第八話 絶対零度
豹変とは、このことだ。
母は見たこともない形相で、聞いたこともない剣幕で、ヒステリックに喚き散らした。
こっちののどが痛くなりそうな、金切り声だった。
裏切り者、金を返せ、クズ、能無し、アンタなんかに期待したのがバカだった。
浴びせられるのは、途切れることのない罵詈雑言。
「え、え……、え?」
イェナが初めに感じたのは、怒りではなく恐怖。
次の瞬間には、ナイフを振り回して襲ってきてもおかしくないほどの狂気を感じる。
逆らってはいけないと、本能が告げている。
そうでなくても、抵抗など考えるまでもなく、ただ震えていた。
アンタのせいで、アンタのせいで。
そう叫びながら、母は現在の家庭の現状について、暴言混じりに語り出した。しかし、激情に任せて出た言葉は意味のある文にならず、何とか単語を拾って把握する。
寮、高い、闇金、お父さん、職なし、近所、大恥、夜逃げ。
知ったことか。
寮が高いというのなら、相談してくれればよかった。ヤバい金に手を出したことに娘の事情は関係ない。
近所に「娘はいずれ国の大スターになるから」と、勝手に大見栄切ったのは母だ。それが叶わず馬鹿にされたからといって、そんなのは自業自得だ。
だいたい、アンタが着ているその服は何だ。ハンガーで吊るしてあるものも随分と立派なものだらけじゃないか。自分のせいで破滅したのに、まだ散財をやめないなんてどういう了見だ。
冷静に考えれば、反論できる要素はいくらでもあった。
ただこのときは、情報の密度に潰されて正常な思考もままならなかった。
ドラマの中でしか見たことがないような、テンプレートな家計の崩壊。それが今、自分に降りかかっているという現実を、どうしても受け入れることができなかった。脳が理解を拒むのだ。ただ、放心する。
ひどい挫折をしたばかりで、心は荒んでいた。
勝ち気で、自信家で、特別だと信じて疑わなかった自分を、真っ向から否定されてきたばかりだったのだ。信念が揺らぎ、脆くなっていった。
「ごめ、んなさい……。私が悪かったです。実力が、足りなかったから……」
耳障りな罵声を聞いて、強迫に負けて、わけもわからず非を認めてしまうほどに、弱っていた。
下手に出たのをいいことに、母の舌はさらに回る。
どうして、こんなボロ雑巾のような扱いを受けているのだろう。
事務所から見捨てられて、手放しで励ましてくれるなんて思っちゃいなかった。でもいつかみたいに、温かいご飯を作って出迎えてくれると、そう思っていたのに。
ああ、そうか。
イェナは、母の本心に気づいた。
母は、アイドルとしての娘が目当てだったのだ。
娘が稼いだ大金で、私腹を肥やしたかったのだ。大物になった娘の名前を利用して、マウントを取りたかったのだ。娘が得た地位で、ヒエラルキーのトップになりたかったのだ。
帰って来るたびに大喜びしていたのは、愛娘に会えたからではない。アイドルに近づいていく娘を見て、自身の汚い野心の成就を感じて、上機嫌になっていただけだ。
ふつふつと、怒りを思い出す。
許せない。
承認欲求の豚め。
血が上った頭で食ってかかろうとして――、
「どうせ顔のよさにかまけて、余裕ぶって、まともな努力もせずに怠けてたんでしょ!? 勘違いすんじゃないわよ!?」
目の前が、真っ暗になった。
「……………………ひどい…………」
正しい努力はできなかったかもしれない。
プロデューサーが言うには、何か大切なことを見失っていたらしい。
だけど、それでも、これまで必死に、誰よりも必死に、頑張ってきたのに。
結果は出なかった。それだけは、それだけは仕方のないことだ。認めたくないことだけど、競争だから。負けてしまったのだから。だから、せめて、その過程くらいは、褒めてほしかったのに、それすら叶わないなんて。
だったら、この十年間はなんだったんだ。
