ゆうべには白骨となる

戸村井 美夜

ゆうべには白骨となる

【序章】

(1)幽霊でも出たの?

 暖かい春の陽射しが眠気を誘う昼下がりの午後のこと。

 ゆったりと過ぎ去っていく時間の流れが、どこか心地よい倦怠感をもたらすさなかに、僕はひとり血相を変えて事務所のドアを押し開いた。

 転げる勢いで中へ入ると、そのとき事務所にいたのは、紺色のカーディガンを肩で羽織った女性社員がひとりだけ。彼女はデスクの椅子で長い黒髪をだらりと垂れ下げ、背もたれに深く沈むようにして物憂げに視線を泳がせている。

 開口一番に「大変です!」と告げた自分の声は、直後にかかってきた電話の着信音に、あっさりとかき消されてしまった。

 最初のコール音が鳴り止まぬ内に素早く受話器を取り上げた彼女は、僕の異様に焦った様子を察しながらも、こちらに突き出した左手と視線で『ちょっと待て』の合図を送る。

「お電話ありがとうございます。瀬古葬祭店せこそうさいてんでございます」

 背もたれからガバっと身体を起こすなり、居住まいを正して穏やかな声色で話しだす。かしこまった口調に反して、ゆるゆるのリボンタイがブラウスの胸元でだらしなく揺れている様が、なんともで滑稽だ。

「――はい。――はい。本日お通夜の田中家へのご供花でございますね。ご注文ありがとうございます。お花の種類は洋花となりますが、よろしいでしょうか。――では、後ほどファックスでご注文用紙を――」

 やきもきしながらドアを背にしてたたずむ僕を尻目に、彼女は淀みなく電話口での応対を済ませた。相手が切るのを無言で数拍待ってから受話器を静かに置いたと同時に、僕はせきを切ったように声を上げる。

音喜多おときたさん、大変です!」

 たったいま、緊急事態が発生しました――と悲壮感もあらわに、そう切り出した。

 しかし電話を終えたばかりの女性社員、もとい音喜多佐和子おときたさわこさんは座ったままグッと大きく伸びをして、

「……マコ。帰ってきて早々騒がしいね」

 電話口とは別人みたいに気怠そうな声でそう応えると、ぷつんと糸が切られたかのように、ずぶずぶと椅子に沈んでいく。

「なによ、そんなに慌てて……緊急事態?」

 僕はぶんぶんと首を縦に振った。

「また霊安室に幽霊でも出たの?」

 今度は横にぶるぶると振る。

 冗談じゃない。

 たしかに、僕がついさっきまで地下の霊安室にいたのは本当だけど、あそこで遭遇した出来事は幽霊どころの騒ぎではない。

 音喜多さんの目が怪しく光る。その訝しむような視線で、僕の全身を上から下へと値踏みをするようにゆっくりなぞる。

 このとき僕は、ひたいがじっとりと汗で滲んでいた。たぶん顔色もそうとう悪かったのだろう。息苦しさに肩は大きく上下していて、ぎゅっと結んだ両手の拳はカタカタと恐怖に震えている。そんな様子をまじまじと見て、おそらく彼女は「本当に、この世ならざるモノでも見てきたか」とでも思ったに違いない。

「何があったか知らないけど……幽霊の一人や二人でいちいち驚いてたらキリがないよ。いいかげん慣れなさい」

 ぶっきらぼうにそれだけ言うと、くるりと椅子ごと背を向けてしまった。

 まさに「けんもほろろ」って感じだ。

 おおかた「またいつもの、しょうもない馬鹿騒ぎがはじまった」くらいにしか受け取られていないのだろう。僕がなにを言おうとしても、聞いてるんだかいないんだか、それきりまともな返事がない。

 すっかり外方そっぽを向いてしまった彼女の視線は、壁に二つ並んで掛けられている液晶画面のモニターに集中していた。その片方は監視カメラの映像だった。館内のあちこちを映したものが数秒ごとにパッパッと、せわしなく切り替わっていく。

 もう一台のほうはというと、地上波で旧作映画を放映しているようだ。いかにも古めかしい、ざらついた画質。たぶんSFか何かだろう。リモコンでさりげなく上げられた音量から察するに、音喜多さんが熱心に見ているのは監視映像のほうではないらしい。

 その証拠に、ぽつりと一言。

「……『エイリアン2』。今いいとこなの」

 だそうだ。

 邪魔してくれるな、という意味か。

(おいおい……)

