最終話 ???錠 効果:〇〇〇 副作用:✕✕✕

 二〇一一年、三月の終わり。


 今年の春は暖かい。

 花の匂いが風に運ばれて、健やかな陽気であった。



 

 オ・ユジュンは、身体・精神ともに健康である。

 表情も、心の内も、自信に満ちている。


 彼は何も変わらなかった。

 どころか、公私ともに調子を上げている。


 脇道に逸れてみて視野が広がったことで、肩の荷が軽くなり、優秀さに磨きがかかったようだ。

 以前のように追い詰められている錯覚もなく、情熱を持って仕事に邁進している。


 同僚に八つ当たりをして友人関係が決裂したときは、もう終わりだと絶望したものだったが、それだけだった。

 堕落は、節度のあるところで止まる。

 腐るのも簡単ではないらしい。

 この一点に限っては、部下が正しかった。


 思い返してみれば、あのとき理性的になれなかったのは、単純に精神が不安定だったことが原因に思う。

 一度余裕を取り返してみれば、何ということはない。

 積み上げた習慣や人格は、嘘をつかない。


 臆病なだけだったのだ。



 

 高層マンションの四十五階。


 ユジュンとその家族が所有する一室の、リビングにある棚。

 そこには、同様の意匠が凝らされたクリスタルのトロフィーが二つ、並んでいる。

 片方には、こう記されていた。


『二〇一〇年度 営業成績第一位 オ・ユジュン』


 有言実行、二度目の受賞。

 このガラス細工こそが、彼の仕事ぶりに一点の曇りも、悪影響もないことの証明であった。


 初めてエースと認められた一つ目より、この二つ目のトロフィーの方が思い入れは強い。

 今年は、特別な瞬間を共有できる相手がいたから。

 


----


 

 夜。

 まだ人々の熱が残る時間、ユジュンは静かな街を歩く。

 そのポケットにある携帯電話には、一件の通話履歴があった。

 

『明日帰るわ』

『ずっと、待たせてしまってごめんなさい。それと、ありがとう』

『早く会いたいわ』

 

 気づけば、一年が経っていた。

 去年の今頃は、あれほど長いと感じていたのに。もう、一年。


 明日、帰って来る。




 待ち合わせ場所には、すでに相手が待っていた。

 淑やかさと幻想性をあわせ持つ、圧巻の美しさをまとった女性だ。


 長い黒髪をなびかせ、宝石のような同色の瞳が輝いている。

 服装は打って変わってフォーマルに、白系統の清楚なものでかためられている。

 透明感のあるビジュアルを強調する取り合わせで、これもまた、よく似合っていた。


 女性はユジュンに気づくと、花のように微笑む。


「すまないイェナ、待たせたな」

「いえ、お仕事お疲れ様です。ユジュンさん」


 二人が会うのは、もう夜の街の風俗店ではない。

 高級感のあるバーが建ち並ぶような、趣のある表通りだ。


「じゃあ、行こうか」

「ゆっくり歩きませんか?」


 イェナは、ユジュンの手を引いた。


「待ってる間、少しだけ寂しかったので」


 彼女は、控えめにお願いした。

 輝きを取り戻したその表情には彩りがあって、一層魅力的に映る。


「ああ、そうしよう」


 短くも、深い愛情の感じられるやり取り。

 二人だけの空間が、そこにはあった。


 肩を寄せ合う。

 体温や匂いからたしかな繋がりが感じられて、ユジュンの心は、潤いと温かさで満たされている。

 

「指輪は、つけなくていいんですか?」


「……ああ、いいんだ」

「ふふ、嬉しいです」

 


----


 

 抗癌剤のようなものだったのかもしれない。

 

 一年前のユジュンは、耐えがたい寂しさを抱えていた。

 その薬として彼は、妻以外の女性を選んだ。


 おかげで、癌のように際限なく増殖する寂しさからは解放された。

 しかし、強力すぎる薬の効力は健全な脳細胞にまでおよび、破壊を行う。

 きっと彼は、何か大切なものを失ってしまったのだ。

 

 だが、何も問題ない。

 なぜなら彼は、頭で思考することをやめて、心で思考しているのだから。


 使わないのなら、脳みそなんていらない。

 あまーい砂糖と一緒にかき混ぜて、溶けてなくなってしまえ。

 

 現状に、危機感がある。焦りもある。

 しかし、鈍感になった神経にはまるで響かない。

 家庭内に亀裂が入り、取り返しのつかない歪が生じるまで、きっと、致命傷に気づかない。

 



 麻痺した触覚で、海の冷たさをぬるま湯と勘違いしたまま、底へ、底へ、溺れていくといい。

 もう二度と、酸素を吸うことはないだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

寂しさは頭を悪くする 青鹿 @yukieeee9

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