第四話 二錠目を 効果がなくても 副作用が苦しくても
家に着いた。
三人用の住まいとして購入した、広い部屋。
一人で使うには、やたら広い部屋。
やはりまた、ワイシャツ一枚のだらしない格好のまま。
気分が悪い。
ビールのせいではない。
酔うほど飲むつもりはなかったが、そもそも酔うほど飲めなかった。
額が熱い。
知恵熱だろう。大学受験のときにすらなかったというのに。
解熱剤と胃薬を口に含み、乱暴に水で流し込む。
ソファに深く腰かけて天井を眺めた。
体調が悪くなっているのを感じる。朝よりもっと。
部下の話を聞いたせいだろう。
彼はきっと、ユジュンの気を紛らわせようと誘ったのだろう。だが、完全に逆効果だった。彼には悪いが、行かなければよかったと後悔さえしている。
薬、早く効け。
効果が表れるまで、十五分だったか、三十分だったか。
秒針がやけにゆっくりだ。一分後が無限に感じられる。
電波時計をぼんやりとにらむ頭で思い浮かべるのは、妻の顔。
昨夜裏切った、最愛の人の顔。
左手の薬指に痛みが走る。指輪が縮み、万力のように締めつけてくる錯覚に陥った。
「はぁ……」
ユジュンは背筋を正し、か弱い声でささやいた。
「電話、するか」
妻に、正直に言おう。
自分がしてしまったことを洗いざらい吐き出すのだ。そして深く謝罪し、今後二度とあの手の店には近づかない。
そんなことでは決して許されないし、許されてはならないのだが、それ以外に思いつかないのだ。
部下の考え方にも一理あるのかもしれない。一つの哲学ではあるのだろう。
だがそれを聞いて納得することはなかったし、性にも合わない。軋むような拒絶感だってある。
何より、そんな生き方をする自分自身を、彼は好きになれない。
だからここで終わらせる。
終わらせなければ。
泣かせてしまうだろう。
妻は、誰よりも夫を信頼していた。
そもそもとして、早期留学が家庭を壊す原因になり得ることは有名な話だった。
小さい我が子を送り出すという状況が作り出すのは、要するに国を越えた夫婦の別居だ。
愛を誓い合った仲であっても、遠距離恋愛の難しさはどこまでもつきまとう。
トラブルなく成し遂げるには、絶対的な信用が不可欠である。
彼女は信じてくれた。私の心はあなただけのものだと、そう言ってくれた。
あの曇りない眼差しを思い出すだけで、自らの愚かさが重くのしかかる。
期待させた分だけ、幻想を見せた分だけ、幻滅させてしまうのだ。
受け入れろ。
一度責任を放棄した。これが罰だ。
テーブルの携帯電話に手を伸ばす。
電話帳から目当ての番号を探し当て、通話ボタンを押すところまで脳内でシミュレーションして――。
着信音。
手が止まった。
テーブルに置いた携帯電話が、微振動で位置をズラしながら、ピロピロとひとりでに鳴り響いている。
小刻みに震える手で画面を開き、見る。
妻からだった。
数秒、固まる。
やっと親指が通話開始ボタンを押すと、機器を耳にそえた。
「……もしもし」
『あぁっ! もしもぉ~~~~しぃ』
妻の声だ。電子音を通しているとはいえ、記憶に相違ない。
待ちわびていた、ずっと聞きたかった、妻の声だ。
だが妙だった。
いつものハキハキとした喋り方は鳴りを潜め、異様にテンションが高い。滑舌も怪しく、舌っ足らずだ。つまり、
「お前、酔ってるのか?」
『ん~~ふふふ~~、どっちでしょ~~ぉか~~』
酔っていた。泥のようだ。
今アメリカは昼頃のはずだが……。
まず、少しひるんだ。が、彼女のことだから仕方ないと思い直す。
次に、だらしないな、と思った。
そして、こういう飲み方をしているときの彼女はたいてい、
『あっ! ちょぉ~~っと待ってなさぁ~い』
別の女性の声が携帯越しに聞こえてきた。何人もいて、すべて英語だ。
――誰から? ボーイフレンドからのお誘いね、ヒューヒュー。
――ノーノー! 最っ高にクールでイカした愛しのハズバンドよ!
