第十一話 四十九錠 効果:中 副作用:乱
「ダメに決まってるだろ」
ユジュンは、頬をはたかれた気分になった。
目を覚ませ。起きろ。
そう言われている。
「あんな奴の言うこと真に受けてんじゃねぇよ」
責めるように睨みつけてくるのは、同僚の男。
入社してから付き合いのあるうちの一人で、部署は違ってしまったが、一年に一度ほど、同窓会と称して集まるような仲だ。
彼の方でユジュンのチームに用事があったらしく、今日再会した。
ちょうど退勤時間にさしかかるところだったので、流れで居酒屋へ。
サシだ。
こうしていると、十年ほど前を思い出す。
お互い下っ端の頃で、毎回四、五人で集まって、ジョッキを打ち鳴らしていた。
一緒に笑い合っていた。
その仲間の一人である彼が、失望にも似た眼差しを向けてくる。
何だか混乱してしまっていた。
久しぶりに仲のいい友達に会えたから、今日は楽しい夜になると、そんな気分でいたのに。
つい口を滑らせてしまって、不倫の件を話してしまってからだ。
彼があからさまに不機嫌になって、息を呑む。
突然空気が鋭くなって、その温度差に感情がついていかない。
「な、なんで?」
だから、出てきたのはそんな意味のない疑問。
「なんでって……、不倫は悪だろうが」
返ってきたのは、至極当たり前の道徳。
くしくもそれは、部下に初めて相談したとき、ユジュンがその口で発したものと全く同じ言葉だった。
「そ、そうか……そうだよな」
そうだ。そうだった。
それが常識だった。
今のユジュンが非常識だった。
知らない間に、自身の行いに違和感を覚えなくなっていた。
同僚に会わなければ、ずっと勘違いしたままだったかもしれない。
背筋が凍りつく。
嫌な汗が流れる。
「おい、大丈夫か?」
「ああ……」
青い顔をしているユジュンを訝しみつつ、彼は続ける。
「あいつが異動する前は同じ部署だったんだけどな、あんま関わんねぇ方がいいぞ」
あいつとは、部下のことだ。
「たしかに優秀だったし、まあムードメーカーで、人気者だったよ。けど死ぬほど嫌ってる奴もいた。俺もその一人だ」
頬杖をつき、苛立たしげなため息を吐く。
「あいつは責任感がなさすぎる。テキトーに新人を何人もひっかけて、周りの人間関係めちゃめちゃにしてその後は知らん顔だぜ? クズだクズ。しかも、本人は悪いことしてる自覚がねぇのが質悪ぃ。交友持っても、いいことなんて絶対ねぇぞ」
聞こえてくる酷評に、胸を痛める。
部下は型破りな男で、ユジュンにはたまたま助けになってくれたが、決していいヤツではない。
同僚の言ったようなことも本当にあったのだろうし、驚くべきことでもない。
けれど、ユジュンはユジュンなりに彼と接してきて、様々な一面を見てきた。
そこには魅力的な部分もあった。
欠点ばかりを挙げつらうべき人物でも、ないはずだ。
だから――、
「それは、言い過ぎだろう。彼は彼で、もっとちゃんと考えているはずだ」
「……どうしたんだ?」
同僚は、さらに深く眉根を寄せた。
何言ってんだコイツ。
そんな顔で。
「お前、そんなバカじゃなかっただろ?」
カチン、と来た。
さっきからなんなんだ。わざわざ神経を逆撫でするような言い方ばかり。
わかっているんだ。
部下の言い分には、おかしな点がいくつもあったって。
常識的じゃないことを吹き込まれていた自覚はちゃんと持っていた。
俺はただ、後輩の美点を見ようとしただけだ。
勝手なレッテルを貼られるとイライラする。
今、盛大な勘違いをされた。
正常な判断ができなくなってる。
完全に毒されている。
目の前のコイツが今そう思っていると考えると、胸がざわつく。
鼻頭にしわをよせ、同僚は、痛々しい中学生を見るような蔑みに近い眼差しで、こっちを見ている。
「お前、あいつから距離置け。二度と近寄んな」
命令口調で、上からものを言われる。
これも、神経に障る。
呆れたような口調がさらに鼻につく。
「そんで、その女からも距離置け」
「な……!? それは――」
「お前おかしいぞ! 目ぇ覚ませ!」
話を聞かず、頭ごなしに怒鳴りつけてくる。
これも嫌いだ。
品がない。
理性的な対話ができない相手が最も嫌いだ。
ギリッと、奥歯を噛んだ。
クソ。クソ。
彼の方を正しいと感じてしまうことに腹が立つ。
正論を受け入れられない。
お前は正義感が強いヤツだ。
たとえ態度が乱暴で、高圧的でも、筋が通ったことしか言わない。
それで敵を作ることも多いが、だからこそいい友人でいたいと思っていた。
なるほど。
コイツに真正面から責め立てられるのは、こういう気分だったのか。
外から見てる分には他人事で、わかってなかったよ。
表情を繕うのにも耐えられない。
頬が硬くなっている。
感情は言っている。怒りをぶつけろと。悪意があろうとなかろうと、コイツは逆鱗に触れたのだから。
