(4)欠けた山頂

 彼女の名前について僕が知っている幾つかのことを、ここでおさらいしておこう。

 まず何と言っても、最初に聞いた印象で「お花屋さんらしくて可愛い」と感じたことが大きなヒントだ。今風のキラキラな可愛さではなく、どちらかといえば、もっと奥ゆかしい『大和撫子』って感じの名前だった。

 では、何故そのように感じたのか。

 その理由として、たしか苗字と名前が、どちらも『花を連想させるもの』であったからだと記憶している。

 それも『葬儀でよく使われる花材の』だ。

 代表的なものをざっと挙げると、胡蝶蘭、菊、ユリ、バラ、カスミソウ、カトレア、カーネーション、それからアルストロなんとか――といったところか。

 僕の直感では、蘭の花はかなりくさい。もちろん「手掛かりとして」という意味で。

 この中でラン科の植物といえば『胡蝶蘭』と『カトレア』の二つだ。そこから連想できる名前とくれば、それなりに候補も限られるだろう。

 でも、だからといって、

『こちょう・らん』とか、

『かとう・れいあ』みたいな、

 そんな直球勝負だったかというと、それもイマイチしっくりこない。

 そもそも下の名前は、蘭とはまた別種の花だったはずだ。

 あとは、たしか……。


『あの……〇〇〇・〇〇〇です。えっと……よろしくお願いします』


 そうだ、思い出した。

 苗字と名前は、音数にしてそれぞれ三文字ずつだった。

 蘭にまつわる三文字の苗字と、それ以外の花で三文字の名前――か。

 うん、いい感じだ。

 これを思い出せたのはかなり大きい。

 記憶にある手掛かりはもう他に無さそうだけど、材料はこれだけでも充分だろう。

 問題は、その名前が何だったか、ってことなんだけど……。

(うーん。必要なものは、だいたい出揃っているはずなんだけどなぁ……)

 喉元まで出かかっているだけに、なんとも歯がゆい思いだった。

 そのまま考えに浸ること数十秒。

 なんとなく迷宮入りの予感がしつつも、「ああでもない、こうでもない」と考えているうちに、なんだかんだで答えが出ないまま式場まで来てしまった。

「悪いね宮田くん。おまたせ」

 式場に戻ると、花実さんは仕上げとばかりに白いチュールレースを床に敷き詰めているところだった。

 おまたせ、と言われても実際は三十分もかかっていない。

「全然、待ってなんかないですよ。綺麗に仕上げて頂いてありがとうございます」

 お礼を言いつつ辺りを見回す。

 ついさっきまでテーブルや三脚ポールで雑然としていた式場内は、ちょっと離れている間に、生花によって絢爛に彩られていた。

 入口から見て正面奥に設営された、三段組の生花祭壇がひときわ存在感を放つ。

 祭壇の横幅はおおよそ二間にけん(三メートル六十センチ)。その壇上には、白菊を並べて縁取りされた曲線が、山なりにいくつも描かれている。

 こうして全体像を見るに、祭壇そのものは雄大な山の稜線をイメージした意匠のようだ。中心部をななめに横切る菊の流線は、山間を一陣の風が優しく吹きおろしているようにも見える。その緩やかな曲線美を、これでもかと埋め尽くすほどの鮮やかなブルーと、ライムグリーンの花々が織り成す彩りはなんとも清涼感に溢れており、そのあまりの美しさに思わず「うわぁ、すご……」と感嘆の声をあげてしまった。

 まわりの床一面が、もこもこと白いチュールで埋めつくされていることもあり、それはまるで雲海を抜けてそびえる霊峰のようでもあった。

 やっぱり花実さんの作る祭壇は、いつ見ても感動的だ。

 僕はじっくりと味わうように、隅から隅へと丹念にそれを視線でなぞった。

 しかし――

 やがてその視線は〝ある一点〟を見つめたまま、ぴたりと止まる。

 どういうわけか祭壇の山頂にあたる部分だけが、火口のようにぽっかりと隙間が空いてしまっていることに気づいたのだ。

(あれ――?)

 違和感があった。

 祭壇の中央、最上部にぽっかりと空いた不自然な空間――そこにあるべき何かが決定的に足りない気がして、それからすぐに、その正体に思い当たった。

 そうだ。

 あそこには本来、故人の写真が飾られているはずなのだ。

「あの……」と祭壇の頂上を指さして言う。

「遺影写真は、まだ来てないんですか?」

 僕の指摘に、「ああ……あれかい」と花実さんも視線を向ける。

「なんでも、葬家さんから原本を預かれたのが昨日の夕方らしくてね。そのせいで、遺影の納品がまだらしいんだ」

 その答えに、なるほど、そういうことかと納得する。

 遺影写真というのは、故人の写真や免許証などをご遺族からお預かりして、それを元に作成するものだ。たいていは亡くなったその日か、もしくは翌日の打合せでお預かりすることが多いそうだけど、家族写真が手元に残っていなかったり、逆に候補が多すぎて絞り切れない場合なんかは直前までなかなか決まらないこともあるそうだ。