――ワーォ! ファンタスティック!
そんな意味の会話をしている。
「友人か、楽しそうだな」
『ええ! 最っ高の気分だわ! アナタもくるぅ~~?』
やはり。飲み会でもあったのだろう。
ああ、本当に楽しそうだな。俺はずっと一人で、楽しいことなんて一つもなかったのに。そう思った。
「それで、用件はなんだ?」
『もっちろん、お祝いよぉ! 一位、おめでとう~~! 私、うれしいっっっ! ダーリンが立派で、カッコよくて、うれしいわぁ』
「ああ、ありがとう」
『うんっ! ごめんねぇ、昨日気づけなくって、さぁ。すぐに、お祝い……伝えたかったなぁ……』
「ああ」
英語なまりの混じった韓国語が、段々と途切れ途切れになる。
眠いのだろう。何度も言うが昼である。
「…………」
電話からは、起きろ、あんまり冷たくするとダーリンに逃げられるぞ、と妻をせっつく友人たちの英語が聞こえてくる。
周りの者たちも酔っているらしく、ケラケラと笑っていて上機嫌だ。
『……ねむってなぁぁぁ~~~~いっ!!』
「ああ、そうだな」
沈黙。
妻は眠気で、ユジュンは別の理由で。
その顔は死んでいた。
「先週の連絡は、どうしたんだ?」
言及したのは、毎週決まった曜日に必ず行う、定期連絡のこと。
応答がなく、空白になってしまった先週のこと。
電子音を通して、さっきとは違う沈黙が伝わってきた。
気まずいような、大切なことを思い出したような、そんな息づかいだ。
『ごっめぇ~~~~ん! 忘れてたぁ~~~~! 連絡してくれればよかったのにぃ~~~~!』
「連絡ならしたぞ」
メールを送っていたのだ。毎日一通ずつ、欠かさず。
『ホントだわっっ! あるっっ! ホントにごめんねぇ』
「かまわない。大したことじゃないさ」
それから、少しだけ言葉を交わした。
お互いの近況と、留学している息子の様子。二人はうまくやれているようだ。
ただ、それもほんの短い時間だった。これからまたどこかへ行くらしい。
彼女は、忘れた分も含めて明日連絡する旨を伝え、体に気をつけてという言葉を残して、通話を切った。
こちらも同じような言葉を返し、通話を切った。
パタン、
と携帯電話を閉じて。また一人。
向こうがやかましかった分、よけいに静かに感じた。
「……………………」
そうか、忘れてたか。俺を。
そんなことだろうとは思っていた。
妻もまた非常に優秀な人間である。
息子に手がかからなくなってからは、暇を嫌って向こうでも仕事をしていた。国家に貢献できる人材であるかを重要視するアメリカで、職を得た。つまり能力を認められたわけだ。喜ばしいことだ。
それが約一年前の話。
最近になって、仕事が軌道に乗って来て忙しいと言っていた。その時点から可能性は頭のすみにあった。
彼女は集中力が高すぎる。
一度何かに熱中して本気で打ち込むと、他の何もかもがおろそかになってしまうほどに。
それはもう尋常ではない。
食事を忘れ、化粧を忘れ、鍵をかけるのを忘れたと言ってきたときにはさすがに度肝を抜かれたが。
大切なことであっても忘れてしまう。悪癖だ。
それでも結婚してからは、ユジュンと息子に関わることだけは、忘れることがなかったというのに。
「それは、ないだろう……」
落胆を通り越して、失望を通り越して、悲しみだけがある。
膝に両肘をついてうつむいた。
今度は床が見える。
そこだけ影が落ちて、暗い。
心が離れてしまった気がした。
ユジュンではなく妻が。
自分は、彼女がいないと寂しい。
彼女は、自分がいなくても寂しくなくて、問題なく生きていけるらしい。
やってられない。
重くなった体を持ち上げて、引きずるように足を運ぶ。
無意識にワインセラーに向かっており、中から一本のボトルを取ろうとした。
度数が高くて、キツイやつだ。
