第2話 主人公不在の乙女ゲーム

01

 苦笑を浮かべたエミリオの背後で何かが落ちるような音が響いた。


「っ!?」


 驚いてエミリオが振り返ると視線の先には扉の前でわなわなと震える手を口元に当てたエミリオの母親――カリーナの姿があった。

 カリーナの足元を見れば、小さくない水たまりができている。

 どうやらタオルが入った桶を落としたようであった。


「エミリオ!」


 名前を呼びながら駆け寄ってきたカリーナにエミリオは苦しくなるほど強く抱きしめられる。

 それも当然であろう。

 大事な一人息子が階段から落ちて気を失ったのだ。

 下手をすれば理央のように命を落としていた可能性もある。

 理央のことなどカリーナが知るはずもないが、命の危険があることをわからないはずがない。

 もしかしたら、と不安を覚えていた息子が無事に目覚めたことを喜ばないはずがない。


「ちょっと……母さん、苦しい……」

「あ、ごめんなさい。大丈夫?」

「あぁ……うん」


 いささか強すぎる歓喜の抱擁から解放されたエミリオは、頭以上に痛む脇腹を擦りながらも頷いてみせた。


「あなた階段から落ちて頭を打ったのよ? 頭は大丈夫?」

「多少痛みはするけど、大丈夫……かな?」


 頭は大丈夫? という言葉は、聞き様によってはずいぶんひどいものだ――などとくだらないことが頭を過るぐらいには余裕がある。

 当然のことながら、カリーナの発言は心の底から頭に怪我をした息子を心配するものであって、含みなど欠片もないことはエミリオとて理解している。


「傷薬は使ったけど、ポーションは使う?」

「あぁ……うん。そうだね。頭の怪我だし念のため」


 光の翼に抱かれてというゲームは、テキストとスチルだけで展開されるノベルゲームではなくけっこう真面目ガチなRPG要素のあるゲームだった。

 各キャラクターにはHPやMPなどのステータスが設定されており、魔物との戦闘も少なくない。

 戦闘を行えば当然のことながらHPやMPが減少するので、それらを回復するため手段が用意されているわけだ。

 ゲームが現実となったのだから、ゲームに登場したそれらも当然この世界には存在する。

 カリーナの言う傷薬やポーションがそれだ。

 地球のそれに比べるとこの世界の医療技術のレベルは低いが、それを補ってあまりあるほどに傷薬やポーションの効果は高い。

 むしろ、それらのアイテムが存在するというのに医療技術がわずかでも発展している方が異常と思えるほどの効果である。

 なにせ、擦り傷や切り傷と言った外傷は傷薬を塗れば1日経った頃には傷が完全に塞がり痛みは消える。

 内臓疾患の類であろうともポーションさえ飲めば治るのだ。

 さすがに部位の欠損ともなれば傷薬程度では治らないが、高位のポーションや回復魔法を用いれば、そう言った重傷も癒えるのだから医療技術が発展しないのも無理はない。

 エミリオのように頭部に怪我を負ったのなら、傷薬で外傷を癒やし、大事を取ってポーションを飲めば脳内出血などで突然倒れるなどと言ったことにはならないだろう。

 傷薬に比べるとポーションはかなり高価だが、理央が命を落としたことを考えれば同じように階段から転げ落ちたエミリオも楽観視はできない。

 命に比べればポーションの値段も安いものである。

 そもそも、高価と言っても日本ならば風邪薬程度の値段で手に入る傷薬と比較しての話であり、ポーションとて日本の価値に直せば数万円程度の値段だ。


「そう。じゃあ、ちょっと取ってくるから待ってなさい」


 そう言い残してカリーナはポーションを取りに部屋を出ていった。

 そんなカリーナの姿を見送ったエミリオは引っかかりを覚えていた。

 何が、と言えばカリーナに見覚えがあることだ。

 物心ついてから毎日見てきたエミリオの母親なのだから当然と言えるだろう。

 だが、理央としての記憶の部分にもカリーナを見た覚えがあるのだ。

 この世界をゲームとして知っているのだからありえない話ではないが、それはつまりカリーナがゲームに登場していたということでもある。


「いやいや、そんな馬鹿な……」


 カリーナは一般人だ。

 パン屋を旦那と二人で切り盛りしている生粋の庶民である。

 対してゲームの登場人物はほぼほぼ貴族しかいない。

 そもそも主な舞台は学園であり、キャラクターの年齢は15~20歳に集中している。

 例外はせいぜい主要キャラクターの家族ぐらいのものだ。

 カリーナはそのいずれの条件も満たしていない。

 だと言うのに彼女の姿を理央が知っているのはおかしいことであろう。


「どこで見たんだ?」


 思い出そうとしてもなかなか思い出せないということは、頻繁に登場したわけではないということだろう。

 だが、まず間違いなく見たという覚えがあるのだからそれなり以上に重要なポジションにいたはずである。


「庶民……パン屋……パン屋?」


 その考えに思い至ったエミリオは愕然とした。

 ゲームにモブ以外で登場した庶民のキャラクターは限られている。

 その筆頭は希少な光属性の魔法が使えるという理由で学園に通うこととなった主人公だ。

 彼女を除けばメインキャラクターどころか、物語に大きく関与する類のサブキャラクターにも庶民は存在しない。

 半モブキャラクターになると商人や購買、食堂といった学園の施設職員で立ち絵が用意された庶民のキャラクターも存在する。

 だが、所詮彼ら彼女らは立ち絵が用意されているだけでシナリオには影響しない半分モブと言えるキャラクターでしかない。

 しかし、庶民のキャラクターで見覚えがあると言えばその半モブのキャラクターぐらいだろうと言う考えが間違いであった。

 数少ない立ち絵を用意された庶民のキャラクター。

 物語に関与する庶民のキャラクター。

 パン屋の娘である庶民の主人公――その両親だ。

 どの攻略対象のルートでもヒーローとの絆を深めるイベントで、主人公の実家がある領地を治める領主が行う不正を正すというモノがある。

 その際に主人公とヒーローは主人公の実家を訪れる。

 そこで登場するのがカリーナだった。


「おいおい……待てよ……」


 カリーナが主人公の母親ということは自分は主人公の兄か弟ということになる。

 だが、エミリオには姉や妹がいるという覚えがない。

 エミリオはカリーナたち夫婦の一人・・息子だ。

 それが示すことは唯一つ。


「…………ヒロインが……いない?」


 乙女ゲーム世界なのにヒロインが存在しないということであった。

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