【日常編】
(2)変わった業界
話は数時間ほど
♦
四月七日(月)『
午前十一時三十分。
年季の入った軽自動車に唸り声を上げさせながら、僕は一路、都内某所の葬儀場へと向かっていた。
予定よりも到着が遅れていることに若干の焦りを感じながら、幹線道路をひた走ること十数分。しばらくして、大通りに面して並ぶビルのなかでも、ひときわ目立つ白い建物が目に入った。
あれが我が社の〝葬儀会館〟だ。
今日と明日の二日間、あそこで執り行われる葬儀に、僕はこれからスタッフの一人として関わることとなる。
会館の前をいったん通り過ぎてから、ハンドルを切って隣の駐車場に滑り込む。
ガラガラの駐車場はどこにでも停め放題だったけれど、まだ運転に不慣れな僕はハンドル捌きが思うようにいかず、ふらふらと何度も切り返しを試みる。
そうして、しばらく格闘した末に(あれだけ空いてたにも関わらず)最終的には先客であるトラックの隣に、ぴったりと横付けするかたちで駐車した。
エンジンを切って、持参した黒いバインダーに視線を落とす。
表紙に『田中家』と書かれたその中身は、今回の葬儀に関する資料一式だ。費用の見積書をはじめとして、打合せの担当者から
田中家の葬儀日程は、今日がお通夜で明日が葬儀と告別式。二日間の式進行を担当する係員の欄には『
『担当補佐:
僕の名前が小さく書き加えられていた。
受注書の内容を頭に叩き込んで車から降り立った、そのとき。
どこからともなく甘い匂いが漂ってきて、不意に鼻をくすぐった。
(花の香り――)
隣のトラックからのようだ。車両後部の荷台を、すっぽりと覆い隠すように
なかに顔をつっこんだ瞬間、むせるような青臭さが混じった芳香がむわっと匂い立つ。ひくひく鼻を鳴らしてみると、僕の気を引いた甘い香りはカトレアのものだとわかった。
ぷはっ――と、顔を離して息継ぎする。
そのままトラックの車体に視線を這わせると、ドアの部分に花屋さんの看板がプリントされていた。受注書によると、今回の生花の飾りつけは、この『
だとしたら――と視線の向くさきを建物にうつして、「今頃は、あそこで設営作業の真っ最中であろう」と見当をつける。
のんびりしている場合じゃなかった。
バインダーを脇にはさんで、後部座席からごそごそと荷物を取り出した僕は、それを両手に抱えたまま会館正面の入口へと向かう。
歩道に出て少しばかり歩くと、会館の入口横に高さ八尺(ニメートル四十センチ)ほどの大きな布張りの看板が見えた。
『 故
看板の中央には故人の名前が。
その両脇には葬儀の日程が書かれていた。
『(通夜) 七日 十八時~ 』
『(葬儀・告別式)八日 十時 ~ 十一時』
故人名と日付に間違いが無いことを確認してから中に入る。
自動ドアをくぐると、すぐに受付と記帳用のカウンターが目に入った。壁に沿ってL字に伸びたカウンターには、ボールペンや芳名カードが整然として並んでいる。
館内は、いやに静かだった。
ロビーを見渡すも人影らしきものは見当たらない。
それもそうか。なんたって、いまはお通夜の準備中だ。いくら葬儀屋が年中無休の二十四時間営業とはいえ、この時間帯はまだ一般の利用者も来ないのだから、パッと見には開店休業と変わりないのも当然といえば当然だろう。
それでも、こう見えてその裏では、なにかと慌ただしくしているはず。
僕が急いで駆けつけた理由もそこにある。
作業に加わる前に、まずは事務所のある三階に一声かけておこうと思い、カウンターに備え付けられた内線電話に目を向ける。
しかし、その前を
どうやら館の主は一時的に不在のようだ。
はて、と首を傾げた。
葬儀の担当者である音喜多さんはこの会館の館長でもあるのだけれど、その彼女が席を外しているということは、準備のほうはどの程度進んでいるのだろうか。
どうしたものかと手をこまねいていると、通路の奥からバタン、バタンと、なにやら騒がしい音が響いてきた。
わざわざ電話するまでもないか。先にあっちの様子を見ておこう――そう思い立って、音のするほうへと足を運ぶ。
この通路を抜けた先にあるのが式場だ。
式場はこの一階フロアの大部分を占めており、中は広々としていて、ざっと四十人くらいは余裕をもって座れるくらいの大きさだ。白を基調とした両の壁に、温白色の照明が光の線を描いている。華美な装飾はあまり無くて、宗教的な仰々しさもそれほど感じさせない、いたってシンプルな造りである。
