寂しさは頭を悪くする

青鹿

第一話 それは乾いた心

 早期留学という言葉がある。


 近年、韓国で流行している子どもへの教育形態の一つだ。

 できるだけ早い時期に英語を習得させることを目的とし、英語圏の国へ我が子を留学させる親が増えている。驚くべきことに、小学生の時からそうした取り組みをさせることも多いという。


 教育熱、英語熱の強い韓国ならではの、特異な現象である。



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 この日、オフィスではささやかなイベントが行われていた。

 と言っても、小さいのはあくまで規模だけ。社長、副社長、その他重役が顔を揃え、そうそうたる面子がわざわざ足を運ぶほど、重要な催しであることに違いない。


 それは、表彰式。

 社内での営業成績上位者を発表し、その活躍を讃える場。

 まだ肌寒さの残る三月の終わり。

 窓の外は、粉雪が降っていた。


「――二〇〇九年度、営業成績第一位、オ・ユジュン!」


 満を持して、社長がナンバーワンの名を読み上げた。

 ひそかな色めきとともに注目が集まる。

 オ・ユジュンは背筋を正し、前へ。


「君の躍進には目を見張るばかりだ! 君の働きは、我が社に大きく貢献してくれた! これからも期待している! そして、おめでとう!」


 社長からクリスタルのトロフィーを贈呈されると、大きな拍手が起こる。

 百三十一名の同僚や部下たち。みんな同じ部署で支え合った仲間。

 ユジュンは彼らの方へ向き直ると、誇らしい表情で告げる。


「紹介にあずかった、オ・ユジュンだ」


 風格のある男だった。

 凛々しい顔立ちや綺麗な立ち姿からは自信が漲っている。

 しかし威圧感はなく、あるのは頼もしさだけ。


「このたび素晴らしい賞を賜った。まずはそのことを嬉しく思う。しかしこれは、決して私だけの力で獲得したものではないとも思っている。ここにいる全員の支えがあって成し遂げた、チームの成果だ。ありがとう」


 再び拍手が起こった。

 彼の実力と成果を讃える拍手だ。

 そこに嫌味な色は一切なく、どころか調子に乗った部下が「来年度の目標とかないんすかー?」などと茶化し、笑い声が響くような温かい雰囲気がある。


「そうだな……」


 ユジュンは面白そうに口角を上げると、


「来年も一位を獲ってみせよう」


 二位の男に挑戦的な視線を送りながら、そううそぶく。

 再び盛り上がったところで、表彰式は幕を下ろした。



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 特別な瞬間というのは周りの人たちが作るものである。


 ユジュンは今日、そのことを改めて実感した。

 正直なところ、成績がどうだとか、第何位だとか、そうしたことにこだわりはなかった。

 自らに期待された役割を最大限に果たす。それだけを考えてこの一年、ただひたすらに邁進してきた。

 だから、表彰されたからといって大きく感情を動かされることはないと思っていたのだが、


「先輩、今夜の打ち上げ来るっすよね? なんせ主役っすから!」


 その日の酒はものすごく美味かった。


 まさに、浴びるほど称賛を受けた。

 同僚が、部下が、口々に褒めちぎってくる。

 お前は同期の誇りだとか、尊敬しますとか、国の宝だとか。

 評価を得るたびに、少しずつ実感が湧いてくる。ああ、俺は素晴らしいことをしたのだ、と。


 喜びが込み上げてきて、珍しく酔うまで飲んだ。

 気分が高揚していた。

 努力も、結果も、数字も、それ単体では何の意味も持たない。

 素晴らしいと認めてくれる他人がいて、初めて価値がつくのだ。



 

 鍵を回して、ドアを開ける。


「帰ったぞ」


 ほんのり上機嫌に言うと、

 真っ暗な部屋から、沈黙が帰ってきた。


「……」


 一瞬で酔いがさめた。


 そうだった、家には誰もいないんだった。

 急に耐え難い疲れが襲ってきた。もちろん気のせいだ。疲れるようなことなんて何もなかった。


 きっとこれは、徒労感というやつだろう。

 職場でエースになって、みんなに褒められて、舞い上がった。この喜びを家でも共有したいと思ったのだ。妻や息子がいないのも忘れて。


 空振って、感情の行き場がなくなって、立ち尽くす。

 虚無が心を支配したので、コートをかけて、鞄をしまって、ソファに沈み込んだ。


 死んだような目をしていた。



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 オ・ユジュン 韓国人 三十六歳 男性。


 首都ソウルの郊外にある裕福な家庭で生まれ、幼少期から様々な英才教育を受けて育つ。

 非常に頭がよく、幼児期にしてすでに大人たちから期待を寄せられていた。そのことは、小学校、中学校を主席、高校を次席で卒業という結果に表れている。韓国の極めて苛烈な受験戦争を潜り抜け、国内一のソウル大学に入学。卒業後に兵役の務めを果たすと、大手財閥の中枢企業を新卒でパス。現在ではその会社でトップの成績を収めている。

