第六話 Past 38℃の情熱

 イェナは、韓国トップのアイドル事務所の練習生として所属することとなった。


 練習生は、みんなレベルが高かった。

 容姿は一定水準以上。それに加えて、トークや演技など、何かしら一芸を備えている者がほとんど。


 ここに所属しているのは、ただの少女ではない。

 数千、数万という呆れるような倍率の中、これまで数多くのトップアイドルを輩出してきたプロダクションの幹部たちに、光るものを見出された少女なのだ。

 地域の小学校とはわけが違う。


 だがその中にあっても、なお、イェナは特別だった。


 この時点では、彼女の技能は下から数えた方が早かっただろう。

 それでも、彼女が一番目立っていた。


 なぜなのか。言うまでもない。

 ものが違う。


 有無を言わさぬビジュアルの一点特化。

 培った経験など小細工、後付けだと一蹴するような、芸能界において圧倒的な才能。

 ここに歌とダンスが加われば、最強なのではないか。

 大人たちは口角を上げ、ライバルたちは大きな絶望を覚えたという。


 練習生の中でもぐんぐん昇格し、あっという間にトップチームでレッスンを行うようになった。

 これもやはり、当然の結果だ。


 しかし、そこで大きな壁にぶつかった。

 素晴らしい才能、素晴らしい素質。

 それらを持ち合わせても、トップチームには手も足も出なかった。


 上に行けば行くほど、意識が違う。練習量が違う。情熱が違う。

 その差を、まざまざと見せつけられた。

 互いが互いを睨み合い、ひりつくレッスン室で、揉まれ、見せ場を奪われ、淘汰される日々だった。

 それは彼女が体感した、初めての「敗北」だったかもしれない。


 負けたことはある。

 イェナより足が速い子は何人もいたし、イェナより勉強ができる子も何人もいた。

 けれど、真の意味での敗北は初めてだ。

 無力感とやるせなさに苛まれ、目を閉じれば屈辱が蘇ってくるような、悔しさで奥歯を噛むような、どうしようもない、初めての敗北。


 負けるもんか。

 彼女は奮い立った。

 私が一番になるんだ。

 彼女は折れなかった。


 プロダクションがソン・イェナを採用したのは、美しさだけが理由ではない。

 負けん気の強さ。それこそが決め手であった。


 小学五年生のこの日から、全霊の努力が始まった。



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 中学生、前半。

 日々が加速する。


 この時期から、練習生は寮に入ることを推奨される。

 よりハードながら、よりステップアップの望める環境に身を置けるからだ。

 もちろん入る。

 費用は高額だったが、母は快く負担してくれた。


 そこでの生活はまさしく、地獄と形容するのがふさわしい。


 まず知識。覚えることが山ほどある。

 業界にある様々な礼儀作法や、暗黙の了解を習慣化すること。


 先輩への対応はどうするか、責任者への態度はどうか、誰に一番に挨拶をすればいいのか、何がバッドマナーにあたるのか。

 それらを教えられ、または自分自身で感じ取りながら、寮の中で実践する。

 常に監視され、テストされている感覚。

 間違えれば減点されるし、減点されれば降格する。振るい落とされる。


 アイドルとしての振る舞いも習慣化すること。


 例えば、バラエティ番組に出たときや、ライブのMCや、ファンとの握手会のとき。それぞれどんなことを喋って、どんな仕草をするのがいいか。

 それらを教えられて、自分自身で覚えて、寮の中で実践する。

 これもテストされるし、間違えれば減点される。


 どちらも辛口採点で、一瞬だって気は抜けない。

 レッスンの合間だろうと、休憩時間だろうと。


 次にスケジュール。

 練習生の一日の予定は、コーチによって綿密に決められている。

 朝は五時に起床、就寝は夜の十一時。

 遅刻なんてあり得ない。時間すら守れない下っ端が、いざデビューして現場でどう扱われるかなど、考えるまでもないことだ。


 レッスンは過酷。

 小学校のときよりも二段階ほど高難度なことを求められる上に、量も密度もまともではない。

 一週間に一度テストが行われ、これもパスしなければ振るい落とされる。


 歌、ダンス、ファッションにメイク。

 これらをすべてこなすことはあくまで最低条件であり、さらに一歩抜きんでるためには自主練も不可欠。

 休む時間は食事か、睡眠かしかない。


 体力をガリガリと削られ、血のような汗を流し、コーチからたくさんの罵声を浴びる。

 ひどい筋肉痛と、ボロボロのメンタルを抱える毎日。


 まだまだこんなものではない。

 食事制限、情報規制、自己分析、エトセトラ。

 求められることは百も千もある。自分より上はゴロゴロいる。


 異常な空間だ。

 ここに身を浸すのは思春期の女子中高生で、しかも全員がライバルで、全員が敵。気安い仲間など作る方が難しい。

 軍隊の方が、まだ精神衛生上マシではないか。


 受けるストレスも尋常ではないだろう。

 その矛先が、いじめに向くことも、ある。

 組織内での立ち回り方も、必然的に要求されるのだ。


 これを、学校に通いながらやらなくてはならないなど、誰が信じようか。


 その上で、上手く大人たちにアピールできなければ、評価さえ、されない。

 大多数の努力が、見る前に、切り捨てられるのだ。



 

 灼熱の日常を、ひたすらに駆け抜ける。


 練習量だけは、絶対に負けてはならない。

 その一念でひたすら食らいつき、誰よりも早くレッスン室に入って、誰よりも遅く出た。


 中学生、後半。


 早い者は、もうデビューが決まる時期。

 実際、何人かは外の世界へ羽ばたいていった。


 悔しさはある。けど、焦りはない。

 なぜなら、イェナは自分が彼女たちより劣っていることを自覚していたし、それ以上に、自分自身のすさまじい成長を肌で感じていたから。


 周囲の焦燥と劣等感が見て取れた。

 大人たちからの評価が上がっているのがわかった。


 もっと、もっとだ。

 この中の誰よりも輝いて見せる。

 先にいるヤツは追い越してやる。後ろにいるヤツは突き放してやる。

 誰よりも早く、高く、てっぺんへ。


 寝ても覚めてもアイドルのことを考え続け、それだけに集中し続けた。

 もともと悪かった成績はさらに落ちたが、目もくれない。頭が悪くなっている自覚すらなかったかもしれない。

 まさしく、一心不乱だった。


 そういえば、このときもう一つ変化があった。家のことだ。


 寮生活とはいえ、生まれ育った家に帰ることはある。

 夏休みや冬休みなどのまとまった長期休暇のときだけだったが、家族に顔を見せるのは大事なことだ。


 母は、毎回目に見えて可憐になっていく娘を見て、喜んでいた。

 愛娘が帰ってきたお祝いにごちそうを振舞うのが、楽しみなんだそうだ。

 父は、ちょっと変だった。

 元々無口だったが、さらに口数が少なくなった。

 イェナが声をかけても、ああ、とか、ん、とか、無機質なあいづちを打って、それで会話は途切れる。なんなのだろうか。


 妹は、なんだか元気がなくなっていた。

 数年前は、お姉ちゃんお姉ちゃんとあんなに懐いていたのに、一緒に遊んでいてもどこか他人行儀だった。家にいない時間が長いから、距離を測りかねているのかもしれない。


 ……物が減っている気がする。


 家具は小さくなって、食器の数も少ないような。

 そういえば、リビングには妹が空手大会で獲得したトロフィーが飾ってあったはずだが、どこへ行ったのだろう。

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