第二話 それは凍った心
孤独に耐えきれず、ユジュンは外へ出た。
外なら人がいるからだ。
十一時過ぎの空は真っ暗で、相変わらず積もらない雪が降り続けている。冷たい空気を浴びた肌が痛い。
随分と不思議なことが起こった。
人とすれ違うだけで、幾分か気分がマシになったのだ。
知り合いではない。話してなどいない。目を合わせてすらない。
だというのに、人がいるという事実だけで安心した。
まずいな。自分でも呆れるほど病んでいる。精神科にでも行った方がいいんじゃないかと思いながら、静かな街を歩いた。
適当に歩く。
何も考えていない。ただとりあえず、人が多そうなところへ。
人の集まるところに行ったら、バス停があった。知らないバス停だ。
無心で待っていたらバスが来たので、先に並んでいた人たちにならって乗った。
発進する。
このバスはどこに向かっているのだろう。それすらもわからない。ただ途中で降りる気にはなれなかった。
ゆらゆらと、一時間くらいは揺られていただろうか。
終点で仕方なく降りた。
「ここはどこだ?」
知らない街だ。
視界いっぱいには、ピカピカとやかましい光源が広がっている。
東側に背の高い建物が立ち並び、そこ取りつけられた店の電飾看板が目を潰しそうな勢いで存在を主張してくる。
夜景なんて綺麗なものじゃない。
ピンクやイエローやスカイブルーなど、とりあえず派手な配色をぶちまけましたって感じの電灯も、道行く人々の格好も、彼らが発する話し声や笑い声も品がない。
繁盛している様子があるのに、路地裏あたりは不自然に薄暗くて嫌な気配がある。
どうやらここは、夜の街というやつのようだ。
ユジュンはこうした場所とは縁もなかったし興味もなかったので、訪れるのは初めてだ。
友人から聞きかじった情報でしか知らなかったが、なるほど治安が悪い。
反射的に生じた嫌悪感や拒絶反応を顔に出さないよう気をつける。
相容れないと本能で察知した。
「チッ」
自分がこんなところにいるという事実に腹が立つ。
蛍光灯におびき寄せられた羽虫の気分だ。
イライラする。
それでも羽虫は、フラフラとした足取りで光の方へ吸い寄せられていく。
しばらくそうしていると、一軒の店の前で足が止まった。
謎に気取ったフランス語と思しき店名。窓ガラスにはカタログのようなポスターがあって、そこには若い女性の写真が並んでいた。
ああ、風俗店か。
ユジュンが最も嫌いなタイプの商売だ。在り方のすべてが癇に障る。
なぜ自分は、こんな店に足を止めているのだろう。
妻に会えないことがそんなに切ないか。
「…………帰るか」
目を伏せ、踵を返す。
最悪の気分だった。家でくすぶっていたときよりもっと酷い。
風呂に入って、寝よう。
「寄っていきますか?」
背中から女の声がして、振り返る。
目の覚めるような、衝撃に見舞われた。
恐ろしく整った女性がそこにいた。
おそらく二十代の真ん中あたり、美しい女性だ。
まず背が高い。一七〇センチはあるんじゃないだろうか。手足が長く、スタイルも抜群に良い。
小さい顔の上には、全てのパーツが完璧なバランスで配置されており、これ以上ない。たとえ百度の整形を重ねたとしてもこんなことはあり得ないと確信が持てた。
何より特徴的なのは切れ長の目と、そこに収まる宝石のような黒い瞳。
同じ色の黒髪は長く、夜風に踊り、紫色のインナーカラーが見えた。
それら最高の素材を演出するのは、清涼感のある服装。
仕事の割に露出は少なく、足の細さを強調する黒のパンツも、上体を包み隠すような緩い紫のカーディガンも、彼女自身の強みを最大限の物としていた。
クールで、ミステリアスで、幻想的。
現実じゃないとすら思った。
言葉を失っていると、彼女は戸惑ったように覗き込んでくる。
「……あの?」
「ああ、いえ。失礼、気を抜いていました」
女はわずかに唇を上げ、薄く、笑う。
「ふふ、お疲れなんですね」
心臓が高鳴る音がした。
ああ、まずい。これはまずい。
二年。そう二年だ。
長く、女性と縁のない時間を過ごした。
家に妻はおらず、かといって愛人を作るような下衆な真似をしたことはない。
オフィスにも女性社員は当然いるが、基本的には男所帯。
