第十四話 Current 39℃の恋情

 本音を隠すのは、癖になってしまった。


 私のわがままは、人を不快にさせるから。

 また嫌われてしまうのが怖いから。


 だからどんな心境であっても、薄く笑うのだ。


「――――ぁ、あの」


 緊張で、心臓が痛い。


「――――ぁ、ゃ、…………って…………か」


 うまく回らない舌に叱咤しつつ、息を整える。

 数年ぶりに、誰かにお願いをする。


「……寄って、いきますか?」


 いつかと同じように、彼を店内へ招いた。



 

 小さな風俗店。


 小綺麗なのは外観だけだ。

 すみに埃やカビがあったり、コンクリートにひびが入っていたり、内装は粗が目立つ。

 嬢に割り当てられる一室も手狭なもので、ベッド一つとちょっとしたテーブル、人二人が入ればもういっぱい。


 そんな部屋で、二人は並んで、ベッドに腰かけている。

 切れかけの蛍光灯が、室内を薄暗く照らす。

 彼女は、所在なさげに座り込んでいた。


 何かを言いたそうにしているのは、伝わってくる。

 うつむきがちだが、こっちを向こうとしている。

 小さな深呼吸を何度もして、勇気を振り絞ろうとしている。

 不安がっているようだった。


「すまなかった」


 だから、ユジュンから先に言うべきことを言った。


「……え?」

「何の保証もなく、関係を持ってしまって……本当に、すまなかった」


 深く、深く、頭を下げる。

 表情は悲痛だ。


 彼が不貞を働いたことが直接的な、または間接的な要因となって、傷ついた人が数人いる。

 もっと誠実であれば、もっと理性的であれば、こんなことにはならなかった。

 自身の未熟さを、奥歯が砕けそうになるほど呪う。


「…………いえ」


 彼女は笑っていた。

 最悪な男の、見苦しい謝罪を前にしても。


 そして、次にこう尋ねた。


「私のこと、嫌いになってしまいましたか?」


 うめき声が、漏れそうになった。


「最近の私、すごくわがままでしたよね……。あなたが優しいから、甘えてしまって……、自分勝手で、人の気持なんか考えないで……」


 並び立てられる自己憐憫に、言葉を失う。


「ひどい女ですね」


 勘違いしていた。


 端麗な容貌や身にまとうオーラから、芯の強い人なのだろうと、勝手なイメージが定着していた。

 今出た言葉は、まるで真逆だ。

 誰が見てもユジュンが悪いとわかる状況で、この自己肯定感の低さは。


 もしかすると、絶対に傷つけてはいけない人に手を出してしまったのかもしれない。

 大きなコンプレックスに、刃を突き立ててしまったのかもしれない。

 これまでの会話からも、察せられる部分はあっただろうに。


 まったく気がつかなかった。

 それほど、余裕をなくしていたのだ。

 顔を覆いたくなった。


「違う」


 否定する。


「違うんだ……!」


 声を震わせながら。


「君のことを嫌ったわけじゃない」


 首を横に振り、強く伝える。


「俺が、俺のことを嫌いになったんだ」


 悪いのはあなたではないと知ってもらうために、言葉を尽くす。


「自分のこともコントロールできない自分が嫌になった。すべて俺の都合だ。勝手に不倫をして、勝手にストレスを抱えて、勝手に君を切ろうとしている」


 言っていて、情けなくなってくる。

 これを悪いことではないと思い込んでいたなんて、本当にどうかしている。


「自分のことを肯定できるように、こんなことはもうやめなければならない」


 うつむいたまま、押し殺すように、もう一度謝った。


「今まですまなかった」


 彼女は、長く沈黙していた。

 返す言葉を考えていたのか、感情を整理していたのか、それはわからない。


 じっと、返事を待った。

 十分ほど経って、


「…………そう、ですか」


 彼女はようやく、口を開いた。


「…………嫌われてないなら……、よかったです」


 いつものように、薄く微笑んでいた。

 心の底から、安堵しているようですらあった。

 恨み言一つ、口にしなかった。


 ……。

 もう消えなければ。

 そして二度と、彼女の前に姿を見せてはならない。

 鞄を掴み、立ち上がろうとしたところで、


「待って」


 呼び止められた。


「店のお酒、買って行ってくれませんか?」


 不安げな目で、お願いをする。

 唐突なことでユジュンも訝しむ。言葉の意図をすぐには汲み取れなかった。


「一緒に、飲んでくれませんか? ……高い、ですけど」


 そういうことか。

 しかしこの誘いは、断らなければならない。これ以上時間をともにしても、毒にしかならない。


「……酒は苦手なんだ」

「なら、飲むのは私だけでもいいです。最後に、少しだけ……」


 声色は弱いが、強く食い下がられた。


 最後にささやかな思い出を。

 そういうことだろうか。


「……ああ、わかった」


 それで、少しでも救いになるのなら。



----


 

