消えない炎

海星

消えない炎

「いた……っ」


 身動くと、殴られた腹や蹴られた背中に痛みが走り、思わず呻くように声が漏れた。途端に腹の底が冷えるような恐怖に口を閉ざす。もし、聞かれでもしたら、更なる暴力に晒されるのはわかっている。あの人たちにとって私は、心のある人間ではなく、鬱憤晴らしに暴力を振るうためのサンドバッグでしかない。


 いつからこうなったのだろうか。母が再婚した時か、義父が私を躾けると言い始めたときなのか。そんなことは瑣末なことだ。きっかけはどうあれ、この結果は防げなかったに違いない。


 私の体には常に傷がある。治りかけると、新たな暴力。私が何かをしようがしまいが変わらない。私自身を気に入らないのだから、理由はあってもないようなものだ。


 殴られるのが当たり前。そんな諦観に塗れた日々の中で、私は自分に課していることがあった。


『自分がされて嫌なことは人にはしない』


 それが私の矜持であり、心の支えになっていた。辛い日々であっても心が折れなかったのは、生きていく上での目標があったからだ。ただ耐えるだけの毎日では、惰性で生きることと何ら変わらない。それは果たして生きていると言えるのだろうか。現状を変えるだけの力もない、一高校生の私にできる精一杯の生きる希望だった。


 素晴らしい人になりたかったわけではない。ただ、優しい人になりたかった。あの人たちとは違う、人の痛みがわかるような人に──。


 だが、そんな私の願いは、少しずつ度重なる暴力によって侵食されつつあった。


 ◇


「これはお前には必要ない」

「やめっ……!」


 義父は無情に言いながら、クラスメイトからもらった私のノートを破り捨てた。ここ数日、怪我のせいで熱を出して学校を休んでいた。そのため、心配したクラスメイトが私のためにノートをとってくれていたのだ。


 無惨に散らばるノートの破片を呆然と見つめる。


 ──どうしてこんな風に他人の善意を簡単に破り捨てられるのか。


 散らばった欠片は彼女の優しさだ。その優しさを踏み躙られた気がして、私はしゃがむと、両手で欠片を囲い込む。一つの取りこぼしもないようにしたかったのだ。


 だが、義父はしゃがんだ私の背中を容赦なく蹴りつける。


「馬鹿が余計な知恵をつけると碌なことにはならん」


 余計な知恵をつけるなと言うが、それなら何故高校に入れたのか。そんなのは簡単にわかる。


 金のためだ。


 中卒だといい仕事に就けないから、将来自分たちに仕送りが出来なくなる。それを聞いたときに私は、一生この人たちの奴隷なのだと悟った。


 直接的な暴力を振るう義父も、今の生活を守るために見て見ぬ振りをする母も、私の味方ではない。むしろ、こうして休んでいた間の体調を心配してくれ、ノートを渡してくれたクラスメイトの方がよっぽど私のことを考えてくれている。


 黙々とノートの破片を集める私が気に入らなかったのだろう。義父は顔を紅潮させて、私の手を踏みつける。


「その手をどけろ!」

「……っ、いや……っ!」


 骨が軋むような鈍い痛み。体格のいい大人の男性の体重がかかっているのだ。このままだと骨が折れるかもしれない。実際、ミシミシと手の甲が嫌な音を立てている。だが、手を放したら痛みは楽になるとわかっていても、私にはできなかった。ここにきてもまだ、私の中には矜持が生きていたのだ。


 きっとこれを知ったら彼女は悲しむ。このノートで少しでも結果を出して、彼女にお礼が言いたかった。


 だが、義父はそんな私に更に苛立ったようだ。私の集めた欠片の一つを拾い上げると歪に嗤った。


「……そうか。お前はどこまでも反抗的なんだな。だったらこうしてやろう」


 そう言うなり、スラックスのポケットからライターを取り出し、その欠片に火を付けた。


 たったひとひらで、燃えるのも一瞬。その火が私の脳裏に焼き付いた。私の心の奥底に、ちりっとその火は燃え移る。


 ──許せない。


 静かな怒り。元には戻らないという絶望。これまでのことがまるで走馬灯のように蘇り、一気に火は燃え上がった。目の前が真っ赤になり、私は義父に掴みかかる。


 義父はこれまで抵抗をしなかった私が抵抗すると思わなかったのだろう。私に押されて尻餅を付いた。それを機に、私は戒めていた心を解き放った。


 身体中の血が沸騰しているようだった。湧き上がる怒りのままに私は拳を振るう。殴りつける拳に感触はあっても、痛みは感じない。痛みを凌駕するほどの激しい怒りしか私の中には残っていなかった。


「……も、もう、やめなさい……っ」


 後ろから羽交い締めにされて、ふと我に返った私は、ようやく動きを止めた。母が私を止めたのだ。その声は恐怖に塗れていた。


 正気に戻ると、殴りつけた拳は擦り切れ、重い痛みを訴える。ひょっとしたら骨も痛めたのかもしれない。だけど、それ以上に心がじくじくと痛み出す。


 ──私は自分の戒めを破ったのだ。


 生きる上での目標を失ったことで、私の心は折れたのかもしれない。だらりと肩から力が抜けて、その場に崩れ落ちた。恐ろしいものを見るように私に視線を向ける義父と母。その顔は義父に暴力を振るわれていた時の私と同じ表情だった。


 結局私も、軽蔑していた義父や母と同じなのだ──。


 ◇


 それからは義父も母も、腫れ物に触るように私に接してくる。いつ私のたがが外れるかわからないからだろう。実際に、私の心にはあの瞬間か、それ以前からかはわからないが、火が灯った。


 そして、その火は今も私の身の内で燻っている。いつか解放される日を待ち、一度でも解放されたら抑圧されていた分その温度は高くなるだろう。自分の身すらも燃やし尽くすほどの激しい青い炎。


 私はまた、自分を戒めながら生きていく。身の内で燻る、その青い炎と共に──。

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