第十話 四十四錠 効果:中 副作用:麻痺

「おはよう」


 オフィスに声をかけるユジュンは、いつもと同じように爽やかで、エネルギーのある出で立ちだった。

 おはようございます、とすれ違った部下たちの礼に手振りで応え、彼は自分のデスクつく。


 心は穏やかだった。

 凛々しい顔の内側は、決して荒れていない。

 食べ物はちゃんとのどを通る。あの胃が潰れるような気持ち悪さは、もうない。


 デスクトップを開いて、メールを確認。

 数件返してから、仕事に取りかかった。


 最初の一ヵ月は、それはもう多大なストレスを抱えていた。

 体を壊しかねないほど大きなストレスだ。

 それでも店に通い続けたのは、どうしても寂しさに耐えきれなかったから。


 そうして、三ヵ月ほどの時間が流れるにつれて、後悔も、罪悪感も、嫌悪感も、一番大きかった不安も、薄まっていった。


 一人でいても平気になった。

 毎晩、毎晩、あれほど虚無を抱え、屍のような夜を過ごしていたというのに、いつの間にかなくなっていた。

 明日になれば、明後日になれば、会える人がいるから。


 と、同時に。

 別種の不安が、ユジュンの心に根を生やした。

 何も感じなくなってきていることへの、不安。


 いつものペースで、いつもの正確さで、何ら変わることなく業務をこなす。

 モチベーションはむしろ高まっている。与えられた期待と責任を果たすべく、静かな闘志を燃やす。

 極めていつも通りだ。

 妻と息子が家にいて、最も意欲が高かったときの、いつも通り。


 どうして、いつも通りにできるんだ?


 自分は苦しんでいたはずだ。それが正常だ。

 正常ではなくなっていく。


 当初感じていた、強烈な、強烈な、不安。

 じわじわと、失っていく。

 じわじわと、慣れていく。


 妻を裏切り続けて平然としているなんて、おかしなことだ。


 誠実さ。彼の美点の一つ。

 溶けてなくなる。

 低俗な領域に身を浸し、本人も低俗に染まっていく。


 人はそれを、「堕落」と表現する。

 堕落した先には、一体何がある?


 一度、遅刻をしてしまったから。一度、成績が下がってしまったから。一度、単位を落としてしまったから。

 そのたった一度をきっかけに、努力をやめ、怠惰の限りを尽くしてきた者たちを何人も見てきた。そして唾棄してきた。

 彼らの気持ちが、今になって理解できる。


 オ・ユジュンはどうだろうか。

 一度の裏切りをきっかけに、誠実さを失った。

 次は、一度の美点の喪失をきっかけに、もう一つ失ってしまうか。

 一つが二つになり、二つが三つになり、五つになり、十を超えた頃には、誇りなど欠片ほどもない、腐りきったクズがいるだろうか。


 絶対に崩れてはいけないバランスが崩れた予感がする。


 高潔さが褪せていく自分自身に恐怖する。

 その恐怖さえ、薄れ始めていることに恐怖する。


 当初の地獄のような不安はもうないが、カビのような鈍い不安が常にあって、未だ本調子にはおよばない。

 そして、今日はその不安が少し、ほんの少しだけ大きい。

 原因はわかっている。昨日が結婚記念日だったからだ。


 しかし、彼はそれを態度に出さない。

 体調に支障が出るほどのストレスを悟らせなかったのだ。些細という表現がおこがましいほど些細な変化に気づける者などいない。

 やはり、ただ一人を除いては。




「先輩、今日は飲みに行くっすか?」


 後ろから声をかけられ、振り返る。

 例の部下だ。

 すっかり慣れ親しんだその顔を見て、こっちも表情が綻ぶ。


「ああ、そうしよう」

「はいっす」


 あれ以来二人は、よく飲みに行くようになった。

 部下は驚くほど敏い男で、ユジュンが調子を崩すと、毎度見計らったようなタイミングで声をかけてきて、今では後ろ暗い部分を相談できる数少ない相手になっていた。この三ヵ月だけで、随分と世話になっている。


