第5話
補給や交代の為に軍艦が停泊している間の上陸許可は正式の休暇じゃない。乗艦中は果たせない陸上での用を済ませるために交代で下艦できるだけ。だからこそ乗員は軍服で世間に上陸する。勤務中だからだ。点検や修理のために数日の入港になる場合は本当の休みを申請して郷里から家族を呼んで面会することもできる。
男にとって必要な『用事』には女を抱くことも含まれてるから殆どの連中は夕方から朝にかけて色町に繰り出す。お目こぼしの外泊で朝食後の点呼までには艦に戻らないといけないから朝飯を食べる暇なんかはない。泊まり祝儀で稼がせてもらった敵娼も駆け出して行く背中に、また来なさいよとか身体に気をつけてとか、ありきたりだが言われると嬉しい言葉を投げつけるのが精々。
客が早く帰ってくれると女たちの休憩時間は増えるし、片付けや掃除の段取りもよくて妓夫にとっても有り難い。
賄いの為の通いのオバチャンが出勤したのと入れ替わりに俺は店を出た。寝に帰る長屋の借家は少し歩いた路地の奥にあるが、ぶらぶら色町の出口に向かう。東京が江戸だった頃の吉原と違ってこの町は壁で囲われ出入りに制限がある訳じゃない。ないが、港に通じる大通りに形だけの大門があり、わきには柳の木も植えてある。柳の脇には簡単な小屋がけの茶屋があって、いろんな妓楼の用心棒や妓夫の集会所みたいになっている。
「零一兄さん、待ってたぜ。夜に憲兵が踏み込んだそうじゃないか。捕りもの騒ぎだったのかい?」
今朝は町の親分のところから若いのまで来ていた。だろうとおもって、こっちも顔を出した。こういう商売じゃ付き合いというか、情報交換は大切。
「おぅよ。憲兵の集団がドカドカ踏み込んで来た時は魂消たぜ」
どんな夜中でも格子や障子の隙間から、必ず誰かが見ているのが色町というところ。人目につかないよう長暖簾の内側に入った連中の用心は意味が無かった。
「客で来てた仲間を迎えに来ただけだったがな。出て行った後は知らないがナンかあったのか?」
逆にこっちから尋ねてみる。知っている奴はいなかった。『捕り物』は町内じゃなかったらしい。
ほっとして、朝飯の奈良茶を食いかけたところで。
「ああ、居た。レイさん、店に戻ってくれ」
俺を捜しに来た下足番の爺さんの顔色は、俺の考えが大甘だったことを悟らせるのに十分すぎるほど血の気が引いていた。
ヘタクソな同族の仕業だと俺はすぐ分かった。髷で隠れる耳の裏側に傷があった。幸い人間の医者は気がつかなかった。いや気づいても、売笑していれば興奮した男に噛みつかれることもある、くらいに考えていたのかもしれない。それでも重度の疲労と貧血による息切れと立ちくらみ、めまいによる転倒、それによる裂傷という診断は的外れじゃなかった。
「あんな場末の待合に居たあんたも悪いんだ。うちの妓が用があるような場所じゃないだろう。よくしてくれる旦那に不義理したからバチが当たったんだよ」
夜明けの裏路地で転んで額と顎を怪我し、低体温で衰弱しかけていた牡丹に女将は怒鳴り散らす。最初の被害は初心なネンネの可哀想な無知ともいえるが、一人前の娼妓になったあとで男に騙されるのは自己責任。
「次は証文を他所に流すよ。お前の今までの稼ぎは契約違反の賠償金として没収する。お前は他所の土地で、利子のついた借金の返済をいちから始めることになる。よく覚えておきなさい」
普段、妓楼の経営に口を出さない亭主まで苦い顔をして厳しいことを言い渡した。娼妓に売られた女の子の殆どは帰る親元がない。あってもその親元は娘の稼ぎをあてにして暮らしている。女将の叱責を聞き流していた牡丹が亭主の通告にはきゅっと唇をかみ締めた。色町だけじゃなく人間の世間全体、金が無いことは首が無いことと同じ。自分自身の所有権さえなくす。それでも次という温情が与えられたのは牡丹が金持ちの馴染み客を持っているからだ。変則でも金払いはいい。