式場内では、黒いTシャツに腰元でエプロンを巻いた五十代くらいの男性が、似たような装いの女性と二人がかりで設営作業の真っ最中だった。バタン、バタンと、折り畳み式のテーブルを何台も立てては並べている。
二人いるうちの男性のほうは花実生花店の社長、
もう一人はそこの社員さんで、僕と同年代くらいの小柄な女性だった。見知った顔だけど、名前がすんなり思い出せない。彼女とは以前に簡単な挨拶を交わしたことがあって、そこで名前を聞いたときに「お花屋さんらしい、可愛い名前だな」という感想をなんとなく抱いた覚えはあるのだけれど、それが何だったかはうっかりド忘れしてしまった。
自社の人間だけならまだしも、関係各社全員の名前と顔が一致するまでには、まだまだ時間がかかりそうだ。
「おはようございます」
「おう、誰かと思ったら宮田くんか。おはようさん」
こちらに気づいた花実さんが、手を挙げて挨拶を返してくれた。
バリトンの声が式場内によく響く。
女性のほうは目が合うと、ぺこりと小さく首を下げた。
「
「みたいですね。買い出しか何かですか?」
「ああ、あとは……銀行がどうとか言ってたかな。宮田くんは、いま到着かい?」
「いやぁ、まぁ。本社のほうで色々とやることがありまして……」
本社というのは、この葬儀会館から車を三十分ほど走らせたところにある社員の詰め所だ。とは言っても、そこには応接室とか備品倉庫なんかがあるくらいのもので、
本社と会館とでそこそこの距離があるのは、後から会館を建てるにあたって、会葬者(葬儀に参列するお客様のこと)の交通の利便性を優先したからだそうだ。
「そうかい。また本社の連中に雑用でも押し付けられたか」
「まぁ、そんなところです。だから到着が遅くな――っと、と!」
しゃべりながら歩いていたら、つまさきが床に引っ掛かった。
感触的にビニールシートか。それで足を取られてしまい、つんのめって転げる寸前で、なんとかバランスを取りもどす。
あぶないあぶない……。
抱えた荷物で、すっかり足元がおろそかになっていた。
「宮田くん気をつけなよ。床、養生してるからさ」
「ど、どうも……」
忠告を受けて慎重な足取りで歩を進める。
花実さんは作業の手を休めることなく、顔だけ向けながら話をつづけた。
「ところで今日の『田中家』は、きみが担当かい? もう独り立ちしたの?」
「いえ……さすがにそれは、まだ……」
言って、自嘲気味に笑みを浮かべる。
「担当者は音喜多さんですから。僕はただのサポート係ですよ」
そう、僕はあくまでも担当〝補佐〟だ。
葬儀の陣頭指揮をとるのは音喜多さんで、それが滞りなく進行するよう後ろで支えるのが僕の役目――とでも言えば、いくらか立派には聞こえるだろうけど……まだ入社して間もない僕なんかに出来る手助けなんて、実際にはほとんど無い。
担当補佐とは名ばかりで、要するにただの「見習い」だ。せいぜいその頭に「雑用、兼――」が付く程度の。
右も左もわからないド新人が、いきなり葬儀の担当など任されるはずもないので、入社から数カ月はこうして先輩方に付いて回り、社会人としての一般的な常識と、葬儀業界の非一般的な常識をイチから現場で学んでいくことになる。
「そういや、そうか」花実さんが笑った。
「まだ入社して一カ月だっけ。あちこちで会うから、もうすっかり〝現場の人間〟かと思っていたよ」
「そりゃあ入社初日から、ずっと現場にだけは駆り出されてますからね……。てっきり、最初のうちは座学で基礎知識の勉強とかやるもんだと思ってましたよ」
そこはかとなく疲労感を醸しながらそう返すと、「初日から? それはそれは……」と憐れみの眼差しが向けられる。
「まぁ葬儀屋は現場に出てナンボだからね。いくら頭の出来が良くても、ただ机に向かってるだけじゃ、どうにもならんしな」
「ええ。上の人たちからも『とにかく見て覚えろ』としか……。ちゃんとした社員研修なんて、あってないようなもんでしたし……」
そんなつもりではなかったけど、話しているうちにどこか愚痴っぽくなってしまった。それでも花実さんは嫌な顔ひとつ見せずに「だろうね」と共感を示してくれる。
