第十三話 薬を断つ

 夏の終わり。


 夜は蒸し暑い。

 アスファルトに残留した熱としけった空気。

 たくさんの生き物が誕生し、死んでいく、生命の季節だ。


 ああ、鬱陶しい。

 シャツが汗で張りついて、気持ち悪い。

 鬱屈した感情が増していく。


 それでも背広を脱がず、ネクタイすらゆるめないのは、スーツ姿が社会の正道である証明だから。

 携帯電話が鳴っている。


「もしもし」

『あ、もしもし? 私』


 妻だった。

 向こうは今、朝か。

 寝起きなのだろう。電子音の声から、眠気が伝わってくる。


『今忙しいかしら? 大丈夫?』

「ああ、問題ない」


 会話をしながら、目が覚めてきているらしい。

 滑舌が定まって、口調が凛々しくなっていく。

 静かだが力のある声音に、ドキッとする。


 ユジュンが好きになったのは、こういう妻だった。

 自然と、気持ちが穏やかになっていく。


「フッ、さすがに酔ってはいないな」

『まぁ失礼ねっ、人を酒浸りみたいに。お酒は好きだけど節度はわきまえるわ。朝からなんて、せいぜい一月に一度よ』

「信用できないな。本当はどうなんだ?」

『んふふ、ナイショ』

「ハハ」


 軽く冗談を言い合って、二人は笑う。


 中身のない会話だが、内容以上の厚みがあった。

 音の一つ一つに、互いにかけるたくさんの親愛が詰まっている。

 それは、長年連れ添った中で育まれたものであり、二人だけの空間だ。


 月明りと、川の香りも、彼らを微笑ましく見つめている。


『外にいるの?』

「ああ、そうだ」

『そうなのね』


 コツコツと、革靴の足音が規則的に鳴る。

 時々通りすぎるのは、車のエンジン音。


「どうしたんだ、今日は? 定期連絡は三日後だろう?」

『少しね、アナタが心配になったのよ』

「心配?」

『そう、心配。大丈夫? 寂しくない?』

「どうしたんだ突然」

『……』

「問題ない。毎日健康で、充実している」

『そう、よかったわ』


 彼女は、心底安心しているようだった。


『昨日、ふと思ったのよ。自分のことにかまけて、アナタのことほったらかしにしてたって』

「ああ、それは……そうだな」

『ごめんなさい……。私、ホントだめね、こういうところは。まだまだ未熟だわ』

「そう卑屈になるな。お前ほどできた人間は、そういない」

『ええ、ありがとう』


 感謝の一言には悲しげな色があって、複雑な感情が読み取れる。

 自責と、後悔と、罪悪感。


『……アナタ、かなり寂しがり屋だし、抱え込むから、不安よ』

「そうか、心配かけたな。大丈夫、俺はこの通りだ」

『声を聞く限りは、本当に大丈夫そうね。誰のおかげかしら』

「飲みに付き合ってくれる後輩がいるんだ。そいつだろうな」


 嘘は、言っていない。

 半年前に大きな罪を犯したユジュンがこうして地に足をつけていられるのは、あの飄々としたお調子者のおかげだ。

 彼が相談に乗ってくれなかったら、とっくに潰れていただろう。


 本当の意味で心を支えていたのは、別の女性だったが。


『いい友達を持ったわね』

「ああ」


 妻は少し間を置いて、続ける。


『これからは、もっとたくさん連絡するわ』

「無理をしなくてもいい」

『いいの。仕事、一段落したわ。ボスも許してくれたし、オフィスからでも連絡する』

「本当か? ああ、嬉しいよ」


 嬉しい。

 とても嬉しい。


『それから、定期連絡って呼ぶのもやめましょう。業務みたいで嫌いだわ』

「そうだな。俺が言い始めたんだったか、悪かった」

『ええ』


 英語なまりになった韓国語が、途切れる。


『あと半年ね』

「ああ」

『もう少し、待っててね』

「ああ」

『そろそろ寝る時間よね?』

「すまないな。続きは、また明日でもいいか?」

『ええ、また明日声が聞きたいわ』

「俺も同じ気持ちだ」

『顔も見たい』

「そうだな」


『……じゃあ、おやすみなさい。私は準備があるから』

「気をつけて」


 通話終了。


 短いやり取りだった。

 だが、胸のあたりがじんと温まる。

 心が満たされていく感覚。


「謝るのは、俺の方だ……」


 独り言が闇に溶ける。


 強く、賢く、慈悲深い。

 こんな人を裏切っていたのかという実感がようやく湧いて、指先が震える。


 ずっと麻痺していたみたいだ。

 思えばこの半年、ユジュンの時間は停滞していた。

 気のゆるみが私生活にまで伝染し、仕事のことを考えない時間が増えていた。

 もう、休憩は終わりだ。


 路地を抜けると、ホームレスがいた。

 ソウルは、言うまでもなく韓国の首都ではあるが、すべてが綺麗なわけではない。

 むしろ、駅のすぐ近くでさえスラムのようなエリアがあるくらいには、明暗がハッキリしている。


 汚れとほつれだらけの服を着たその姿に、ゾッとする。

 破滅の予感がする。

 あり得ない未来なんてない。


 でも、もう大丈夫。

 そうならないために、一歩踏み出したんだから。

 夜道を行く。

 


----


 

 すっかり慣れてしまった、さびれた店までの道のり。

 最初こそ、汚物を見るような心持ちだったが、人の適応力とは本当に恐ろしい。

 この治安の悪さが、優雅なBGMのように思える。

 染まってしまった。


 彼女は、やはり扉の前で待っていた。

 こちらを見て、幸の薄い微笑みを深くする。

 恋をしている顔だ。


 今日の髪はライトグリーンだった。


「こんばんは」

「……」


 もう何度目になるかわからない。

 見惚れる。


 髪も、目も、肌も、唇も、指も、爪も。

 彼女を構成するすべてが美しい。


 もとより美しかったが、最近はそこに、感情も加わっているように思う。

 新しい顔を見せられるたびに、新しい愛着が湧く。

 魔法のように、虜にされるのだ。


「どうかしましたか?」


 いつまでたっても喋らず、立ち尽くしているだけのユジュンに、彼女は不安げにする。

 意を決して、言った。


「――別れを言いに来た」


 呼吸が止まった音がした。


 ……、

 …………、

 ……………………、


「……そう、ですか」


 彼女は、薄く笑った。

 見たことのない、歪な笑顔だった。


「それが、いいと思います」

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