第九話 Current 31℃の微熱

 深夜の零時すぎ。

 イェナは、店の外に立っていた。


 夏の匂いがする。

 じめじめと鬱陶しい空気は、昨日の雨のせい?

 それとも、彼女の心が湿っているせい?


 客引きだとオーナーには伝えたが、そんなものは建前だ。

 暗く沈むような瞳は未亡人のようで、男を待っているのだと静かに教えてくれる。


 実に、実に女々しいことだ。

 ビジネスの線引きもできず、ただ一人の客に執心する痛々しい女。


 一番反応がよかったからと、髪の色を黒にして、

 服装もその客の好みに合わせて、

 はた目にも、さぞ滑稽に映ったに違いない。


 もう来ないのはわかりきっている。

 だというのに、不安で、不安で、しかたない。


 タバコを欲した右手が胸ポケットを探るが、途中で止める。

 もしかしたら、来てくれるかもしれないから。

 汚いにおいで、嫌われたくないから。


 少しでも、綺麗でいたい。

 もはや色など褪せてしまって、錆までこびりついている自分だけれど、ゴミ箱に捨てられることに耐えられるほど、強くはあれない。


 夜の街は、祭りのように賑やか。

 閑散としたこの店は、耳鳴りがするほどに静か。


 唐突に、虚しさが襲ってきた。

 やめよう。


 ちょっと優しくされたくらいで、みっともない。

 どうせもう、人並みの愛情なんて望めないのだから。

 私のことなんて、みんな嫌いに違いないのだから。


 悲しくなって、うつむく。


 店に戻ろうと、きびすを返そうとしたところで、

 背中に影が差す気配がした。


「こんばんは」


 跳ねるように、顔を上げる。


 背の高い男がいた。

 今日も暑かったというのに、生地の厚そうなスーツを崩さずに着ていて、

 精悍な顔色からは、少し疲れが見えて、

 華やかに微笑んでいる。


 また会えて嬉しいと、言われている気がした。


 体がひとりでに動いた。

 両腕を、彼の腕に絡める。


「会いたかった」


 小さく、細い声で呟く。


 この距離でなければ、絶対に聞こえない。

 ともすれば、この距離でも聞こえないかもしれない。

 死別した想い人と再会したような、声。


 彼の顔を、じっと見つめる。

 込み上げてくる感情に、驚きはなかった。

 自分が思っているより、ずっとずっと、恋しかった。それを自覚しただけだ。


「……!」


 一方で、彼は驚いているようだった。

 目を見開いて、やがてそれは、優しい慈しみに変わる。


「俺も、会いたかったです」


 言葉一つに、心が揺さぶられる。

 もっと早く素直になればよかった。

 イェナは、生まれて初めて、人を愛している。



---- 

 

 

 彼はまたよく来るようになって、それから、少し話をするようになった。

 互いの呼び方は相変わらず。

 けれど、会話から鉄のような無機質さはなくなった。


 じくじくと、彼の存在が毒のように染みこんで、日常になっていく。

 一枚、一枚、本のページをめくるように、彼の内面が見えてくる。



 

 彼は、

 誠実で、

 責任感があって、

 誇り高くて、

 案外気さくで、

 喋っていると楽しそうで、

 饒舌で、

 お酒が好きで、

 意外にもファッションにうとくて、

 少しプライドが高くて、時々偉そうな感じが鼻につくけれど、

 隣にいると居心地がよくて、

 惹きつけられる魅力がある。

 そんな人。



 

 ある日、ビニール袋いっぱいにたくさんの食材を詰めて、彼はやって来た。


「野菜、ですか?」

「ああ、君は偏食すぎる。食べるといい」

「ありがとうございます」

「それからカルシウムも摂れ」

「ふふ、はい」

「タバコも控えることをすすめる」

「……」



 

 ある日、少しだけ不安になって、尋ねてみた。


「タバコを吸う女は、嫌いですか?」

「そんなことはないが」

「それなら、よかったです」

「何か不安なことがあるのか?」

「いえ、そういうわけでは」

「なら、誰かに何か言われたか?」

「え、ええっと……」

「困ってることはないか?」

「……」




 ある日、イェナが早めに仕事を終えた日。


「気をつけて帰ってくれ」

「はい、また明日」

「夜道は危険だ」

「はい」

「……送っていこうか」

「……」

「すまない、出すぎた提案だった。忘れてくれ」



 

 一番意外だったこと。

 彼はどうも、尽くすタイプらしい。


 日を追うごとに、距離が近くなるほどに、愛情深く、顔色が優しくなっていく。

 儒教の思想が根深く、未だに年功序列や男尊女卑を謳う者も多くいる韓国では、あまりにも珍しい。


 ふふ、かわいい。

 そして、薄気味悪い。


 どうせすぐ、裏切るくせに。



 

 いけない。

 優しくされるほどに、相手のことを疑ってしまう。

 

 イェナはもう、人の信じ方を忘れていた。

 

 この関係は、きっと長く続かない。

 あと一ヵ月もすれば、捨てられる。


 捨てられたって、別にかまわない。

 そうやって、心に保険をかけていないとやっていられない。


 別に彼じゃなくてもいい。

 愛情のある言葉をくれるなら、誰だっていいんだから。



 

「指輪は……外してくれないんですか?」

「……」

「……」

「……それだけは、できない」




 ほらね。

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