第三話 一錠 効果:微 副作用:激

「おはよう」


 オフィスに声をかけるユジュンは、いつもと同じように爽やかで、エネルギーのある出で立ちだった。

 おはようございます、とすれ違った部下たちの礼に手振りで応え、彼は全てのデスクを見渡せる位置にある自分の席についた。


 一体誰が予想できるだろう。

 涼しくも凛々しい表情を張りつけたその胸中は、食い破られるように荒れ果てていた。


 朝目覚めたとき、激しい胃痛と吐き気に驚いた。

 胃薬を飲んでなんとかやりすごしたものの、本調子には程遠い。

 体調に異常が出るほどのストレスに襲われている。


 後悔と、罪悪感と、嫌悪感あった。

 なぜあんなことをしたのか。

 なぜあんなところに行ったのか。

 なぜ断らなかったのか。


 薬指の指輪から目を逸らす。結婚式の写真から目を逸らす。

 顔を洗おうと鏡の前に立ったとき、自分の顔がおぞましいほどに醜く見えた。

 生まれて初めて、自分を嫌いになっている。


 昨夜、越えてはいけない一線を越えた。

 裏切ってはいけない人を裏切った。


 決して、

 決して不義理はしないと言葉で誓い、心でも誓った。

 できると信じていた、自分なら。そう疑ったことはなかったというのに。


 三十六年かけて積み上げた、プライドの鼻先がへし折れる。

 絶対に崩れてはいけないバランスが崩れた予感がする。


 怖かった。


 心が不安定になっていた。

 後悔、罪悪感、嫌悪感はあれども、それらはさしたる負担ではない。

 今にも足下を突き崩すような、強烈な、強烈な、不安に比べれば。


 しかし、彼はそれを態度に出さない。

 いつものペースで、いつもの正確さで、何ら変わることなく業務をこなす。

 唯一異なる点があるとすれば、モチベーションだろうか。

 仕事に対して、静かな闘志を燃やして取り組んでいる彼ではあるが、それがやや、やや、淡々としている。感情が抑えられている。


 とはいえ、些細という表現でも過言なほど些細な変化に気づける者などいないのだが。

 ただ一人を除いては。



 

「先輩、今日飲みに行かないっすか?」


 ある部下にそう誘われ、ユジュンは足を止める。


「ああ、構わないぞ」


 二つ返事で了承した。


 とにかく気分を紛らわしたかったのだ。

 早く帰ったところで、することもなく悶々と嫌な想像を抱えてしまうに決まっている。


 胃痛はまだ残っているが、いい。ちょうど飲みたいと思っていた。


「今日は何人だ?」

「サシっす」


 少し驚いた。

 部下はお調子者だが社内でもムードメーカーのような存在で、打ち上げなどを企画するのもたいてい彼だ。

 てっきり今回も大人数になるかと思ったのだが、そうか二人か。


「別にいいっすよね?」

「ああ」


 異論はない。



----



 訪ねたのはいたって普通の居酒屋だ。

 バーとか、そういうシャレた場所ではない。


 国内一の財閥に勤めている以上、ユジュンも部下も高級店に足を運ぶくらいなんの躊躇いもないのだが、選んだのはあくまで庶民的な店。

 客の一人が女性のアルバイトをナンパしたり、飲みすぎた学生が外で吐いていたり、羽目を外したサラリーマンたちの下品な猥談が聞こえてくるような、そんな場所だ。


 いかに彼らが優秀な人間であっても、金の無い学生時代というのはある。そうした時期に仲間内で集まれるところと言ったら安酒をあおれる居酒屋が一番に挙がる。懐かしさからか、社会人になった今でも食べ慣れた味が落ち着くのだ。

 もっとも、富裕層の中でもさらにヒエラルキーの高い、真の上流階級になるとまた話は違うのかもしれないが。


 部下は、ユジュンが属する部署の中でも若手で、多くの上司から期待を集める優秀な人材である。

 ただ、少々砕けすぎている節があり、今も注文を受けに来た女性店員に色目を使っては、高めのビールと焼き鳥を遠慮なく三皿も頼む。もちろん先輩に奢ってもらう前提で。別にかまわないがね。

 うまいうまいとレバーを頬張る顔は実に幸せそうだった。


 彼は一口飲んだジョッキをゴトンと置くと、変わらぬ調子で尋ねる。


「先輩、なんかありました?」


 アルコールを流しこんで落ち着いていた胃が、キュッと縮こまる。

 表情が歪むのをなんとか防いだ。


「どうしてだ?」

「なんとなくっす」


 直感か。いやそれにしては目つきが確信めいている。


 鋭い。

 今日呼んだのはこのためか。


 目の前の彼は、ユジュンが目にかけている大勢の部下の中の一人である。

 同じチームの一員としても「知っている」と言えるだけの情報は把握しているが、それはあくまで成績や表面的な人格に留まる。

 印象が更新された瞬間だった。


 しかしどうするか。悟られてしまったからには下手に誤魔化すより話した方がいいだろうか。


「別に言いたくないならいいっすよ」


 が、彼は不遜な顔つきですぐに引き下がった。


 釣られている気分だ。話したい、聞いてほしいという欲が刺激される。

 余裕のある口元から察するに、狙ってやっているのだろう。

 なんとなく、彼が注目されている理由がわかった気がした。


「いや、聞いてくれるか?」

「お、マジっすか? イイっすね!」


 随分とキラキラした目になった。

 両肘をテーブルについて身を乗り出し、まるで修学旅行で恋バナをする学生のようにワクワクしているのが伝わってくる。早く、早くという心の声が聞こえてきそうだ。


 まったく人の悩みをなんだと思っているのか。

 しかし、これくらい冗談めかして聞いてくれた方が楽かもしれない。

 低い声で、自らの情けない恥をさらす。



----


 