指がかかったところで、我に返って手を止める。
逃げるようにその場から離れ、再びソファに沈み込んだ。
危ない。危ない。
こういうクソみたいな気分のとき、アルコールは劇薬すぎる。
深酒が破滅の始まりであることを彼はよく知っていた。
なら、どうすればいい。
酒に逃げられないのなら、いったい何に、どこに逃げればいいというのか。
このまま正気でいるなんて、とてもじゃないが耐えられない。
「…………寝るか」
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目を閉じても、心は荒んだまま。
暗い、暗い夜の時間。膨らんだ妄想力で、ふとこんなことを思った。
もうずっとこのまま一人なのではないか。
残り四十年あまりの人生、ずっと。
韓国では、老人の自殺が問題になっている。
十年ほど前に起きた通貨危機の影響で景気が悪化し、五十代の労働者が大勢リストラされたのだ。
現在彼らは、「高齢の貧困層」という絶望的な烙印を冠している。
経済格差の広がる社会で、すでに家庭を持っている息子や娘に、彼らの介護をするだけの金銭的な体力はない。
働けない高齢者を支援するような福祉制度も整っていない。
彼らは晩年にして、先のない不安と孤独を味わっているのだ。
あるいはその状況に耐えられず、自殺を選ぶ者が後を絶たないのもうなずける。
ユジュンにとって、どこか他人事だった。
年齢的にも、社会的地位から考えても、関わりのない話だと思っていた。
自らの人生とそのような哀れな結末は、実は平行線ではなくて地続きな一直線なのではないか。孤独な高齢者とは、すなわち未来の自分のことではないか。
そんな風に死ぬのかもしれないと、嫌な想像がよぎる。
動けない体で、誰にも看取られず、誰も愛してくれず、切なさとやるせなさを抱えながら、抵抗する気力もなくて、こんなものかと諦めて、未練を残して死んでいく。
人の何倍も、努力と徳を積んできたつもりだ。
その最期が、不幸と呼ぶのもおこがましいくらい、乾いたものだとしたら。
何よりも怖いことだ。
快楽に溺れることよりも、何よりも。
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四月に入り、
新入社員がやってきて、
部署を異動する人たちもいて、
また少し、慌ただしくなる。
またみんな、忙しくなる。
気温はすっかり上がって春風が吹く。
外は温かいのに、心は寒いまま。
決意は、一週間が限界だった。
深夜。
耐えきれずに家を出て、
バスに乗って、
一度行ったきりのあの街へ向かう。
わざわざ一時間もかけて、揺られながら。
目に焼きついて離れないのは、あの美しい女性。
彼女はいるのだろうか。
シフトが違えばいないだろう。
いないでほしい。
いなければ、もう裏切らずに済むから。
バスを降りる。
頭の悪そうな、カラフルな光に照らされて、
真っ直ぐな足取りで、歩く。
道筋は、不思議と覚えていた。
「あ」
向こうが先に気づいた。
店の外に立って、客引きでもしていたのだろうか。
色が変わっている。
今日のインナーカラーは鮮やかなオレンジで、服装も同系統。
宝石のような黒い瞳に、吸い込まれる。
涼しげな夜風が通り過ぎて、黒い長髪があおられ、シルエットが変わる。
街灯と電飾の乱雑な光を背にして、オレンジが輝く。
相変わらず、綺麗だ。
再会を喜んでいる自分がいる。
きっと心の底では、ずっと、こうすることを望んでいたのだ。
彼女はこっちを見て、薄く、笑う。
「こんばんは、お客さん」
「こんばんは、お嬢さん」
二人だけの呼び名は合言葉のようで、心が通じ合っている気がした。
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