理性は言っている。怒ったところで何になると。「その通りですね。俺の考えが足りませんでした。申し訳ありません」とは絶対にならないのだから。
こうして葛藤をしている今も、同僚は偉そうに叱責してくる。
ピキリと、額の血管が浮き出る。
お前に、反対意見を述べる権利なんて無いんだぞ。
俺の方が年上で、俺の方が家柄がよくて、俺の方が賢くて、俺の方が――、
そんな、取るに足らない大義名分を見つけた感情が言っている。
コイツが悪いと。
「黙れ」
静かに、呟くように呪うように、口撃する。
ユジュンの表面にある、異なった価値観を受け入れる柔軟さ。
そこに隠れていた本性――プライドの高さが牙を剥いた。
「俺は、上司だぞ……!」
そして、言ってはならないことを言った。
「……は?」
「――――――――ぁ」
沈黙。
血走った目と、血の気の引いた目が、交錯する。
暗黙の了解があった。
同僚たちの中で、役職の話題は禁句にしようというものだ。
理由は一つ。
仲間内で、目の前の彼だけ、会社内での地位が低いから。
彼は正義感が強くて、高圧的で、敵を作ることが多い。
そのせいで、当時の上司を敵に回してしまい、出世コースから外れてしまったのだ。
優秀であるはずなのに。
今収まっている立場が分不相応なほど、優秀であるはずなのに。
そのことを彼自身、気にしていないはずがない。
学生時代から人一倍ペンを握り、競争社会を勝ち抜いてここまで来たのだ。
プライドがある。
みんな、それぞれ気を遣っていた。
繊細に、しかし、無理のない範囲で。
仕事の格差、収入の格差があっても、彼らは友人だった。
「――――す…………、……すまない」
ユジュンの顔色は、青を通り越して、白くなっていた。
謝ったところで、もう遅い。
同僚は、何も言わなかった。
表情は無くなっていて、目だけが赤くなっていた。
立ち上がり、二人分の飲み代をテーブルに叩きつけて、店を出て行った。
背中には怒りと、若干の悲しさのようなものが感じ取れたが、何を思っていたのかは終ぞわからない。
置いて行った紙幣は、絶縁状だった。
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とっくに腐っていたんだ。
人は、他人の評価なしに生きられない。だから多かれ少なかれ、みんな人の目を気にする。してしまうものなのだ。
だから一度道を踏み外した者は、たとえ直接後ろ指をさされることがなくとも、その目と罪悪感に圧し潰される。
だから殺人犯は自首をしてしまうし、不倫をした者は誰かに吐き出してしまう。
部下に弱味をさらけ出したように。同僚に口を滑らせたように。
道徳に反しても幸せを取るというのは、たしかにあり方の一つだが、それを貫ける者は少ない。
たいていの場合、その文言は信念ではなく言い訳として使う。『麻薬を吸うのはいけないことだが、友人関係を円滑に保つためだから仕方がない』みたいに。
それすら誤魔化して、罪悪感に慣れて、「これが幸せだ」と言うのなら、それもいいだろう。だが、そうなったらもう、言い訳が染みついて、逃げることが癖になっている。壁に立ち向かわなくなって、乗り越える努力もしなくなって、さらにもう一つ堕ちる。
そのとき、次の大きな罪悪感に苛まれるだろう。
また道を踏み外した、と。
しかし、それからも逃げる。また慣れる。また堕ちる。
くり返していけば、信頼が揺らぐだろうな。
やがて地位が下がる。やがて会社にいられなくなる。非正規雇用者として生きていこうとするが、それすらも長く続かない。ついには働くこともしなくなり、物乞いをして生きるようになる。
そんな姿を見せつけられれば、支えてくれた妻子さえもいつかは愛想を尽かすだろう。
だが、もうどうでもいいんだ、そんなことは。
金がなくても、誰も自分のことを好きじゃなくても、社会から求められていなくても、痛くもかゆくもない。だって自分は、幸せだから。幸せを求め続けた結果、こうなっただけだから。
失うものすらなくなって、むしろ身軽でいいじゃないか。
ボロを着ていても、公園で寝泊まりしていても、最高の生活。無敵の存在だ。
無責任な自由って幸せだ。
そうやって最後には、死んでしまうんだ。
悲観的な妄想だと思っていた。
誇張や脚色の混じった、極端な例だと。
どうやら現実らしい。
信頼と平静が揺らいで、友人が一人、去って行った。
早かったな。
誠実さという美点を失ったユジュン。
今日この瞬間、二つ目の美点、理性を失った。
三つ目が綻ぶのは、明日になるかもしれない。
どうすればいい。
ただ寂しいだけで、あれほど辛かったのに。
社会からも孤立してしまったら、もう耐えられない。
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