どんなに悔しくても、バカにされても、恥ずかしくても、焦っても、うまくいかなくても、がっかりされても、叱られても、痛くても、辛くても、やめてしまいたくても、いじめられても、友達がいなくても、頑張って頑張って頑張って、頑張ってきたのに。
仕事がなくても、テレビ局が横暴でも、評判が悪くても、嫌な噂が流れても、ファンに見放されても、執拗な殺害予告があっても、メンバーとの衝突が続いても、独りになってしまっても、報われなくても、耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて、耐えてきたのに。
誰も、私のことなんか見てくれない。
「アンタがアイドルなんて夢見なければ、アタシはまだあの家に住んでたのに……! これ以上、アタシの足を引っ張らないで!!」
得たものなんて、何もない。
床にあぐらで座りこんでいる父は、ずっと無口だった。
何年も前の新聞を開いて、知らないふりをするようにしながら。
「恥知らずめ」
二時間も、三時間もかけた母の癇癪が終わって、ようやく喋った一言目がそれだ。
背を向けたまま、こっちの顔を見ない。
抑揚のない声で続けた。
「だから俺は、ずっと反対していたんだ」
嘘をつくな。
うまくいっていたときは、母と一緒になって喜んでいたくせに。
言ってることがメチャクチャだ。
「借金はお前が払え。こっちに散々迷惑をかけておいて、まだ金を取ろうだなんて思うなよ」
父も似たようなものだった。
イェナはこのとき初めて、両親がクズなのだと知った。
「ざまぁみろ」
夜遅くに帰ってきて、事情を知った妹は、開口一番にそう言った。
「ざまぁみろ! ざまぁみろ! ざまぁみろぉぉっ!!」
あっはははははは!
心の底から、楽しそうに笑っている。
嗜虐的で、見下すようで、表情は歪み切っていて、興奮している。
ハイになっていた。抑えていたものが決壊したように、ずっとこのときを待っていたと言わんばかりに、笑っている。
二つ年下で、十八歳。
何年も会っていなかった妹は、変り果てていた。
イェナが知っている、明るくて、無邪気で、優しい妹はどこにもいない。
どうして、こんな風になってしまったのか。
どうして、自分は貶されているのか。
どうして、どうして。
「これでアタシと同じになったね。ほんっといい気味!」
部屋の壁際まで詰め寄られた。逃げ場を求め、改めて妹を見る。
黒を基調とした、スタイリッシュな服装。
一見するとそのような印象だが、何年もファッションについて勉強していたイェナにはわかる。あきらかに安物の生地だ。色づかいや丁寧な処理で目立たないが、傷やシミもある。彼女でなくても、服装に気をつかうような人であれば、誰でも察するだろう。
小さいバッグや、その中身についても同じことが言える。
化粧も最低限にしか施されていないが、一部、右の頬にだけ厚塗りの形跡があった。注目するとそこには、大きな切り傷のあとが。
「……どうしたの、それ?」
恐る恐る、薄氷を踏むように、尋ねた。
のどが干上がる。これを聞いてしまえば、自分は必ず深い傷を負うという、強い予感があった。けれど、聞かずにはいられなかった。
「どうしたって!? ああ、これね。何年か前にね、ケガをしたの。顔に! ケガを! したの! 女にとって命より大事な、顔にね!」
妹は笑みを消し、怒声を上げる。
その口元が震えているのは、不快感を抑えているから。今思い出しても怒りが湧いてきて、どうにかなってしまいそうな情動を、抱えているから。
「ストーカーみたいなキモい男にね、切られたの。ナイフでざっくりね。けど、それはいいの。死ぬほど痛かったけど、アイツは捕まったし、医者もキチンと処置すれば、あとは残らないって言ってたから」
冷静な声で、説明するように、丁寧に伝えてくる。
そのことが、むしろ恐ろしい。
邪悪な顔色から、復讐者のような、後ろ暗いものを感じた。
