第十二話 水を断つ

 オ・ユジュンは、欲望が嫌いだ。

 本能を恨む。必要なものであることは重々承知しているが、その上で嫌いだ。


 なぜ邪魔をするんだ。

 もっと高潔でありたいのに。



 

 尊敬している人がいたんだ。

 

 その人は父親の弟で、つまり、ユジュンから見れば叔父にあたる人物だった。

 成功した起業家で、全盛のときにはテレビにもよく出ていた。

 悪く言えば秀才止まりの顔ぶれが並ぶ家系図で、唯一光り輝く才人であった。


 カッコいい人だった。

 口ひげがキマっていて、いつもラフなスーツを着こなしていて、どっしりとした存在感がある。


 一言で表すなら、豪胆。

 我が道を行き、邪魔する者は轢き殺していく。

 誰よりもエネルギッシュに、人生を謳歌していたと思う。

 その爽快感にも似た清々しさは、見ていて飽きない。


 とはいえ、協調性が低く、善人ではなかった。

 飛んでくる外野からの野次、その一つ一つを果たし状と受け取り、あらゆる暴力をもって袋叩きにするような容赦の無さがあった。

 ただユジュンにとっては、そういうところも含めてカッコよかった。

 ダークヒーローを見ているような気分だ。


 彼のようになりたくて、口調や態度をマネたりもした。

 当時のユジュンも現在とは別種のカリスマがあり、人を惹きつける才覚にあふれていたが、それはそれとして敵も多かった。まだ若く、青く、調子に乗っていた。




 変化は、ソウル大学に合格したばかりで、プライドを高く持っていた、二十歳の頃。

 消息不明になっていた憧れの叔父が、家に訪れた。


 二年ほど前、アジア全体を巻き込む大きな通貨危機があって、韓国は特に大打撃を受けた。


 父の所属する企業は、そのさらに数年前から事態を予測し、対策を立てていたので、ダメージは最小限で済んだ。

 母の所属する企業は、オイルショックの折のトイレットペーパーのように、むしろ商品の需要が高まって、市場を拡大した。

 そして、叔父の設立した会社は倒産した。

 致命的な落ち度があったわけではない。

 ただ運が悪かった。


 しかし、そこでへこたれる彼ではない。

 一つ潰れたのならすぐ次だと新たな事業を立ち上げ、様々な業界へのチャレンジを試みていた。


 どれも鳴かず飛ばずだったようだが、きっと大丈夫だろうとユジュンは思っていた。

 一度だけ会った彼の顔は随分とやつれていたが……きっと大丈夫だ。


 叔父は失踪した。

 ギャンブルによる借金が原因だと知らされた。

 ……きっと大丈夫だ。



 

 久しぶりに帰ってきた叔父は、よどんでいた。


 格好はみっともなく、汚らしい。

 顔色は真っ赤に染まっていて、どう見ても酔っていた。

 父親の服にしがみつき、不衛生な髪と髭を擦りつけている様には、忌避感すら覚える。

 金を貸してくれ、金を貸してくれと懇願し、あれほど嫌がっていたのに、頭だって軽々しく下げている。豪胆さもオーラも、微塵も感じない。


 ショックだった。あんなにカッコよかったのに。

 しかし、ユジュンが今でも悪夢に見るのは、腐敗した姿ではない。もっとおぞましいもの。


 父は叔父に対して言った。

 酒とギャンブルをさっさとやめろ! まともに働け!