 彼は一見すると軽薄で、何も考えていないような印象を受けるが、よく人を見ている。そして、相手の能力や精神状態を把握することに特に長けていた。

 リーダーに必要な能力の一つだ。

 上に一目を置かれているのも、そうしたことからなのかもしれない。


「いつも悪いな」

「いえいえ~」


 部下はニヤニヤと笑っている。

 今夜はどんな面白い話が出てくるのかとワクワクしている顔だ。

 まったく、調子のいい奴だ。

 だが、悪い気はしない。



----


 

 訪ねたのは、いつもの居酒屋。

 すっかり定位置になった奥のテーブル席に腰を下ろし、ユジュンは夏の暑さを冷ますようにお冷を飲む。


「好きなものを頼め。俺の奢りだ」

「マジっすか? じゃあ一番高いやつで!」


 図太い部下に、クスりと笑う。


「構わない。好きなものにするといい」

「あざっす! じゃあ遠慮なく!」


 宣言通り、本当に遠慮なく最高額の酒を注文した。

 普通はもう少し気を遣うものだが、相変わらず肝が据わっている。甘えるのが得意と言い換えてもいい。


 だが、それでいい。

 奢りたくて奢っているのだから、むしろ好ましいくらいだ。

 やってきた山盛りの焼き鳥を手に取り、うまい、うまいと頬張るその姿は、とても幸せそうだった。


「で、今日はどうしたんすか?」


 ねぎまの山がなくなり、高級酒の一杯目を飲み干したところで、尋ねてくる。


「もう少し食べてからでもいいぞ」

「いえ、俺にとってはこっちがメインなんで」


 本当に感情を隠さないヤツだ。


「ああ、実はな――」


 心の中でを苦笑をしつつも、ユジュンは語り出す。

 ここ数ヵ月の変化と、今の気持ちを。



----


 

「ダイジョブじゃないっすか?」


 部下は、そう言った。


「人間、そんな簡単に腐んないと思います」

「そうだろうか?」


 ユジュンは今、罪を犯している。

 法律で禁止されていることではないし、宗教的な拘束力も韓国では強くない。

 だが、まぎれもなく罪だ。


 倫理観を排除する最大の引き金は、『経験』だと考える。

 例えば、『赤信号をわたる』という違反行為を、おそらく、国民のほぼ全員が平然とやってのける。

 彼らは、『信号を無視する』という行いを幼少期のどこかで経験しており、そして、『無視しても怒られなかった。危険な目にあわなかった』という成功体験へと繋げているはずだ。

 それをきっかけとして、彼らの中で、『信号機を守らなければならない』という倫理は排除され、交通違反の常習者へとなっていく。


 であるならば、ここに一つ疑問が生じる。

 人生で一度も赤信号をわたらなかった者は倫理観も正常なままであり、今後も一切、赤信号をわたることなく生涯を終えるのではないか。

 極端な話、一度たりとも罪を『経験』しなかった人物は、潔癖のまま一生を過ごせるのではないか。


 つまり何が言いたいのかというと、不倫を『経験』してしまったユジュンは倫理観の口元がゆるみ、その後もくり返してしまうのではないかということだ。


 しかし部下は、否であると言った。

 大丈夫だと言った。

 なぜ?


「だって、『ヤバいな~』ってときは赤信号止まれるでしょ? 不倫の方も、ヤバくなったら止まれるんじゃないっすか?」

「……そうだな」


 かなりあっさりと、得心がいった。

 例えば急に、妻が帰って来ると言い出したとして、例えば例の風俗嬢が、マフィアなどの黒い組織と関わりがあると判明したとして、自分はあっさりと身を引いて、普通の生活に戻れるであろうことが簡単に想像できた。

