第3話

 夕餉の支度が終わったのは約二時間半後だった。りー作りはさほど時間を要さないものの、玄米を炊くのにどうしても時間がかかってしまう。

 私はちゃぶ台を挟んで沙代を向き合っていた。ちゃぶ台の上にはできあがったばかりのりーめしが乗っかっている。


 私が作った咖哩にはとろみがちっともない。小麦粉をいっさい使わずにさらさらに仕上げたからだ。その咖哩を皿に盛った玄米にかけて咖哩飯にした。

「咖哩の味つけは主に醤油やみりんを使って、最後に咖哩粉でまとめた感じだね。具も烏賊に加えて大根とゆで卵だから、いわば咖哩風味のおでんかな」

「へえ……」と呟いた沙代は私の説明を聞いているようすはなく、咖哩飯を穴が開くほど凝視していた。早く食べたくて仕方ないのだろう。

 私は苦笑しつつ告げた。

「君の口に合うかわからないけど、烏賊と大根の咖哩飯をどうぞ」


 私が言い終わるや否や、沙代はさじをがしりと掴んだ。咖哩飯を勢いよく掬いあげて、もりもりと食べはじめる。同時に、あつ、あつ、と口をぱくぱくさせた。

 私は火傷を案じて言った。

「こら、ゆっくり食べる。誰も取らないから」

 しかし、沙代の食べる勢いは衰えず、咖哩飯を詰めこんだほほがぱんぱんだ。確かがこんな食べ方をするはずだ。

 私は生前の彼女を思いだした。ああ、こんな食べ方だったな……。


 沙代は小柄な身体に相反してとんでもなく食いしん坊だ。まさにがっつくといったようすの食べ方は、沙代然としていてなんとも気持ちがいい。それに、心底しあわせそうに食ってくれるから、作ったこっちもしあわせな心持ちになる。


 沙代はあっという間に皿に盛った咖哩飯を平らげた。そして、匙を置かぬまま尋ねてきた。

「おかわりはあるのですか?」

「あるよ。あと五人ぶんくらい」

「それを全部いただいても?」

 私は苦笑して、いいよ、と答えた。

「なんでしたら鍋ごとだしていただいても、私としては特に差し支えありませんが」

 皿でちまちま食えるか、と暗に訴えている。


 玄米の入った釜と咖哩の入った鍋をちゃぶ台の上に置いてやると、沙代は釜に咖哩を流しこんで再びもりもり食べはじめた。本当に気持ちいい食べっぷりで、大量の咖哩飯がみるみる減っていく。

 そうして、私がひとりぶんを食べるあいだに五人ぶんの咖哩飯をぺろりと平らげてしまった。最初の一皿と合わせると実に六人ぶんだ。いやはや沙代の胃袋はどうなっているのか。


 咖哩飯を食べ終えた沙代は、至福の表情を浮かべていた。

「ふう、食った食った。しあわせえ……」

 たいそうしあわせそうに言いながら、ぱんぱんに膨らんだ腹をさすっている。


「それだけ食べたら腹が苦しいだろう? 帯を緩めたらどうだい」

 すると、沙代の顔がきりりと一変した。

「いえ、帯は緩めません。親しき仲にも礼儀あり、なので」

 鍋ごと食べるのも礼儀を欠いているはずだ。しかし、そこは指摘しないでおいた。夫婦仲というのは余計な一言が明暗をわける。


     *


 食事が終わるとその片づけは沙代がしてくれた。咖哩飯を作った私を気遣ってくれたらしい。

「片づけくらいは私がしますよ。あなたはどうぞごゆっくり」

 私はその言葉に甘えてくつろぐことにした。

 縁側にあぐらをかいてぼんやりと外を眺めた。すっかり陽の落ちた夜の庭に、よりより澄んだ風が流れていく。そのたびに草木がさやさやとささやいた。なんとはなしに夜空を見あげれば、白い満月がぽっかりと浮かんでいる。


 どのくらい経っただろうか。煙管きせるをふかしていると、背後に足音が聞こえた。振り向けば沙代が立っている。今さらになって、あの世の者である沙代に、ちゃんと足があるのを不思議に思った。

「片づけは終わったのかい?」

「ええ」

「助かったよ」

「隣に座っても?」

「もちろん」


 横座りした沙代に煙管を持たせてやった。沙代は細い指に煙管を乗せて、遠慮なく、と断ってから一服ふかした。その所作は生前と変わっておらず、舞を踊るかのごとく優雅だった。