「れーちゃんお願い。次に神林さんが来たらアタシに給仕させて」
怪我が治るまで二階の居間に監禁状態、三流以下の待合で勝手な逢引をしていたお職の顔の怪我は緘口令がしかれたが、そっと俺の袖を引く姐さんも何人か居た。
「あの人、むかし好きだった相手に似てるのよ。それよりずっといい男だけど。お願い、一回だけでいいから話をさせてちょうだい」
必死さに同情する余裕はなかった。曖昧に笑って誤魔化した。
牡丹の首の傷をつけたのは誰だ。
この土地に定住してる同族の中では俺が一番、古くて強い。俺が居ついてる妓楼のお職に手をつける命知らずは居ない。とすると外から来た奴が犯人だが、それは憲兵が追いかけてた相手か、それとも別の固体か。
頭の痛い思いをしながら数日を過ごした。客の少ない平日の夕暮れ時、そろそろこの土地も引き揚げ時か、なんて考えながら帳場に座っていると、白くて長くて形のいい爪の指先が長暖簾を割って。
「……え」
姿を見せたのは若い憲兵。乗艦は二日前に出港したのに。それにいつもの軍服姿じゃない。背広の上着を着ず、開襟シャツにループタイという流行の洋装姿は金持ちの学生か、せいぜい新任の私立名門校の教師にしか見えない。
「え、えっ?」
「幽霊でも脱走兵でもない。心配するな」
驚きすぎて迎える言葉もない俺に、若い客は苦笑い。
「この前は夜中に騒がせて悪かったな。ちょっと時間、あるか?」
ヤバイ気配に、腹を括りかけたところへ。
「まあ、旦那、海で溺れて化けて出ちまったんですか?」
話し声を聞きつけた女将が奥から騒がしく出てくる。
「お仕事の都合で陸上勤務になられたってンなら、艦が出港する前に教えてくださる筈ですもんねぇ。そしたら牡丹が盲腸で入院したこともお知らせできたのに。まさかそんなに薄情な筈は無いから、やっぱり幽霊ですよね」
牡丹の首筋の怪我を、吸血鬼を追ってるらしき憲兵に見せるわけにはいかない。入院で誤魔化そうとした女将はさすがに筋金入りの玄人女だ。つられて出てきた娼妓たちも余計なことは口走らない。彼女たちは女将が牡丹の顔の怪我と裏部屋を隠蔽しようとしていると思うだろう。
「意地悪いうな。そんな話を聞いたから寄ってるだろ」
「はいはい、お有難うございます。けど見舞時間は終わっちまってるし、病衣のスッピンをあの子も見られたかないでしょうよ。まあでも座敷に上がって一杯のんでって下さいな。軍艦が出てってしばらくウチはでっかい閑古鳥飼ってンでね。退治してもらいましょ」
女将の後ろで女たちがざわつく。牡丹の身代わりを女将が勧めるのなら、是非とも選ばれたいと思ってるのは何人も居る。
「それは今日の今度にしてくれ。今日はこの前の今度しに来たんだ」
そこまで言われてようやく思い出す。ドイツ人のやっている酒場に連れて行くと約束していた。
「借りていってかまわないか?」
「どぉぞぉ。妓夫がいなくて困るほどお客さんも来ないからねぇ」
言葉と裏腹に女将の口元は口惜しさと怨念で歪んでいた。
黄昏時の通りを並んで歩く。途中で煙草をたかって火をつけてもらう。宵闇の中、ライターの炎を支える指先に見ほれながら、少し離れて後ろから聞こえていた足音が俺たちにあわせて止まるのを確認した。
「……なぁ」
ヘタクソな尾行を本職の憲兵が気づいていないとは思えなかったがいちおう確認する。目を伏せたままかすかに頷かれて、わざと追わせているんだと察する。