 想像だけなら。


「なら、そんときが来たらやめればいいんじゃないっすかね」

「…………そうだな」


 ユジュンは、肩透かしを食らったような間抜けな顔になる。

 そうか。それでいいのか。

 彼の悩みは、あっという間に解決する。


「…………」

「なんか、釈然としない顔っすね」


 不完全燃焼だ。

 問題は解消されたのに、スッキリしない。自分を嫌う気持ちが抜けない。

 肝心なことを見誤っている気がする。


 今、胸にわだかまっているざわめきは、堕落していくことへの不安。

 けれど、それだけではない気がする。では何だろうか。


 自問自答してみる。

 そして、すぐに思い至った。


「俺は、完璧でいたかったのかもしれない……」


 理解した。

 自分は、赤信号をわたらないような人間でいたかったのだ。


 学業も、仕事も、人間関係も、何もかも優秀だと評価されてきた。

 だから、人格も優秀でありたかった。

 罪を犯さず、汚れ一つない真っ白な存在でありたかったのだ。

 そうあれなかったことを受け入れられず、自分で自分を責め続けていたのだ。


 部下は、ポカンと口を開けている。

 関心半分と、驚き半分が混ざり合ったような顔だ。


「先輩は自分に超厳しいっすね」

「そんなにか?」


 ちょっと引いている彼に、力なく笑いかけた。


「ええ、それはもう。超が三コつきます」


 つくねを一本手に取り、部下は口に放り込む。

 肉を噛み砕きながら、ユジュンの言葉ごと咀嚼している。

 しばらくそうしていると、ついにゴクンと飲み下した。


「つまりアレっすかね。模試で目標点取れなくてガッカリ、みたいな」


 言いえて妙かもしれない。

 彼は難しい感情を、実に端的に言い換えてくれた。


 ユジュンは、自分が設定した高い到達目標を達成できなかった。

 そんな自分に、少しだけ失望している。

 それだけのことなのだ。


「お前、わかってくれるのか?」

「いえ、わかりません! 俺、テストがダメでもあんまへこまないタイプだったんで!」


 力強く無理解を表明された。

 だよな。


 気の抜けたような苦笑で、息をついた。

 確かに、彼は精神的に強そうだ。

 悲しんだり、落ち込んでいる姿はしっくりこない。


「けどまあ、色んな人の相談に乗ってきたんで、俺はわかんないっすけど、なんとなく想像はつくっすよ」


 長い前置きを言う。

 彼はやはり、飄々と笑っていた。

 しかし声には、わずかな真剣みと優しさを孕んでいる。


「寂しかったんなら、そりゃ仕方ないっすよ」


 ……。


 そうか。

 仕方ないのか。

 俺以外のヤツも、そう思うのか。


 じんわりと、心が暖かくなっていく。

 理解されないものだと思っていた。自分でも理解していなかった。

 寂しいなんて自分の都合だ。言い訳に使うなんて情けない。甘えているだけだ。

 そんな風に、責められるかと思っていた。


 共感してもらえるのか。

 寂しかった、は、不倫の動機として十分だと、言ってもらえるのか。

 体が軽くなる。


 ……。

 なら、仕方ないよな。



 

 薬指の、結婚指輪を見る。

 ――――。



 

 遡るは、大学時代の記憶。

 

 



 

 ――私、許婚がいるのよ。

 ――大学を卒業したら、結婚するんですって。

 

 ――でも、あなたの方が好きみたい。

 

 ――兵役なんて、なくなればいいのに。

 ――そうすれば、あなたがもらってくれるでしょう?

 ――終わらないかな、戦争。

 


 

 ――……指輪?

 

 ――卒業なんて待つ必要はない。

 ――俺と、結婚しよう。

 ――家を、捨てるんだ。

 

 ――障害は多い。

 ――でも、幸せにする。必ず。

 

 ――はい……!

 

 

 



 ――――。

 薬指を隠した。



 

 仕方ないんだ。

 

「ありがとう」

「?」


 告げられた感謝に、部下は疑問符を頭に浮かべる。

 本当に迷っているとき、「大丈夫」の一言が、ものすごく頼もしく感じるものだ。


 目の前の後輩は、自分は共感能力が低いと言っていた。

 実際、さっぱりとしている彼は、多くの人がつまづくような出来事を前にしてもケロリとしているのかもしれない。

 だからこそ、なぜユジュンがこれほど沈んでいるのかも、いまいち理解できなかったはずだ。


 それでも、話を聞いて、一緒に考えて、彼なりの言葉を伝えてくれたことが嬉しかった。

 独りじゃないと、思えた。


「俺は、これでいいんだ」

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