こんなに魅力的な相手と、対面で、それもプライベートな場で言葉を交わしたのはいつぶりだろうか。
ひどく懐かしい感覚がする。初恋のような、甘い香り。
妻に出会ったとき以来かもしれない。
今、きっと頬が赤らんでいる。
「……どうかされましたか?」
いつまでも固まっているユジュンを、彼女は上目に見つめた。
「いえ、何でもありません」
粉雪はまだ降っている。季節外れの寒さだ。
顔の赤みは、霜焼けのせいにできるだろうか。無理だろうな。
「……白状しますと、見惚れました。こんなこと久しぶりだ」
歯の浮くようなセリフだが、口説くような響きはない。ただ正直な感想を伝えようとした。そのつもりだった。
無意識に、ほんのわずかに、女性に対する接し方になっていた。
「――――――――」
女は相変わらず微笑んでいた。
ただそこに、かすかな硬さを含んで。
「寄っていきますか?」
再び同じ問い。
彼はそれに答えず、代わりに左手の薬指を隠した。
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午前三時。
韓国中が寝静まった深夜に、ソン・イェナは控室でタバコを吸う。
今日、おかしな客が来た。
随分と色男だった。身なりも良く、何もかも一流ですと言わんばかりの風情が滲み出ていた男だ。実際に一流なのだろう。
わからないのは、そんな男がこうもあからさまな夜の街を訪れた意図だ。
彼のような人間はずっと西にある中心街に住んでいるのだろうし、そのあたりならもっと世間体の良い店がいくらでもあったろうに。
加えて態度は初心なところがあり、そのくせ言葉は手慣れていそうな風で、アンバランスな印象を受けた。
アンバランスな人間というのは往々にして精神に問題を抱えているというのがイェナの持論なのだが、そこまで推測したところで、彼の事情など知る由もない。
というのも、その男は入店するなりこう言ってきたのだ。
――私のことは、お客さんと呼んでください。
こんなことを言ってきた客は初めてだった。
名前すら隠すような男だ。それ以上に何を知れるというのか。
しかし男の方もまた、イェナの名前を知らない。なぜなら、
――では、私のことはお嬢さんとお呼びください。
相手に話を合わせる癖が出て、ついそんなことを言ってしまったからだ。
どことなく興に乗っていたところもあっただろうか。
だが、今思い返せば鼻持ちならない男だとも思う。
個人情報を伏せるような発言の裏には、こんな下層の街に来たことを知られたくない。ドロップアウトしたお前のような女に、名前を覚えられたくないという意識が、少なからずあるはずだから。
「ふぅ」
タバコの煙とともに、かすれたため息を吐き出す。
淡い諦観の色を含んで。
反論などできるはずもない。
相手は上流階級で、自分が底辺にいるのは事実なのだから。
見下されていると理解しても、怒りどころか、惨めさすらも湧いてこなかった。
ただ、やりやすくはあった。
こんな店に来る客に人格を期待する方が間違っているのだが、おおむねろくな輩ではない。
わかりやすく横柄な者、プライベートな関係を求めてくる者、ルールを守らない者、ことあるごとに詮索してくる者、説教を垂れてくる者、暴力を振るってくる者、ただただイカれている者、などなど、など。
それらと比べれば、あくまで嬢と客という立場を尊重し、ビジネスであることを徹底していた分ストレスはなかった。気が楽だった。
いや、比較するのは失礼か。
紳士的に接してくれていたと思う。
「フッ」
思わずから笑いが出た。
彼の左手には結婚指輪があった。不倫している男を指して紳士だなんてジョークにしても不謹慎だ。
だがイェナは誠実そうだと感じた。
また来てくれてもいい。珍しくそう思える相手だった。
もう来ないだろうけど。
カランと扉が鳴り、客が訪れる気配がする。
まだ長いタバコを灰皿に押しつけた。
ヤニとにおいのついた歯で出向くわけにはいかないので、歯を磨かなくてはならない。
また歯磨き粉は減るし、歯ブラシは荒れる。
でもやめられないんだよなぁ、タバコ。
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