お前の罪を思い知らせてやると、全身の気配が伝えてくる。
「でもね! お母さんはそれを許さなかった! 『お前はイェナと違ってブサイクなんだから、傷一つでギャーギャーわめくんじゃないわよ』って、そう言われたの!」
心臓が、縮んだ気がした。
「アンタを育てる金欲しさのせいで、アタシの傷はもう一生消えない。治るはずだったのに。治るはずだったのに……っ!」
韓国において、顔の良し悪しというのはあらゆる評価に直結する。
整形は、歯の矯正のように当たり前に行われる。整っていない部分は、「歪み」として認知されるからだ。もちろん、傷も歪みの一つ。
容姿の重要度がより高い芸能界に身を置いていたイェナには、その深刻さが痛いほど理解できた。
唇が震える。歯がガチガチと音を立てて、噛み合わない。
「……ごめ、ごめんなさい」
よくよく考えてみれば、イェナは何一つ悪くない。
非は母にある。
しかし、謝るしかなかった。
罪悪感は、理屈など関係なく精神を蝕む。
「軽々しく謝んないで。アタシがどんな思いをしてきたか、知りもしないくせに!!」
前半は冷ややかに、後半は烈火のごとく叫ぶ。
安定しない情緒で、妹は最大の核心を吐き出した。
「アンタのせいで、アタシは高校にも行けなかったのよ!?」
知らなかった。
練習生の寮は、最高の環境と引き換えにものすごく金がかかる。
曲がりなりにもアイドルとして活動し、金を稼ぐたびに理解していったことだった。
中流階級止まりのこの家で、まかなえる額ではない。
ではどこから?
妹の学費や、生活費から削られていたのだ。
母は長女をアイドルにするために、次女の人生を放棄した。
「中学はクソみたいなとこに入れられたわ。高校には行かせないって、そのときには聞かされてた。でも、アタシは高校にも大学にも行きたかったし、ちゃんとしたとこに就職して一人前に生きていきたかった! だから必死で勉強したの! 教師もやる気がないような最低の環境で、予備校にも行けないで、それでもがんばって、有名な高校に特待生で行けるような成績を取れば、考え直してくれるだろうって! なのにアイツ、アイツはっ! 鼻で笑ったのよ! クソ、クソ、クソ! 今でも一言一句思い出せるわ! お母さんはね、こう言ったの。『勉強ができたくらいで、偉そうに。アンタにイェナみたいな、大金を稼ぐ可能性があるわけ!? たいした能力もないクセに、親をゆすろうだなんて図々しいにもほどがあるわ!!』ってね! ……ああ、ああ、あああっ!!」
イェナを壁に押しつけ、胸ぐらを掴む手からは血が流れている。
手を強く握りすぎて、自傷している。
こっちを睨む目には、憎しみが宿っていた。
のどを潰すような叫び声は、そのまま妹が受けてきた仕打ちの表れだろう。
「アンタのお遊びのせいで、もうアタシの人生詰んでんだよ!」
もう嫌だ。
もう聞きたくない。
なんでこんなことになってるんだ。
なんでこんな目にあってるんだ。
私はただ、ただ頑張っていただけなのに。
ごめんなさい、ごめんなさいと、それだけをくり返す。
それ以外、何も言えない。
アンタがいなければ幸せになれた、アンタがいたせいでまともに生きていけない、アンタが悪い、アンタのせい、アンタが嫌い、アンタが憎い。
そんな言葉、何時間も、何時間も、聞かされ続けた。
やがて疲れて、心の動きが鈍くなって、妹の言葉が耳に入らなくなって、空白になった頭で、ふと思う。
イェナのせいでもあったのだ。
彼女は自分にばかりかまけて、家族に向き合うことをしてこなかった。
当たり前にするべき歩み寄りを、蔑ろにしていた。
自分は特別なのだから、特別に扱われるべき。そんな都合のいい考えが、心の底にあった。
――だというのに君は、自己中心的すぎた。
プロデューサーの最後の言葉の意味が、今ならわかる。
この家は、最低な人間の集まりだったのだ。