「別にいいんじゃないっすか?」


 事情を聞き終えた部下の第一声はそれだった。

 やはり軽い調子である。


「それはないだろう」

「そうっすかね」

「ああ、不倫は悪だ」


 口をついて出た言葉だったが、それが本音だった。

 考えるまでもなく明瞭な道徳観であり、自身の信念でもある。

 こんなにも簡単なことなのに、自分はいったい何を悩んでいるというのか。


 部下は釈然としない様子で眉間にしわをよせている。


「聞きたいんすけど……、浮気とか不倫って何が悪いんすかね?」


 妙なことを言ってきたので、今度はユジュンが訝しむ。

 何が悪いなどと自問する価値もない。それが常識だろう。


「そりゃあ、バレたら悪いですよ。相手が傷つくんで。でもバレなきゃ誰も傷つかないじゃないっすか」


 わずかに目を見開く。

 感心したわけではない。初めて聞く視点に少々面を食らったのだ。


「こっちは女の子と楽しく遊べてハッピー、あっちは何も知らなくてハッピー。これってなんかダメっすかね?」


 邪悪なことをサラッという奴だ。

 悪びれる様子もないあたりきっと本心なのだろうし、この価値観に従って実行したこともあるのだろう。もはやユジュンが言えた義理は無いが、女の敵という表現が最も似合う男ではなかろうか。


 正義感に火がつき、腹の底がかすかに熱くなるが、まあいい。とりあえず聞こう。


「ダメに決まっている。裏切りはいつだってトラブルの種だ。円満な関係にひびを入れるマネはするべきではないし、円満であるための努力こそが責任だ。それすらできないのならば女と関係を持つ資格はない」

「まあ、そうできれば理想なんでしょうけど、それって苦しくないっすか?」


 核心を突かれたような気分になった。


「奥さんが何年もいなくって、寂しくって、辛かったんでしょ? そんな思いまでして果たさなきゃいけないもんすかね、責任って」


 閉口する。

 理屈ではなく感情の話を持ち出されてしまえば、反論する術を持たない。

 なぜならユジュンは昨夜、感情に負けて愚行に走ったのだから。


「俺ならムリっすねー。俺だけじゃないっすけど。知り合いの女の子でもいっぱいいるっすよ。そういう人」

「それは、お前の周りの話だろう」

「あーっはは、たしかにそうかもっすね」


 類は友を呼ぶという。

 部下には部下の、学生時代や社会人になってから広げてきたコミュニティがあり、そこに似た考えの者が集まるのは必然だ。

 それがユジュンにも当てはまるという彼の言は早計というものだ。


「でも、うちの部署にもいるっすよ。ウヌとかソジンとか、あとテオも彼女いるっすけど、ぜんぜん風俗とか行ってますし」

「何?」


 信じがたいことを言われた。

 挙げられた三人の名前から思い浮かぶのは、熱心に仕事に取り組む真剣な表情だ。

 抱いていたイメージと一致せずにやや混乱する。


「あとハンギョルさんもそうだったような。あの人結婚してましたよね、たしか?」

「……」

「どっちも浮気のハードル低いんですって。子どもさえ大切にしてればいいみたいっす」


 ハンギョルというのはユジュンの同僚で、同期の一人でもある。

 入社してから最初に親交を持った相手であり、部署が同じこともあって今でも切磋琢磨する仲だ。後輩の一人や二人とは、やはり異なる間柄。だというのに、


「……知らなかったぞ」

「あー、みんな先輩の前では言わないんすよ。そういう話あんまり好きじゃないでしょ?」

「それは……、気を遣わせたな」

「別にハブってるとかじゃないっすよ。こっちが勝手にやってることなんで」


 居心地悪そうな上司に、彼はおちゃらけた風に手を振る。


「暗黙の了解みたいになってるんすよ。もちろん良い意味でね。『ユジュンさんを困らせないようにしよう!』ってそういうノリっす。男連中に下ネタ制限させるなんて普通あり得ないっすよ。そのカリスマうらやましー」

「……下品な話題というのは、そんなに重要なものなのか?」


 引っかかった点を尋ねてみると、部下はいたって真剣な顔でうなずいた。


「はい。上等な男なんて信用できねーっす」


 あ、先輩は例外っすよ、と付け加えて。


「そういうものか」


 まったくもって実感の湧かない話ではあったが、ユジュンは無理やり咀嚼してなんとか飲み下す。

 そして、恐らく事実なのだろうということも心の底では理解していた。うまく表現できないが、これまで人と話してきて経験してきた、違和感や遠慮、ズレのようなものが訴えてくるのだ。


 まず恥じた。

 三十六年生きてきて、今日初めて一般の会話というものを知ったのかもしれない。それも、十近く年の離れた若者に教えられるとは。


 次に、肌寒さを覚えた。

 開いてはいけない扉の鍵穴から、深淵を覗いてしまったような。


 単体では危険はないのかもしれない。ただ、タイミングを絶望的に誤った。そんな予感がする。

 不倫の言い訳が、いくらでも思い浮かぶのだ。

 みんなもやっているのなら、そんなに悪いことではないんじゃないか? と。


 指先が冷えて、酒を飲む手が止まる。


 とにかく、ここで感じたことは一つ。

 おかしいのは、自分自身の方なのかもしれない。

 そんなこと、知りたくなかった。

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