 単にサービスかオーナーの趣味か、こんな店にも酒は売っていた。


 彼女は、たくさん持ってきてほしいと言った。

 できるだけ、度数の高いやつがいいと言った。


「そんなに飲んで、大丈夫か?」

「大丈夫です。強いんですよ、私」


 ものすごいハイペースで、あっという間に瓶一本を飲み切ってしまった。


 強がっているわけでもないらしい。

 意識も呂律もしっかりしている。体温が上がったり、顔が赤くなるような様子もない。

 こんなに強い人は初めて見た。本当は中身が水だったんじゃないかと疑いたくなるほどだ。


 彼女はそのまま次の瓶を開け、グラスに注ぐ。


「! 水で割らないのか……?」

「いいんです」


 今開けたのはかなりキツイ酒だ。

 三十パーセントを超えている。

 危険だ。それに美味くもないだろう。

 それを、一本目と同じようなペースで飲み進めていく。


「……」


 異様な光景だ。

 男の方が水をちまちまと口にしている傍らで、女の方が涼し気な顔ですさまじい量の飲酒をしている。


 酒を注いで、グラスを口に運ぶ動作は機械的。

 一連の作業をくり返すような飲み方だ。味わっているようには感じられない。

 会話の弾まないお見合いなどは、こんな空気になるんだろうか。


 どうして彼女は、こんなことをしているのだろう。

 最初はヤケ酒かと思った。

 傷心をアルコールで忘れようとしていると。

 しかし、どうも様子が違う。


 ……自殺?

 いや、まさか。

 と、楽観視することはできない。

 すでに、倒れてもおかしくな量なのだから。


「ごめんなさい。つまらないですよね」


 唐突に、声をかけられた。


「いや……」

「もう少しだけ待っててくれませんか。ちゃんと、言いますから」


 言う?

 何を?


 三瓶目を開けた。



 

 三十分ほど経って、ようやくフラつき始める。

 さすがにこのあたりから、ペースが落ちてきた。


「まだ、行かないでください」




 一時間ほど経って、言語野が怪しくなる。

 ずっと、同じ言葉をくり返している。


「ごめんなさい。ごめんなさい」



 

 また三十分ほど経って、頬に赤みがさしてきた。

 目が据わって、うつむきがちになっている。


「もうちょっと、だから……」



 

 黙って見ていた。


 このままではいけない、なんとかしなければと何度も思った。

 しかし、頭に浮かぶ行動のどれが正解かわからなくて。

 ただ見ていることしかできなかった。



 