 ようやく口を開いたかと思えばこれだ。

 何も事情を知らないとはいえ、僕と彼女とでこうも意識の差があるとなると、まるで全人類で自分だけが〝この世の終わり〟を知らされてしまったかのような、そんな心細い気持ちになった。

 ふとテレビに目を向ける。なにやら薄暗い地下水路のような場面がそこに映し出されていた。金髪の幼い少女が、たった独りで水路のなかを彷徨っている。小さな身体を肩まで水に浸からせて、不安そうに辺りをきょろきょろと見回しながら。状況からして、敵地で仲間とはぐれてしまったのだろう。僕はその少女の境遇に、心の底から同情した。

 とはいえ、僕の話がまともに取り合ってもらえないのも、後から思えば無理からぬことではあったのかもしれない。

 なにしろ僕は、このときすっかり気が動転しており、口を開けば「あの、ご遺体が……その……えっと……べ、べ……べ……!」といった有様で、どうにもこうにも舌がうまく回ってくれない。これではまるで針の飛んだレコードだ。

 それでも構わず一方的に話していると、

「……あのねぇ」

 その声は明らかに苛立っていた。

「ちょっとは落ち着いてしゃべりなよ」

 軋んだ音を立てながら、ぎぃっと椅子がこちらに回る。

「だから、ご遺体がどうしたっての? どうせ、またいつもみたいに『ご遺体がしゃべりました!』だの『髭が伸びてます!』だの、くだらないことで大騒ぎしてるんでしょう」

 業を煮やした音喜多さんが、一転して詰め寄ってきた。

「……それともあんた、まさかとは思うけど『うっかり手が滑ってひつぎをひっくり返しちゃいました』なんて、ふざけたこと言い出すんじゃないでしょうね!」

「あ、いえ! そそ、その……そういうのじゃないんです」

 ただ――と口にして、そこでまた言葉が途切れてしまう。

「……ただ?」

 墨のように黒い瞳が、じ――っと僕を見つめてくる。切れ長の眼から放たれるナイフのような鋭い視線。あの眼力に射竦められたら、僕じゃなくたってガチガチに凍りついてしまうだろう。

「ただ……その、つまり……」

 しばらく逡巡を重ねて口ごもる。

 空気が重い。

 だめだ、もうこれ以上は耐えられない。

 悠長に言葉を選んでいる暇はなさそうだ。

(こうなったら事実を見たまま伝えるしか――)

 思い詰めたあまり、やけくそ気味になった僕は『ええい、もう全部言ってしまえ!』とばかりに、自分が目撃したことを洗いざらい吐き出した。

「音喜多さん。信じられないかもしれませんが……実は……」

「実は、なによ?」

「実は、田中さんのご遺体が――!」

 そうして最後まで言い切った、その瞬間。

 事務所の空気が、たちどころに、しん――と静まりかえっていくのを感じた。

 すぐそばにあるテレビの音も、不思議と遠くに聞こえていた。

「はぁ? あんた……なに言ってんの!?」


 嗚呼、

 言った。

 言ってしまった。

 これでもう引き返せない。

 背筋を冷たいものがゾゾッと走る。


 言霊というやつだろうか。それまでのもやのような漠然とした不安が、言葉にして語られたことで、はっきりとかたどられていくかのような――そんな感覚に陥って、僕の心はすっかり打ちのめされてしまった。

 自分で吐いた言葉によって、あらためて思い知らされたのだ。いま僕たちの置かれている立場が、考えうる限りの〝最悪〟を意味するものであることを。

 それから、二人きりの事務所は気まずい沈黙に包まれた。

 ぽかんと口を開けたまま固まっている音喜多さんは、ただ茫然として二の句を継げないようであった。

 それだけ衝撃を受けたのだろう。

 するどく細められていた二つの眼も、いまは零れ落ちそうなほどに大きく見開かれている。その内なる声を代弁するかのように、そのとき突然、テレビから絹を裂くような悲鳴があがった。

 水路を彷徨う、あの少女の悲鳴だった。

 見ると、水中から姿を現した黒い怪物が、いまにも襲い掛からんとして、その背後にまで迫っている。

 振り向いた幼顔が恐怖に歪む。

 それからは、あっという間だった。

 非力な少女にたいした反撃など出来るはずもなく、その小さな身体はあえなく掻きさらわれてしまった。

 少女が手にしていた人形だけが、その場にぽつんと取り残される。


 不気味な静寂、そして――


 水面を漂うその人形も、やがて水中に飲まれて消えた――


(つづく)

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