第七話 Past 43℃の焦燥
高校生、前半。
プロダクションから、正式にデビューが決まった。
七人組のユニットで、メンバーはそこそこに見知った顔ぶれ。
もちろん、センターはイェナ。
そのときの母の喜びようといったら、それはもう大変だった。
イェナよりも興奮した様子でずっと落ち着かず、応援してるからね、ご近所さんにも報告しなきゃ、としきりに騒いでいた。
一緒になって感動してくれたことが嬉しくて、喜びが二倍になったように思えた。
口数の少ない父も、このときばかりはよく喋った。
俺は最初からわかっていたけどな、となんだか得意げだったのをよく覚えている。
すごく安心した風だった。もしかしたら、娘の気持ちになって不安だったのかもしれない。
心配性だな、もう。
妹は、複雑な表情をしていた。
特に深く関わることはせず、ただ一言、おめでとう、とそれだけ伝えてくれた。
姉への劣等感かもしれない。
ならば、あえて触れることもない。構っている暇はない。
初めての仕事、初めてのグループ、初めての単独ライブ。
新しい世界に飛び出したのだという実感が、じわじわと湧いてくる。
レッスンのスケジュールは随分と楽になったが、考えることは五、六倍に増えた。
ステージのこと、ファンのこと、自己プロデュースのこと。
まだまだ余裕などない。
だが、その忙しなさが心地良くて、もっと大きなワクワクがあった。
熱中とは、このことか。
彼女は、アイドル業にハマっていた。
それに応じて、意識に変化が一つ。
駆け出しとはいえ、自分はもうプロで、金を稼いでいる。
学業など、必要だろうか。
いや、ない。
今後イベントや仕事があるたびに、もっともっと忙しくなるだろう。
それらに全力で打ち込むためには、むしろ邪魔なものでしかない。
ペンを置き、教科書を閉じた。出席日数も減った。
成績は、さらに落ちる。
高校生、後半。
グループに暗雲が立ちこめる。
簡単な話が、思ったより売れなかったのだ。
零細の事務所や地下アイドルが聞けば、顔を真っ赤にして怒り出しそうな言い分である。自分たちよりよっぽど仕事があるくせに、と。
しかし、韓国一の大企業が送り出したグループで、多くの注目を集める中で鮮烈なデビューを飾ったにしては、微妙、と言わざるを得ない。
イェナは焦った。
自分に自信があった。
過酷な練習生時代を生き抜き、己を磨き続けた彼女は、「完成」の二文字がよく似合う。
先にデビューし、今ヒットを飛ばしまくっているライバルたちをも圧倒できる。
その自負と、プライドがあった。
こんなところでくすぶっているなど、おかしい。
責任感と自尊心の間で、揺れる。
覚悟は、すぐに決まった。
まだ足りないというのなら、より輝くだけだ。
学校を辞めて、できた時間を練習に費やす。
止まってなどいられない。
自分が売れることだけを考える。それ以外は捨てる。他のことなんて些事だ。
家で何かトラブルがあったらしいが、気にしない。
そのせいで母が少し荒れたらしいが、気にしない。
父が少々苦労したようだが、気にしない。
妹が反抗期なようだが、気にしない。
もっと輝け。もっと目立て。
この程度では埋もれてしまうというのなら、もっともっともっと、目立つんだ。私が。
人の目を引くことをする。そのためなら、何でもやった。
グループメンバーも同じ気持ちだと思っていた。同じだけの努力をすると信じていた。
なのに、彼女たちは反発した。
苛立ちが募る。
なぜ全力でやらない。なぜ本気を出さない。
私の言う通りにしろ。さもなければ、あっという間に消えてしまうぞ。
何度も、何度も、衝突した。
気にしない。
ひたすら、前だけを見る。
私を! 私を見ろ!