 返事は、ぐしゃぐしゃの涙と叫び声で。


「やめたいのに……やめられないんだ……。助けて、助けてくれぇ……!」


 ユジュンの背筋に、舌で舐められたかのようなゾワリとした悪寒が走った。


 あの感覚はもう、一生忘れない。

 脳の触覚を司る神経と、心に、傷として刻み込まれた。


 恐怖。


 直観的に理解したのだ。

 あの涙も、あの声も、「責任感のない叔父の現在」ではなく、「誰もがなりえる未来」であるのだと。

 もちろんユジュンであっても、例外ではない。


 ほんの数年とはいえ、叔父は成功者だった。

 いかに才人といえど、何の苦労もなく高みへ上り詰めることなどあり得ない。

 発展にも、維持にも、多くの努力と労力を積み重ねたことだろう。


 そんな男でも、快楽に抗うことはできないのだと、知った。

 酒とギャンブルには負けてしまうのだと、知った。


 一度溺れた人間は、決意するのだろうな、やめなければ、と。

 しかし、意思一つで簡単に打開できるものならば世話はない。

 決意はほどなく瓦解して、また溺れ、自分を責めるだろう。

 このあたりから、自己肯定感が削がれていく。


 その後も数回の決意をくり返して、何度も失敗して、十回目の決意を迎えた頃、もがくようになるだろう。

 もういい加減にしなければ。これでダメならクズだ。

 結局失敗して、自身に貼ったレッテルを自身で証明する。

 クズの完成だ。

 そして、手遅れになる。


 快楽の対象が、例えば酒だとしよう。

 もう酒を飲まないと決意する。酒に抗うために、がんばる。しかし、すっかり衰えてしまった精神力を奮い立たせるためには、ブースターが必要だ。怠惰な生活に慣れ切ってしまった全身を目覚めさせる、キツイ一発が。

 そのブースターとは何か、酒だ。


 酒に抗うために、酒を飲む。


 矛盾している?

 頭がおかしい?


 その通りだ。

 頭がおかしいんだ。

 脳の病なんだ。

 中毒とはそういうことで、「酒がなくては生きていけない」とは、そういうことだ。

 そうなったらもう、助けを求めるしかないじゃないか。


 泥沼。蟻地獄。

 何と表現してもいい。

 帰ってきた叔父はまさしくそういう状態で、その姿は、ユジュンの価値観を大きくねじ曲げた。


 多感な時期を過ぎたとはいえ、まだまだ安定とはほど遠い年頃。

 大きく裂けた傷口は、トラウマという形で固まる。


 韓国で酒を飲める年齢は、十九歳になった年の一月一日から。

 ユジュンは当時、二十歳。

 すでに飲んでしまったことを後悔した。酒の美味さを知ってしまったことを後悔した。


 あの日あの時、

 祝いだとばかりに、

 友人たちと分かち合ったグラスの一杯が、

 破滅の、始まり。

 本気でそう思った。



 

 その日から彼は、あらゆる快楽と欲求を遠ざけるようになった。


 酒は付き合いで飲んでも、酔うことはほとんどしない。

 女性関係も相手の人格を見定め、慎重に、慎重に。


 生まれつきの気高さ、誇り高さ。

 拍車がかかる。


 幼少期以上に、受験期以上に、努力の化身となる。

 ひたすらに、自分を高めろ。

 研ぎ澄ませ。研ぎ澄ませ。

 脇道に、目が入らないように。


 快楽は分岐点。

 多くの「楽しい」は、外道に通ずる。

 だから、楽しいは、殺す。


 無心に、レールの先頭を行く。

 世間一般が認めた、『正道』だけを行く。

 清く、正しく、美しく。


 無駄な時間は一切作らず。決して手は抜かず。

 塔のように、積み木をひたすら上へ、上へ積み重ねるだけの、苦行。

 真っ直ぐに。真っ直ぐに。

 


 欲望なんて嫌いだ。

 休みたいな。眠りたいな。食べたいな。羨ましいな。楽しそうだな。面白そうだな。

 全て嫌いだ。


 仕事に取り組むこと。自身が成長すること。

 そういうシステム的な達成感さえあれば、十分に幸福だろう?

 もっと真っ直ぐに。もっと真っ直ぐに。

 


 無茶な我慢、制限。

 だから、崩れてしまったんだ。

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