 二時間経ち、彼女の顔は真っ赤になった。

 もはや、赤を通り越して青になろうとしている。

 いよいよ本当に危険だ。


「おい、大丈夫か?」


 プツンと、電池が切れたように、倒れる。


「!? おい! しかっりしろ! おい!」


 間一髪、硬い床に激突する前に、何とか体を滑り込ませて支える。

 必死に体をゆすりながら何度も呼びかけるが、細い腕と長い髪がだらんと下がるだけ。生気を感じられない。


 自分は何をしていたんだ。

 こうなる前に対処するべきだっただろうに。

 そのまま横抱きに抱え、病院へ駆けるべく立ち上がろうとして、

 弱い力で袖を引かれた。


「――――ぃて、――――か?」

「え? なんて?」


 発せられたか細い声が聞き取れず、口元に耳を近づけた。


「――聞いて、くれますか?」

「…………ああ」


 本当は、こんなことをしている場合ではない。

 言いたいことがあるのなら、まず安全を確保してから病院のベッドで聞けばいい。

 けれどそれではいけない気がした。


 彼女はとても大事なことを、今しか言えないことを、言おうとしている。

 意識が曖昧で虚ろな目には引き留めるような力があって、強く、強く、何かを訴えるようにしている。

 だから、聞かなければ。


 息づかいだけが鼓膜に響く。

 彼女はまだ、うまく言葉を紡げないでいる。

 口を開閉して、何度も何度も躊躇っている。


 じっと、耐えるように待った。

 そして――、


「好きです」


 告白された。


「……それだけ、言いたかったんです」


 それだけ。

 それだけのために。

 こんな状態になってまで。

 心の奥の、底の底にある感情を、さらけ出すためだけに。


 過去の出来事から、堅く、暗く、閉ざされた心だった。


 アルコ―ルに頼って、途方もなく重なった理性の障壁を、これだけの時間をかけて、何枚も、何枚も、剥がして、剥がして――――。

 激しい酩酊に、内臓が逆さになるような苦しみがあっても、なお縋り、飲み続け、剥がして、剥がして、剥がして、ようやく現れた本音。


「――――ぉぇ」


 彼女は、少量の吐瀉物を吐き出した。

 酒のせいかもしれないし、ストレスのせいかもしれない。

 多分、両方。


「ずっと、一緒にいたかった……」


 宝石のような右目から、一筋の涙がこぼれた。

 初めて見た、笑顔以外の表情。


 言い終えた彼女の意識が、また遠のく。

 同時に、腕に抱える肉体の重みが増した。

 意識が薄い人間は重い。


 バランスを崩したユジュンは、べたりと床に座り込む。

 再び立ち上がろうとして、踏ん張りがきかない。

 力が抜けていた。


 どこか痛むわけでも、緊張しているわけでも、寒いわけでもない。

 ただ、彼女の言葉が胸に刺さって、放心する。

 その場から動けなくなっていた。


「おれも」


 蚊が鳴くように、呟く。


「本当は、俺も――」


 支える腕に、強く力を込める。


「寂しさなんて、言い訳だった……」


 たしかに、きっかけはそうだった。

 きっかけだけ。

 けれどそれ以降は、違う。


 必要以上にネガティブになって、不安ばかりを想像していたのだって、今にして思えば単なるポーズだったのかもしれない。

 そんなに辛くて、悪夢を見るくらい精神的に追い詰められてしまっているのなら、仕方ない。

 そう言われたかったのかもしれない。


 飄々としていて、軽薄で、価値観の相容れないあの部下にばかり相談を持ちかけていたのだってそうだ。

 ユジュンには、他にも話を聞いてくれる相手がいくらでもいた。

 彼ら彼女らを頼らなかったのは、もうやめておけと言われるのがわかっていたから。

 否定されて、自分のやっていることが許されないことだと、正面から受け止めたくなかったから。


 別れを決意したにもかかわらず、今夜ここに訪れたのだって。


 未練があったからだ。

 まだ互いの名前だって知らない。

 関係は進展しても、それを言語で表すなら、やはり風俗に通う客と嬢でしかないのだ。


 黙って消えればよかった。

 妻に誠実でありたいのなら、そうしなければならなかった。

 行動の何もかもが、非合理で、あべこべで、不誠実。


 それもこれも、

 全部、全部、全部、

 粉雪の降る三月の日に、

 初めて彼女に出会った日に、


 ――一目惚れしてしまったから。


「離れたくない」


 ずっと、一緒にいてくれるのなら、


「愛している」




 今日、死んだことにならないだろうか。

 死んでしまえば、何も見なくて済むし、何も考えなくて済む。


 誰かからの非難も。

 誰かが悲しむ姿も。

 とうとう堕落してしまった誰かも。

 この先の未来だって。

 

 愛する人を慈しむ心で、胸が満たされている。

 この瞬間で、終われたらいいのに。

 

 あーあ。

 


----


 

 うっすらと開いた視界。

 イェナは、おぼろげな夢を見る。


 愛しているって、言ってもらえた。

 愛しい人の腕に包まれて、温かい。


 絶望に陥ったあの日から。いや、もっと。

 アイドルになると決めた日から、冷たい世界に身を投げた。


 同僚や上司との関係は金でしかなくて、

 時々会えた家族の愛は偽物だと気づいて、

 この店で出会った男たちの声は薄ら寒くて、

 ずっと凍えていた。


 冷えた日々の方がはるかに長く、濃かった彼女の人生に、火が灯る。

 花のように、微笑んだ。


 とける。とける。

 とろけるような、幸せがある。

 もうこの人しかいない。


 誰でもなんて、言えない。

 この人がいい。

 私のもの。この先も、ずっと。



 

 私を愛してくれる人は、まだいたんだ。


 夏の夜。生命の季節。

 ソン・イェナが、輝きを取り戻した日。

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