「なんせ変わった業界だからね。ウチら下請けの花屋だって『見て覚えろ』、『やって覚えろ』が当たり前の世界さ。特に葬儀屋ってのは昔気質の人ばかりだから……」
不憫に思ってか眉尻を下げて言う。
「……若い子は、まぁ大変だと思うよ」
「ですね……」
葬儀屋というのはご多聞に漏れず、かなり特殊な業界のようだ。ご年配の方でも葬儀の知識に明るくない人は世間に多くいるのだから、僕のような若造にとってはなおさら未知の世界である。
そのため覚えることはとにかく多いし、そのうえ礼儀作法にもとにかく厳しい。葬儀を依頼する人たちは、事情が事情なだけに心身ともに疲弊しきっているので、接客の仕方からして普通のサービス業とは大きく勝手が違ってくる。
僕たちはある意味で、お客様にとっての〝精神的支柱〟でなければならないのだ。
それゆえ担当者に求められるものは、豊富な知識と現場経験、そして冷静な判断力――どれも一朝一夕で身に付くような物でもないので、まったくの未経験から独り立ちできるまでには早くても半年か、人によっては一年以上かかったりもするという。
その点、早いか遅いかで言えば自分なんかはまず後者だろう。
なにしろ僕は、お世辞にも要領が良いほうだとは言い難いし、子どもの頃は「何事も慌てないように」とか「もっと周りをよく見ましょう」が通信簿の常套句だった。
正直な話、そのような性分は今もたいして変わっていないとは思う。でも、それを理由にいつまでも「見習い」なんて身分に甘んじているつもりもない。
兎にも角にも、一日でも早く担当者として独り立ちすること。それだけが、さしあたっての課題なのだ。それならば、むしろ今回の葬儀も「担当者は自分だ」と自負するくらいの心構えで臨んでみようじゃないか。
「担当者といえば……」
ことのついでに、ふと訊いてみた。
「花実さん。音喜多さんって、現場では……その……どんな感じの人なんですか?」
「どんな感じ、って言われても――」
花実さんはそこで少しだけ手をとめて、
「――きみ、おトキさんとは初対面ってわけじゃないだろう?」
「いえ、まぁ、そうなんですけど……」
花実さんの言うように、たしかに音喜多さんとは、すでに何度も顔を合わせている。ちょっとした用事でここに立ち寄った際には、ついでとばかりに雑用を言いつけられたりもするし、手が空いたら雑談に興じることだってある。
でも、僕が知っているのは、あくまでも〝話し相手としての彼女〟であって、
「現場での
言うと、花実さんは心中を察したように「心配いらないよ」とうなずいた。
「そりゃあ仕事に厳しい一面もあるし、ちょっと変わったとこもあるけど、べつに怖い人ってわけじゃないからさ。きみと同じでまだ若いのに、大したもんだと思うよ、彼女は」
「そうですかね」
「ああ。あの人に面倒を見てもらえるなら、きみも安心だろう。それこそ『見て覚えろ』ってんなら彼女が一番、適任じゃないかな」
「そう……ですかね」と言いつつ、あたりを見回す。
(当の本人は、早々に指導を放り出しているように見えるけど……)
ざっと見た感じ、ここいらで準備するべきものは、すでにあらかた片付いているようだった。僕の到着を待たずに、音喜多さんは自分一人でさっさと済ませてしまったらしい。
なんだよ、急いで来て損した……と溜め息が漏れる。
物を教わる立場として、せめて準備くらい手伝わせてほしかったのに。そりゃあ遅れた自分が悪いのは百も承知だけど、それでも、ちょっとくらい仕事を残しておいてくれてもいいじゃないか――と口を尖らせていると、
「社長……あの……」
さっきから黙々と作業に勤しんでいた女性が遠慮深そうに声をかけた。
「祭壇花、運ぶので……手、いいですか?」
花材を運ぶのに人手が欲しいようだ。花実さんが「ああ、ごめんごめん。いま行くよ」と片手をあげてそれに応じる。
「それじゃあ宮田くん。
「あっ。す、すみません、手を止めさせちゃって……」
仕方がない。このまま居座ったところで僕に出来ることはなさそうだし、かえって作業の邪魔にもなりかねない。
おとなしく退散しよう。
「じゃあ……あとはよろしくお願いします」
(つづく)
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