第4話

 シベリア出兵は陸軍主導だから海軍はそれを面白く思ってない。海外派兵だが海軍は殆ど協力していない。じゃあどうやってロシアに行っているかっていうと、宇品にある陸軍の運輸部本部が海を越えた敵地上陸までの移送を担当してる。海軍の軍艦は小型の巡回艇含めて装備や構造が戦闘目的で人員の輸送に向かないからでもあり、陸軍と海軍が反発しあってるからでもある。

 そんな事情は軍港の多い瀬戸内の色町じゃよく知られてる。軍人たちの酒席に侍ってりゃいやでも分かること。娼妓を含める街の雰囲気も、陸軍の輸送本部近辺は陸軍贔屓で海軍基地に近いところは海軍贔屓が多い。

 ただし憲兵は全員が陸軍の所属で各地の陸上司令部に勤務、必要に応じて海軍にも派遣される。『必要』ってのは不穏分子の調査と逮捕だろうから、軍艦に乗り込んでる憲兵の居心地が良くないことは簡単に想像できる。

「おかえり。お早いお越しで」

 この色町の妓楼は昔の吉原を模して江戸情緒風らしきものを演出しようとしていた。娼妓が並んで客を引く見世格子は通りに面して明るく、少し離れた入り口は長暖簾を垂らして内側があまり見えない。初めての客はそこが登楼の入り口ってことも分かりにくいだろう。もちろん外では妓夫が羽織着流しで客引きをしていて、興味を示した遊客を個別に案内する。

 長暖簾の内側は土間になってて薄暗い。だから、その隙間からすっと差し込まれる少尉以上しか身につけてない手袋の白さは眩しいほど鮮やか。逆光のシルエットだけでも見惚れる二枚目の憲兵は一般兵とは交代の時間割が違うらしい。いつも町が賑やかになる前に来て寝静まってる頃に帰っていく。

 乗艦が入港したのは知っていたから、そわそわ待っていたのは俺だけじゃない。格子の内側に並んでた女たちも裏廊下を一斉に廻ってきて玄関の土間を覗き込む。馴染みの横取りはご法度だから、自分たちより歳は若くてもお職を張ってる同僚の客を口説くことはできない。できなくても、歌舞伎役者もはだしで逃げ出す色男を眺めるだけでも嬉しいんだろう。

「……おかえりなさい」

 女たちの中から小さな声がした。小さかったから逆に薄暗い空間の中で響いた。下足番の爺さんに、靴は離れにまわしておいてくれとか、来た早々に帰る指示をしていた薄情な客がつられてそっちを見るくらい。

 無言のまま女たちは竦み上がる。怖いからじゃなくて。脇に立ってた俺まで不覚にもきゅんとした。客が不意打ちで笑ったからだ。ほんの少しだったが。

「ただいま」

 俺には返事もしやがらなかったくせに女たちには挨拶を返す礼儀正しさが憎らしい。俺には憎らしいが女たちはたまらなく嬉しいらしく、きゃあきゃあ言いながら色とりどりの袂と裾をひらひらさせて、押し合いへしあい、張り店もどきの格子の内側へ我先に逃げていく。もちろんそれも、怖いからじゃない。

「つくづく大したお方だよ。一人前の姐さんたちを女学生みたいに恥ずかしがらせるんだから。海に浮かんでいてくれてこの世の男たちは幸運だね。ふだんから街を歩かれてちゃ有象無象にゃ大迷惑だ」

 騒ぎを聞きつけて奥の帳場から出てきた女将も毒気を抜かれた様子で、娼妓たちの行儀の悪さを怒ったり詫びたりする前に呆れて肩を竦める。東京出身の女将は四十過ぎだが十歳は若く見える。口が悪いけど意地は悪く無くて、上客たちはそのチャキチャキした憎まれ口を好ましがる。着物は無地の地味な色目で襟もきゅっと詰め、髷も小さく簪も桜の枝を模した一本櫛。色町に慣れた男なら『売り物』でないと一目で分かる身なりにしている。それでも尚、口説こうとする奴が跡を絶たないくらい艶の乗った年増美人だ。