 エリート中のエリートだ。


 優秀なのは、学業だけに収まらない。

 現在の妻とは大学在学中に出会い、大恋愛の末に、卒業を待たず結婚。才気あふれる一人息子にも恵まれ、三人で円満な家庭を築いている。

 おまけに誠実で、人望が厚く、友人がたくさんいて、身長も高くて容貌も整っており、挙げていけばきりがない。

 財閥のエースであるわけだから当然財力もあり、貯金残高は恐ろしいことになっている。

 高層マンションの四十五階に居を構え、経済格差が深刻な韓国社会の中、若くして富裕層の仲間入りを果たした。


 経歴やステータスを並べれば並べるほど非の打ち所がない。

 社会人としても男性としても父親としも、まさしく理想と呼べる男だった。


「――――――――はぁ」


 そんな誰もが羨むであろう彼は、力のないため息をついた。

 生気のない顔だ。

 会社での自信に満ちた姿が嘘のようだった。

 社員たちが今のユジュンを見れば驚くに違いない。


 ろくに着替えもせず、背広を脱いだだけの格好はだらしないが、ワイシャツ一枚をとっても高価なため、その姿には気品があった。

 だというのに、どこかみすぼらしく見えるのはどうしてだろう。


 ボトルから赤ワインを注ぎ、ちびちび飲む。

 不味い酒だ。

 空間も酒そのものも、さっきまでいた居酒屋よりずっと上等なものであるはずなのに、ちっとも美味いと感じない。砂でも飲んでるんじゃないだろうか。


「……………………あぁ」


 妻と息子がアメリカに行ってしまったのが、二年前のことだ。

 息子が小学四年生になるタイミングで、早期留学をさせたのである。


 保護者間のコミュニティでもちらほら挙がっていたその話題は、妻から家庭に持ち込まれることになる。

 外資系企業に勤めるユジュンは英語の重要性についても深く知るところであり、強く賛成した。息子の成長を見られないことが残念ではあったが、子どもの将来と親の執着など比べるまでもない。息子もまた意欲的であり、すぐに準備は整った。金はかかるが、彼からすればなんてことない額だった。


 留学には、妻もついていくことになった。

 いくら才能があっても、まだ十歳の子どもだ。母国語が通じて、悩み事を相談できる大人が近くにいた方がいい。実際、母親が付き添うケースが多いと聞き及んでいる。


 空港で別れてから、二人の顔を直接見たのはそれきりだ。それきり。


「……………………」


 最初のうちは、毎日のように連絡を取り合っていた。

 体調は大丈夫かとか、学校は順調かとか、そういう、家にいるときと変わらない雑談をしていた。


 とはいえ、会社が繁忙期に入ればそんな暇がなくなる時もある。

 妻も妻で、慣れない環境に順応するのは大変だろう。

 早ければ息子にも反抗期が来るだろうし、父親と話したくない時もあるだろう。

 何より時差がある。


 そうやって段々と会話の頻度は少なくなり、声を聞かない期間が長くなり、今では一週間に一度定期連絡をする程度だ。


『営業成績一位になった。また昇進に一歩近づいたよ』


 すでにメールは送ったが、返信は来ない。

 もう、一時間以上も経っているのに。


 虚しいばかりだ。

 一緒に喜んでくれる相手がいなければ、成果なんて、結果なんて、無いものと変わらない。


「あぁ――――――――、寂しい」


 ポツリと、本音が漏れる。


 思えば、こんなに孤独を感じたのは初めてだったかもしれない。

 彼は親兄妹に恵まれ、友人に恵まれ、中学生のときに一人目の彼女ができてからは、女性関係にも困ったことはなかった。

 いつも誰かと一緒にいた。いつも誰かが隣にいた。苦楽をともにできる誰かが。


 兄妹たちは各々の仕事で、学生時代の友人や同僚は子育てで忙しくなって、あまり会わなくなって、家族で過ごすことが多くなっていたが、その家族もいなくなってしまった。


 帰宅後と休日。

 突然誰もいない時間ができた。突然暇な時間ができた。


 とにかく退屈でしょうがなくて、埋めるために色々なことをやった。

 料理を極めてみたり、勉強をしてみたり、本を読んでみたり、子どもの頃は性に合わなかったテレビゲームまで買ってみた。

 どれもそれなりに面白く、ある程度充実した時間にはなったのだが、どうにも満足しない。


 その時に気づいた。自分は暇なとき、会話をしていたのだと。

 帰宅後に、休日に、妻と話をするのが好きだったのだと。

 思えば、仕事に邁進していたのも退屈しのぎの一環だったのかもしれない。

 責任感を言い訳にして必要以上にやる気を出し、熱中しているふりをして、俺の毎日は充実していると自分に言い聞かせて、無理やり穴を塞ごうとしていたのだ。


 そこに思い至った瞬間、居酒屋での喜びすらさめた。


 新しく棚に飾られた、立派な意匠のトロフィーを見て苛立つ。

 くだらない。

 今欲しいのは、あんなガラスの塊じゃない。


「あと一年か……、……長い」


 留学は、息子が四年生から六年生になるまでの、三年間と決めていた。

 やっと二年経ったからあと一年。あと一年もある。


 気が遠くなりそうだ。


「……さびしい」


 薬指の指輪を見つめながら呟く。

 心は乾ききっていた。

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