母の本質は見栄っぱりで、父の本質は無責任で、姉の本質は自分勝手。
妹は、ただただかわいそうだった。
自分の悪いところばかりを、ずっと見せつけられている。
美しいと信じていたその内面は、あまりにも醜くてグロテスクだった。
潰れてしまいそうだった。
とうとう耐えられなくなって、転がるように逃げ出した。
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雨が降っていた。
どしゃ降りの雨だった。
道路が汚水で沈み、くるぶしあたりまでを浸す。
バラバラという雨の音と、自分の足音しか聞こえない。
とにかく走った。
あの家にいたらおかしくなるから、
あの家が怖かったから、
少しでも遠ざかりたくて、でたらめに走った。
無意識に中心街の方に向かっていたのは、きっと未練があったから。
背の高いビルが見えてきたあたりで、足が重くなって、歩き始める。
見慣れた景色が近づいてきたあたりで、足が痛くなる。
とうとう膝が悲鳴を上げて、一歩も進めなくなった。
崩れ落ちるように、座り込む。
腰まで水につかる。
さすがにみっともないので、雨宿りできるところへ移動しようと思ったが、痛みがひどくて立ち上がることすらできなかった。
酷使しすぎた筋肉が、痙攣している。
ずぶ濡れのまま動けないその姿は、あまりにも惨めだ。
いかに彼女が天性の容姿を持っていても、それを帳消しにしてあまりある。
――これから、どうしよう。
分厚い雲が覆う天を見上げて、ぼんやりと考える。
思考の海に、色を探す。
真っ暗で、何もない。
やりたいことが思いつかない、ということではない。
もう手遅れでどうしようもない、ということだ。
アイドルを続ける?
無理だ。業界からは見限られている。
家に帰る?
無理だ。あそこにいても未来は無い。
じゃあ、普通に働く?
無理だ。学歴がない。
――あ、あれ?
思い浮かぶ選択肢が、否定材料によって、一つ、一つ、潰れていく。
あれもダメ。これもダメ。
四方が塞がり、八方が塞がり、ゆるやかに、首を絞められているような感覚に陥る。
恐怖で頭が冴えて、今度は必死に考える。
結果は変わらない。
あれもダメ。これもダメ。
――――ぁ。
冷え切った体でもはっきりとわかるくらい、背中から汗が噴き出している。
じわじわと、焦りが募って鳥肌が立つ。
じわじわと、絶望が募って青筋が立つ。
韓国は、超がつくほどの学歴社会だ。
長らく続く不景気の影響で仕事はなく、高い学力がなければ職に就けない。自身を養うこともままならない。
受験戦争の敗者は、自動的に貧困層にカテゴライズされる。
そういう残酷な社会。
イェナは高校を中退した。
低学歴の者たちよりも、さらに下のキャリア。
未来など、無い。
――これでアタシと同じになったね。
妹の言葉が、突き刺さる。
ふっと、全身から力が抜けて、うつ伏せに倒れた。
なんと、愚かだったのだろう。
自身の特別性に自惚れて、
後先なんて考えないで、
業界のことすらも理解してなくて、
社会の在り方すらも知らなくて、
的外れな努力ごっこに酔って、
頭が悪い。頭が悪い。頭が悪い。
文字通り、泥水をすする。
涙が出た。
「わた……っ、わたしはぁ……! どうして、こ、こん、こんなにぃ! バカなんだ……!!」
誰もいない交差点に、慟哭が響く。
身のほど知らずでごめんなさい。
私が間違ってました。
顔なんていらない。スタイルなんていらない。
こんな思いをするくらいなら、もっと賢く生まれたかった。
背を丸めてうずくまって、アスファルトに拳を叩きつけて、小さい、小さい。
梅雨の夕刻。
大気が移ろい、生態が乱れる、変容の季節。
ソン・イェナが、輝きを失った日。
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