努力は、報われなかった。
グループは、ほどなくして解散した。
彼女たちを覚えている者は、今はもう、ほとんどいない。
十九歳、無職。
練習生に戻ったイェナは、それでも折れなかった。
絶対に返り咲くという意志を胸に、また走り始める。
解散が決まった当初は、それはひどく落ち込んだものだ。
自信にはひびが入ったし、売れたライバルを妬みもしたし、家族に何と説明すればいいかわからなかった。
けれど、諦めるわけにはいかない。
負けたくない。負けたくない。
脳が焦げる。心臓が発熱する。
ただ、練習生とはいえ一度は界隈に名を売った身。
フリーのタレントとして席を置くことを許され、細々と仕事をしていた。
その金で食いつなぎながら、挑み続ける。
アイドルとしてすごした三年間の経験は、他の練習生との差を確たるものにしている。
ビジュアルだけではない。技能も、所作一つをとっても、頭一つ抜けている。
学校に行かない分、家に帰らない分、練習量はこれまで以上に確保できる。
大丈夫、すぐにまた、デビューの通達が来る。
うまくやれてる。うまくやれてる。
なのに、この手ごたえのなさは何だ。
以前はたしかに、高い壁を、山を登っていた。乗り越えた達成感もあった。
今、空気を掴んでいるように、何も感じない。レベルアップしているはずなのに、空回っている気がしてならない。
オーディションをいくつも受けたが、芳しい結果はない。
大人たちの失望を感じる。
もう見られていないと感じる。
強烈な焦燥が、襲う。
母からは、頻繁に連絡がきた。
多いときは一日に三回以上、少なくとも一週間に一度。
大丈夫か、仕事はありそうか、次のデビューはいつ頃になりそうか。決まってそんな内容。
不安が伝わってくる。
うるさい。邪魔をするな。やめて。こっちまで、不安になるから。
見え始めている現実から、全力で目を逸らして、走る。
二十歳、無職。
ある日。
唐突に、契約解除を言い渡された。
つまり、クビである。
「え?」
呆然と、する。
どうして。まだ年齢制限にはずっと早い。まだ何も、成し遂げてないのに。
「君にはもう可能性を感じない。残念だ」
プロデューサーの一言だ。
どうも近年、韓国全体の経済が大きく傾いたらしい。
そんなことは知らなかったし、どうでもいいが、問題は次。
伴って、アイドル業界も市場の縮小を余儀なくされた。それはトップの企業であっても避けられない。だから、もうヒットの芽がないお荷物は切り捨てる。ということらしい。
意味がわからない。
「アイドルとは、自分自身をファンが望むように偽り、変化するものだ。だというのに君は、自己中心的すぎた。自分が前に出ることばかりを考えていた。今の今まで気づいていなかったのなら、素質が無かったということだ」
十年。
人生の半分をかけたイェナの夢は、あまりにも虚しく潰えた。
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寮にもいられないから、家に帰る。
強く頭を打ったときのような、おぼつかない足取りで。
帰るのには、すごく時間がかかった。
なんと、家族は彼女の知らない間に引っ越していて、住所が変わっていたのだ。
それも、かなり遠い。
バスを乗りつぎ、二時間ほど。
都心から大きく離れて、廃墟になった団地がひしめくようなさびれた町に、ボロいアパートがあった。その二階の一部屋に、「ソン」と書かれた表札がある。
これが家?
困惑する。
記憶によれば、父は優良企業に勤めるサラリーマンで、豊かな稼ぎがあった。以前の家は、それこそ勝ち組と呼ばれる人たちが住むような大きさがあったはずだ。
いったい何があった。
腹の底に緊張が走り、体温が急激に下がる。
恐る恐る、ドアノブに手を伸ばす。
「――ただいま」
母がいた。
いつも褒めてくれた、母が。
そう思った瞬間、イェナは倒れていた。
尻もちをついて、頬に鋭い痛みがあって、ビンタを食らったのだと気づいた。
「アンタのせいよ……!」
母の目は血走っていた。
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