第4話

 翌朝、目を覚ますと沙代は庭に出て洗濯物を干していた。

 ああ、よかった、と思う。

 一晩寝ると沙代が消えていそうな気がしていた。


 おはよう、と声をかけると、おはよう、と返ってきた。なんでもないやりとりがこのうえなく嬉しい。ひとりで住んでいるときは、声をかける相手すらいなかった。


 私が縁側で煙管をふかしはじめても、沙代はせっせと洗濯物を干していた。

「腹はいてないかい?」

 華奢な背中に向かってそう尋ねると、沙代は跳ねるようにこちらを振り返った。

「いつでも腹ぺこです」

 私は笑いそうになるのを堪えながら言った。

「では、あさ(朝食)を作ろうか」

 煙管の火を消して台所に向かう。向かいながら、いっせんようしょく(お好み焼きの元祖)を作ろうと考えていた。


 一銭洋食の作り方はこうだ。まずは水で溶いた小麦粉を直径五寸(十五センチ)ほどの円形に薄く焼いて生地を作る。その生地の上にねぎこんにゃくなどの具を乗せてさらに焼く。そうしてから生地を半分に折って具材を中に挟みこみ、最後に西洋由来のソースという調味料を塗って完成だ。

 ただ、私はその過程に一工夫入れた。


 しばらくしてできあがった十枚の一銭洋食を大皿に乗せて台所を出た。すると、沙代はすでに例のちゃぶ台の前にいた。ちょんと座って目を輝かせている。


 大皿をちゃぶ台に乗せた告げた。

「私は二枚もらう。残りは君が食べたらいいよ。さあ、どうぞ」

 半分に折った一銭洋食は手で掴んで食べることができる。沙代は一銭洋食に手にしてかぶりついた。途端に沙代の目が丸くなる。

「ほう、りー風味の一銭洋食ですか。もしやあなたは天才なのでは?」

「口に合ったみたいだね。よかった」


 実は昨晩の咖哩の汁だけを少し残しておいた。小麦粉を水で溶くさいに、その汁を少し入れこんだのだった。咖哩の風味をつけた一工夫を沙代も気に入ったようだ。

 沙代は夢中で一銭洋食にかぶりついている。飲みこんでいるかのような早さで、一銭洋食を胃袋の中におさめていく。


 途中から両手で一銭洋食を持って、右、左、右、と交互にかぶりつきはじめた。

 やんちゃだなあ、と笑いそうになった。

 はたして沙代は、私が二枚食べるあいだに八枚を平らげてしまった。


「咖哩一銭洋食は満足したかい?」

「ちょっと足りませんが、朝ですから、まあこのくらいで」

 手についたソースをぺろぺろ舐めている。

 やんちゃだなあ、とまた笑いそうになった。


     *


 一銭洋食を食べ終わったあと、私は執筆作業に入った。

 せっかく沙代がこの世にやってきているのだ。期限が二日後に迫っていたとしても仕事なぞしている場合ではなく、彼女とゆっくりすごすほうがよっぽど大切に思えた。しかし、沙代は首を横に振り、こううながしてきたのである。

「お仕事は大切です。期限を破れば信用にかかわりますから、あなたはどうぞお仕事を進めてください」

 正論に違いなかった。私は期限をも守るべく、執筆をはじめた次第だ。


 ところが、どうにもこうにも筆が進まなかった。こういうときは気分転換が必要であり、気晴らしに沙代を連れて外に出ることにした。

「近くの藤棚が満開だそうだ。今から見にいかないか。ひる(昼食)はその近くにある蕎麦屋で済まそう」


 沙代は藤棚よりも蕎麦屋のほうにめっぽう反応したが、実際に満開の藤を目にすると存外にも感動したようだった。綺麗ですねえ……とうっとりと見入っていた。

 蕎麦屋では大食いの沙代が一杯しか頼まなかった。蕎麦代を気にしてのことだろう。私の実入りがもっと潤沢であればな、と自分の甲斐性なしを情けなく思った。


 蕎麦屋を出てからの帰路の途中だった。沙代がこんなことを言い出した。

「あなた、家にそらまめはありますか?」

「いや、空豆はなかったね」

「では、買い求めていただけませんか?」

「それは難しいね。昼だともういちが終わっている」

「でしたらあまさんのところに寄って、空豆をひとつわけてもらってほしいのです」

 沙代いわく、あの世の者がこの世に一日以上滞在した場合、空豆の助けがないとあの世に帰れないそうだ。空豆に乗ってあの世に戻るという。


「でも、どうして天津さんなんだい?」

「あのご一家はいろいろとご事情をお知りですので」

 天津さんは隣家に住んでいる家族で、五つ子という子沢山の家族でもある。とても親切な家族であり、それは近所でも評判になっている。昨日は沙代を焼いた餅でおびきだしたが、その餅も天津さんにいただいたものだ。


 沙代の望みどおりに天津さんの家に寄った。四十がらみの奥さんが戸口で対応してくれた。


 私は背後に控える沙代を目線で示しながら、事情をかいつまんで説明した。

 十年前に死んだ妻が昨日から家にいる。あの世に帰るさいに空豆が必要とのこと。しかし、買い置きがないためひとつわけてもらいたい。


 沙代はいわば幽霊である。しかし、奥さんはちっとも怖がることなく、それは、まあまあ、と人懐っこい笑顔を見せた。それから、ちょっとお待ちを、と一旦家の中に消えた。

 しばらくして戻ってきた奥さんは、空豆ではないものを私に手渡した。

「そういうことでしたら、空豆よりもこちらをどうぞ」

 渡されたのは立派なたけのこだった。


 所望した空豆ではなかったのだが、沙代はかえって喜んでいるようだ。それまで私の後ろでちんまりと控えていたというのに、深々と頭をさげてこう言ったのである。

「まあ、筍を。お気遣いに感謝いたします」


 家に帰ってから沙代が教えてくれた。

「空豆よりも筍のほうが乗り心地がいいのですよ。だから、空豆よりも高価な筍をわけてくださったのでしょう。本当に親切な方です」

「へえ、筍のほうがいいのか。でも、天津さんはよくそれをご存知だったね」

「もしかして、まだお気づきではない?」

「なにがだい?」

「天津さんのところはばけぎつねのご一家です」


 え、と驚く私に、沙代はこう説明を加えた。

あやかしの方々はあの世の事情に精通していますから、筍のこともご存知なのですよ」

「なるほど。そういうことか……しかし、まさか化狐とはね」

 人間で五つ子というのは珍しい。狐の一家ゆえのことだったのか。と得心した私に沙代が言う。

「二百年前から隣家あそこにお住まいです」

 化狐は長生きなのだな。私は長寿を少しばかり羨ましく思い、同時に長寿すぎるのもどうかと思い、そのあとは執筆作業に精をだした。



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