第五話 Current 28℃の平熱 Past 36℃の平熱

 あの日以来、「お客さん」は常連になった。


 ――すみません、


 二度目に店を訪れたときの帰り際、彼に声をかけられた。

 一度目はコミュニケーションを避けているような印象だったが、その日は違った。

 どこか救われたような、穏やかな顔をしていた。


 ――あなたがいついるのか、教えていただけませんか。


 変わった客だ、とイェナは思う。

 それ以来、彼はたびたび店にやって来た。

 決まって彼女を指名し、カタログには目も向けなかった。



 

 あの夜の街は、そこそこのものだ。

 都心からは遠く離れていて、田舎に片足を突っ込んでいるような場所ではあるが、アンダーグラウンドな市場の中では、人気を誇っている。

 監視の目が遠いゆえに無茶もできるとしてニッチな需要を満たしており、マニアなリピーターが多い。

 もちろん、超一流な色の都とは、雲泥の差があるのだが。


 しかし、そこそこのものはある。

 もっと外観が整っていて、もっとサービスが充実している店も、もっと安くて、もっと魅力的な女も、ちょっと探せばいくらでもいる。探さなくてもいる。


 なのに彼は、イェナのところへ来た。

 きらびやかな大通りを無視して、あの身なりならばキャッチが放っておかないはずなのに、それすら歯牙にかけずに、毎回、毎回。


 最初は、一週間に一度。

 それが、三日に一度になって、二日に一度になって、

 今では、彼女がいる日にはほとんど来ている。

 オーナーが、急ごしらえで予約制度を作らなければならないほどだ。


 そんな調子で、もう三ヵ月。

 三ヵ月も指名し続けたのは、彼が初めてだった。

 イェナはリピートを呼び込みやすい。が、それも平均して二、三回程度だ。

 圧倒的な美貌に惹きつけられる客は多いのだが、無愛想で事務的な対応に飽きて、すぐに来なくなる。


 本当に変わった客だ。

 私なんかの何がいいの?

 わからない。わからないけど、

 こんなに求められたのは、久しぶりだ。


 彼の相手をするのは心地よかった。

 過度な干渉はしてこないし、言葉遣いは丁寧だし、なんだか似たものを感じていたから。

 それに、愛着がわかりやすい。


 彼はよく唇を見てきて、よく手を握ってくるから。

 形だけ。体だけ。

 それでも何年かぶりに、つつましい幸せがあった。



----


 

 夕焼けに、イェナは目を覚ました。


 上体を起こして、かたわらにあるめざまし時計を見る。

 午後五時。少し寝すぎた。

 薄い毛布をはいで、安い布団を片づける。


 味気ない部屋だ。

 一部屋しかなくて、それも古くて狭い。

 開放的に見えるのは、何もないから。

 布団がなくなってしまえば、大きめのクローゼットと小さな食器棚しかない。


 テレビもない。

 テレビなんて、もう見たくなかった。


 特徴があるとすれば、やけに分厚いカーテンが、窓の外を遮断していること。

 日差しはわずかな隙間からしか入らず、薄暗い。

 並の収入はあるはずなのだが、不自然に質素だ。


 音もなく、光もなく、外界から閉ざされたような雰囲気。

 いや、閉ざされたのではない。閉ざしたのだ。



 

 反面、洗面所には化粧品や美容品が、ところせましと並んでいる。


 顔を洗う。

 いくつもの化粧水や洗顔料を使って、丁寧に、丁寧に。

 髪をとかす。

 明らかに既製品でないオイルやくしを使って、丁寧に、丁寧に。

 歯を磨いて、終わり。


 二十分くらいかかっただろうか。

 雑にやったつもりなのに、思いの外時間を取られて辟易する。

 習慣とは、抜けないものだ。


 六畳のリビング兼、ダイニング兼、キッチンに戻る。

 部屋着に着替える。

 ポツンと、すみの方に座る。


「…………」


 棚からタバコを一本取り、ライターで火をつけた。

 煙を吐く。


「ふぅ――――ぅ」


 長く、か細い息を吐く。


 彼は、二週間ほど来ていない。

 前回、仕事が忙しくなりそうだから予約は保留にすると言って、それきり。


 捨てられてしまったか。


 そう思った瞬間、自嘲気味に笑う。

 捨てられただなんて、おこがましいことだ。実は浮かれていたのか。

 拾われてすらないくせに。

 店に来るときも、決して外さない薬指の指輪がその証拠だろうに。


「…………」


 灰皿には、灰だけが積もっていく。

 苦しい。


 余計な執着を持ってしまったせいだ。

 そのせいで、また変な勘違いと錯覚を起こして、悲しくなる。



 

 嫌な記憶を思い出してしまった。

 思い出したくないのに。なかったことに、したいのに。



----



 ソン・イェナは、幼少の頃より特別な存在だった。


「今日からみんなの新しいお友達になる、イェナちゃんです。みんな、仲良くしましょう」


 保育施設に入って、先生にそう紹介されたとき、

 誰もが彼女を見ていた。

 大人は言わずもがな。まだ色を知らない子どもたちですら釘づけになっていた。


 美貌。

 若干四歳にして、すでに片鱗が窺える。


 ――将来は、とんでもない美人になるだろう。


 百人が百人、確信を持ってそう言った。


 子どもの容姿というのは未知数だ。

 ある程度想像することはできても、完成形は成熟してからでないとわからない。

 小さい頃にかわいいともてはやされながらも、平凡に落ち着くパターンもある。

 逆に、華がなかった幼少期から、飛躍を遂げるパターンもある。

 様々だ。


 そんな理性的な考えを、大人たちは忘れた。

 経験則などクソだとばかりに踏みつぶし、口を揃える。

 個人の価値観も、好みも、世界観も振り切って、人間に備わった本能に叩き込む、魔性。

 それが、ソン・イェナだった。


 歩くだけで褒められる。

 喋るだけで褒められる。

 そこにいるだけで、褒められる。


 物心ついたときから、両腕に抱えきれないだけの「成功」を浴びた彼女には、早い段階で高い自尊心が身についた。



 

 小学校低学年のある日。

 家でテレビを見ていた。


 大きな舞台、輝かしいライトアップ、熱狂とともに揺れるサイリウム。

 その中心には、華やかに彩り、歌い、踊る、アイドルがいた。


「ママ! 私、アイドルになりたい!」


 このときイェナが抱いた感情は、憧れではない。

「私ならなれる」というものだった。

 世界の中心にいるような全能感、あらゆる愛を一身に受ける象徴。

 私にこそふさわしい、私こそが立つべきステージだ、と。


 母は大喜びして、大賛成して、応援すると言ってくれた。

 一方で父は反対していた。だが母に説得されて、イェナ自身も頑張ってお願いして、最終的には応援すると言ってくれた。

 二つ下の平凡な妹は、お姉ちゃんすごい、と早くも興奮していた。


 そうと決まればすぐだ。

 アイドル事務所の書類選考に応募する。

 もちろん、業界トップのプロダクションへ。


 一次、二次と、とんとん拍子に面接を潜り抜ける。

 最終面接にいたっては、質問すらされなかった。


「ああ君か、君は合格だ。我々とともに、韓国の頂点を目指そうじゃないか」


 真ん中の席に座っていた、プロデューサーの一言だ。


 こうして、あっさりと、彼女は大手企業の練習生として所属することとなる。

 当然の結果だ。

 何せ、私は特別なのだから。


 両親の期待、妹の尊敬。

 それらを背中で感じながら、イェナは芸能界への一歩を踏み出した。

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