「君は本当に煙管を美しく吸うなあ」

「あら、そうですか。ありがとうございます」

 言いながら沙代が煙管を返してきて、私はそれを受け取って一服ふかした。

 私と沙代は黙ったまま庭や月を眺めた。そういうや、沙代が生きていた頃もよくふたりで縁側から外を眺めていたものだ。当時は老いても沙代とそのようなことをしているのだろうと思っていた。かけがえのないひとときだと気づかないままに。


 沙代は静かな目を庭に向けていた。その横顔を盗み見ていると、やはり訊くべきだと思った。沙代が絵の中から出てきて以来、ずっと気になっていたことだ。

「……沙代」

 声をかけると彼女の目がこちらに向いた。

「君はいつまでここにいるんだい?」

 死んだはずの沙代がここにいる。この奇跡には限りがあるのだろうか。はっきり聞くのも恐ろしいが、聞かないでいるのも恐ろしい。再び手にいれたふたりの時間が、唐突に終わるかもしれない。


 沙代は、そうですね、と呟いた。

「明日の夜あたりにはあの世に帰ろうかと」

 胸がずきっと痛んだ。やはりこの奇跡には限りがあるのだ。だが、まだ期待はある。

 私は恐る恐る訊いた。

「あの世に帰ったとしても、またここにこれるのかい?」

「ええ、ときどき寄らせてもらいますよ」

 私は心底ほっとした。またきてくれるのか……。


 今回に限りがあったとしても、また近々会えるということだ。二度と沙代に会えないかもしれない。そんな心配は杞憂だったようだ。

 いつの間にか力が入っていたらしく、「はあ……」と息を吐くと肩が脱力した。


 そんな私を前にして、沙代が、でも、と話をついだ。

「閻魔さまのお許しが出ればですが」

「許しが出ないことがあるのかい?」

「ごくごく稀にあるようですね」

 私はそれを聞いて苛立ちを覚えた。ごくごく稀であったとしても――

「閻魔さまはきょうりょうだな。なぜすべて許可しないんだ。ぶん殴ってやりたいよ」

 沙代は、ふふ、と笑った。


「あなたは平和な人です。閻魔さまに腕っ節では勝てませんよ」

「いや、私だっていざとなれば……」

 棟梁である辰さんの顔が脳裏に浮かぶ。情けないが力勝負ではかないそうにない。

「はあ……」

 私が肩を落とすと、沙代はまた、ふふ、と笑った。

「あなたは平和でいいのです。それもあなたのいいところですから」

 それから、ねえ、あなた、と尋ねてくる。

「あの世はどんなところだとお思いですか?」

 私は、そういえば、と首を傾げた。

「真剣に考えたことがないな」

 沙代は微笑みながら妙な指示をした。

「ちょっと目を閉じていただけますか」

「目を? どうしてだい?」

「まあ、物は試しに」


 私は沙代の意図をめぬまま目を閉じた。視界のすべてが完全な闇になる。

 だが、しばらくすると小さな光が視界の中心にぽつんと現れ、直後に視界全体がいっきに眩しくなった。

 あたり一面に黄色い菜の花が咲き、空は高く広く抜けるように蒼い。ここはどうやら小高い丘のようだ。

 とはいえ、私は縁側にいて目を閉じている。

 この景色は私の空想による産物だろうか。


 丘の頂上付近には沙代の後ろ姿があった。着つけている桜色の着物は、彼女がたいそう気に入っているものだ。絵の中から出てきた沙代も同じ着物を着ている。

 ここからだと沙代の背中しか見えないが、きっと彼女は菜の花を見やりながら、微笑んでいるのだろうと感じた。

 さらさらという音が近づいてきて、一陣の風が丘を吹き抜けていった。菜の花がいっせいにかしいで、同時に沙代の黒髪がふわっと揺れる。

 そのとき、沙代の声が聞こえた。

 ――どうぞ目を開けてください。

 指示に従って目を開けると、沙代がにっこりと私を見ていた。


「いかがでした?」

「もしかして、今見たものがあの世なのかい?」

 沙代は、ええ、と頷いた。

「君はああいうところにいるのか」

 ええ。

「あの世はわりといいところなのだな」



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