 それについて、僕にはひとつ思い当たる節があった。

 さっきの会葬礼状だ。

 あそこに書かれた文章のなかには、たしか「主人を写した写真がほとんど残ってない」みたいな記述があった。それが事実なら、締め切り直前まで適当な写真が見つからなかったであろうことも想像するに難くない。

(まぁ、自分の写真なんて、僕もプライベートじゃほとんど撮らないしな……)

 思索に耽りつつ、口元に拳をあてて唸っていると、傍目にはその仕草が、どこか不安を感じているように見えたらしい。

「あの……『昼過ぎに届く』って言ってましたよ、お写真……」

 すかさず彼女のフォローが入った。

「昼過ぎに? 音喜多さんが、そう言ってたんですか?」

「はい。だから、お式にはちゃんと間に合いますよ。遺影が届くのは……わたしたちが、帰ったあとになっちゃいますけど」

「そうですか。じゃあ……お二人とも、いったん会社に戻られるんですね」

 言うと、花実さんは「いやぁ」と、ばつが悪そうに頭を掻いた。

「実はこのあと、配達がまだ何件かあってね。ここを中抜けさせてもらって、そっちにまわらなきゃいけないんだ。おトキさんにも了承は得てるよ」

「設営の合間に配達業務まで……お忙しいんですね」

「いやいや。『貧乏暇なし』ってやつかな。まぁ、田中家が来る夕方までには戻るから、心配いらないよ。それに――」

 言って、祭壇の脇のほうをちらっと見る。

「供花の札順ふだじゅんも、まだ決まってないしね」

 視線の先には、ご親戚やご友人から贈られた供花がずらりと横に並んでいた。花実さんの言うように、贈り主の名札はまだ、どの供花にも挿さっていない。

 名札の並び順は血縁関係や付き合いの長さなどを理由に前後するので、こういったものは葬家の立ち合いのもとで決められる。花実さんたちは、そのタイミングに合わせて夕方頃にここへ戻ってくるつもりのようだ。

「わかりました。では、遺影の設置はまた戻られたときに――ということで」

 事情を汲んで、それを快く了承すると、

「ああ、悪いね。瀬古さんとこには、いつも融通を利かせてもらえて助かるよ」

 そう言って、手早く荷物をまとめた花実さんは颯爽と搬入口から出ていった。

 そのすぐ後につづく彼女は、去り際に僕のほうをちらりと見ると、なぜか人差し指で自分の目元を〝ちょん、ちょん〟と意味ありげにつついてみせた。

 なんのことかと思いつつ、つられて僕も目元に手をやる。

 しかし、すぐに〝その意味〟に気づいた僕は、そこでパッと手を止めて、やり場に困ったその指でぽりぽりと照れ臭く頬を掻いた。

 それを見た彼女はほころんだ口元を手で隠しながら小さくお辞儀をして帰っていった。

 してやられた、という思いで後ろ姿にそっと手を振る。

(あっ、そういえば……)

 名前のほうは結局わからずじまいだったけど、まぁいいか。それについては夕方に戻ってくるまでの宿題ということにしておこう。

「あとは遺影写真を飾るだけ、か……」

 ぽつんと取り残された僕は、そこであらためて祭壇に向き合った。

 その最上部を見つめながら、何故かぞっとして眉をひそめる。

 こうして眺めているだけで、無性に不安が掻き立てられるのはどうしてだろう。

 祭壇そのものは素人目にも素晴らしい出来栄えだとは思う。細部に至るまでラインの乱れもいっさい無くて、完成度としては非の打ち所がない。この場に立って見据えた人なら、間違いなく誰もがその美しさに息を呑むはずだ。

 しかし、なまじ綺麗に仕上がっているだけに、こうして遺影写真だけがぽっかり欠け落ちてしまっている様というのは、見様によってはなんとも「玉にきず」である。

 見れば見るほど、僕にはその姿が、かえって不気味なものに思えてきてしまった。


『そこにあるはずのものが、ない』


 そんな言葉が、ふと脳裏に浮かんでくる。

(なんだかイヤな感じだ。このまま何事もなく終わるといいけど……)

 胸騒ぎがした。

 何とはわからないが、ついつい悪い想像ばかりが膨らんでくる。

 考え過ぎだろうか。

 いずれにしても、あまり良くない傾向だ。このまま訳もなく悶々としているくらいなら、なにか作業にでも没頭しているほうが精神衛生上、良いのかもしれない。

「とりあえず、いまのうちに掃除でもしておこうかな……」

 頭の中に纏わりつくハエのような不安感を、そうして無理にでも振り落とした僕は、式場を後にするその足で館内を見回ることにした。


 足元に、ぽとりと落ちた不安の影。

 それをずっと、背後に従えたまま――


(つづく)

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