大通りから路地を二度折れて、もとは麹屋の麹室だった地下にその店はある。俺にはなんて書いてあるか分からない外国語の看板が揺れる扉の横には石油ランプが点され営業中であることを示している。扉を開けると梯子のような階段が長く続いてる。
吹き抜けのホールに似た天井の高い、ぶ厚い漆喰に守られた地下6メートルの空間は気温と湿度が年間を通してほぼ一定で、夏は涼しく冬は暖かい。8人が座れるカウンターと奥にテーブルが二つ。軍艦の入館時は佐官クラスが女を連れて来るが、今夜は妓楼同様に閑古鳥が鳴いていた。
「イラッシャイマセ、ハジメマシテ」
ドイツ人のマスターは銀髪で碧眼の品のいい五十男。馴染みの俺が連れてきた若い客の手元にオイルランプを新しく点す。壁一面に並んでいるのは海軍客が多い以上は当然の、英国産アイリッシュ。慣れた様子で瓶をざっと一通り眺めて、
「コルンは?」
看板ど同じく俺には分からない言葉をインテリな二枚目は口にする。
「ゴザイマス」
「あるなら、ブラント」
「モチロン、ゴザイマス」
マスターは嬉しそうにカウンターの下から白いラベルの緑色の瓶を取り出した。
「穀物二倍。直訳すればな。ドイツの麦焼酎だ」
「ロマンが一瞬で消えた」
「水は別でもらってそのまま飲むが、付き合わなくていいぞ」
「なにそれバカにしてんのか?」
もちろん俺も同じように注いでもらう。用意してくれている間、また俺には分からない言葉で客が何か言た。マスターがまた笑う。ドイツの酒を褒めているんだろうと見当はついた。俺は振り向いて入り口を眺める。続いて入ってくる客は居ない。
透明な酒はウィスキーやブランデーみたいに際立った香りは無かった。度数の高い蒸留酒の気配が鼻腔をくすぐるだけ。口に含んでも『味』はない。ただ透明な酔いが静かに、全身に染みていく。
「美味い。けどあんたのせいで麦焼酎飲んでる気がする」
「そりゃ悪かった」
早口の俺たちの会話がマスターは聞き取れなかったようで、少し寂しい顔をする。若い客がまた小声で、どうやら通訳したらしい。珍しく声を出して笑った。時々水を口にしながらショットグラスに半分の酒を飲むうちに、グラスを掴んだ指先がゆっくり、透明感のある赤に染まっていくのを俺は横目で眺めていた。
「盲腸じゃなくて怪我してるだろ」
油断したところで突然、斬りつけられる。
「誰にやられたか、聞いたか?」
「……」
「かかってる嫌疑は内乱罪容疑者の隠匿だ。嘘はつくな」
「その嫌疑」
グラスの中身を一口飲んで、身体ごと客の方をむく。
「かかってるのは牡丹だけじゃないんじゃないか?」
「返事は?」
「誰かと外で会ってたのは間違いない。ただし怪我は帰りに転んだ顔と膝だ。刀傷じゃない。医者に問い合わせれば確認がとれる。会ってた相手が容疑者とやらなのか、牡丹がそれを知ってるかどうかは、俺には分からない」
「そうか」
客はあっさりしたものだった。水も全部飲んでから会計を済ませ、座ったままの俺に片手を上げて階段を登っていく。地上で扉が閉まる音がして十五数えて、俺は立ち上がった。
「イタソウデシタ。カワイソウニ」
グラスを片付けながらマスターが悲しそうに言う。まったくだ。俺も同じことを思った。同情を上回る腹立ちとともに。たぶん俺は、さっきの女将と似た表情をしているだろう。
酒に上気した喉に浮かんだ白い痣は静脈を狙うのがヘタな同族が皮膚の内側に打ち込んだ留置針。三日月形の爪が刺さりっぱなしなのはさぞ痛いだろう。虐待された怪我で足を引き摺る犬猫を見てるようで気分が悪くなった。
「オキヲツケテ」
背中を向けたまま頷いて地上へ出る。低い位置に浮かんだ満月が路地の先を行く人影を、地面に長々と映していた。
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