちゃん」と呼ばれるようになったことがあげられる。
彼は佐伯から「きよちゃん」と呼ばれることに甘美な喜びを見出していた。そして、佐伯にそう呼ばれるたびに、あえて幼い表情を浮かべながら、声変わりを終えていない甘ったるい高い声で返事をするのだった。
夏のある日のことだ。その日は外にいるだけで、だらだらと汗が噴き出してくるような暑い日だった。その日、体育の授業を終えた清原と数人の友人は教室へ向かって歩いていた。階段を登り終え廊下に差し掛かると、彼の目の前に佐伯と一人の女子生徒が歩きながら話していているのが見えた。
彼は自然と佐伯の姿を目で追っていた。すると、汗に濡れたせいだろうか、彼女の体操服が透けてしまい、中に着ていた下着が見えてしまっていた。彼女は白いブラジャーをつけていた。
清原は思わず赤面した。そうして、佐伯のその姿を見まい見まいと思うのだが、目が勝手にその姿を捉えてしまうのだった。純白の肌と体操服とブラジャー。そして、佐伯の横顔から見えるあの可愛らしいえくぼ。そうした全てが、清原の内で密かに育まれていた性の衝動を芽生えさせた。
その日の夜、彼は夢の中で佐伯の幻影と戯れていた。夢の中でも、佐伯は体操服を着ていた。彼女は手で汗を拭いながら、ただじっと清原のことを見つめている。体操服は汗で透けてしまい、あの白いブラジャーが見えている。正面からその姿を見ると、佐伯の胸のあたりには小さな膨らみが出来ていた。この時、清原はその胸の膨らみにこれまでに感じたことのない異常な興奮を覚えた。次第に何かが清原の中で募り始める。そうした異変に彼は驚くとともに、戸惑っていた。しかし、感情の波は収まるどころか、激しさを増して彼を飲み込んでいく。清原の呼吸は熱い吐息に変わり、彼の視線の全てが佐伯に集められていく。
熱いものが込み上げてくる。彼の内で何かが蠢き、外へ放射されようとしている。
その瞬間、佐伯はにこりと笑った。
白く、真っ新な頬に小さな穴ができる。
その小さな穴は清原を完全に捉え、飲み込み、狂わせた。
清原はその穴のなかに自分の全てを注ぎ込みたいと強く願った。
「佐伯さん!」
清原の中で何かが爆ぜた。
「これで書類は全部おしまいね。はい、お疲れ様でした」
そう言うと、佐伯はまたにこりと笑った。
その笑みに清原はいささか動揺すると共に、在りし日の自分を思い出し、懐かしんだ。
役所を出ると、空は雲一つない快晴で、温かな日差しが降り注いでいた。先週まで雪が降り続いていたとは思えないほど陽気な天気だった。一陣の風が吹くと、そこにはこれまでにはなかった春の匂いが感じられた。
「春が近いのかもしれないな」と清原はそう呟くと、一つ大きな伸びをして、通りを歩き始めた。
その日はまさに春の息吹が感じられるそんな日だった。
春の息吹 矢川トモ @yakawa930
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