「ご無事めでたくおかえんなさい。けど、いっかいどっか行ってきちゃどうだい。いい若いモンがこんな時間から離れの二間で寝転がるのは野暮天もいいところさ。見た目は粋にしたたってンだから、たまにゃ中身も磨いておいで。ウチの妓夫は面白い遊びにゃ詳しいから案内させるよ」

 女将の台詞は商売っ気からだが本気の気配りも一割くらいはあった。申し訳なさ、だったかもしれない。妙な推薦をされた妓夫はもちろん俺のことだ。案内する気まんまんでもみ手をしてみたが、返事はいつもどおり。

「また今度な。とりあえず寝る。夕食の手配を頼む」

 実にそっけない。ここは旅館じゃないンだよといつもなら啖呵をきるだろう女将は曖昧に頷く。馴染み客には当然ながら馴染みの妓が対になってて、客が登楼したら他の指名は断って二人きりでしっぽり、ってのがお約束なんだが。

「牡丹はまだ帰らないのかい。あんたもう一回探しておいで」

 女将が八つ当たり気味に俺を叱責する。この客の『馴染み』の妓は客がいつも使う離れに寄り付かない。それどころか乗艦が入港した夜は一晩中、どこかに姿を消す。どこなのかは薄々分かっている。けれど。

「連れ戻さなくていい。たまには一人でゆっくりしたいんだろう。俺も同じだ。気持ちはよく分かる」

 この馴染み客は牡丹という名の若い妓に月々の手当と季節ごとの着物代まで払ってる。登楼した日の花代と祝儀は別に請求されるから、支払い対象の時間中は客が許せば牡丹は好きなように過ごせる。

 それが短時間ならよくあること。優しい客が可愛い馴染みにねだられて、活動映画やお祭りに行く中抜けの自由時間を認めてやる程度なら。ただ一晩中、ちらりとも姿を見せないのは異常だ。この客は牡丹と殆ど会ってもいない。色町ってのは掟破りを忌み嫌う。横紙破りの客と妓を、女将は尋常な形に納めなおしたいと思ってる。

 ただ、最初の始まりがそもそも異常だったからあまり無理も言えず、金払いと男っぷりが良すぎる上客を逃がしたくも無くていつもの調子が出ない。出せない自分の意外な弱さに自分で苛立ってる、そんな様子だった。




「アンタそのうち男爵になったりするのかい?」

 どこの色町でも上玉の水揚げ客はそのまま旦那になることを求められる。初物の食い逃げは許されない。法律で決まってる訳じゃないが軍人が多く出入りする場所で遊び方が汚いと悪評を立てられるのは出世に響くだろう。

 だから自分に寄り付かない妓にもめげず、寄港のたびに律儀に来ているのかと尋ねた。なるべく嫌味にならないように。

「日露戦争のとき、そんな遺言あったじゃないか。生きて戻ったら男爵夫人になれるから死んでも浮気するな、みたいな。そういうの狙ってんのか?」

「昇級したくなかないがそこまでの野心はない。大戦後に叙勲されるのは少将以上だからな。あと後半が違う。死んだら再婚していいって意味だ」

 若い客は着替えていつもの縁側に座る。俺が煎れた茶を美味そうに飲む。顔が整い過ぎて冷たく見えるけど慣れれば別に高慢でも嫌味でも無い。とくに親しみやすくもないが話しかければちゃんと返事をする。まともというか、きちんしてる。

「床とって行ってくれ。寝る」

 乗艦してれば夜勤もあるんだろう。眠いのは言い訳じゃなかったらしい。ご指示のとおり、俺は押入れから布団を出して床をのべた。パリッと糊のきいた白い敷布を広げてるうちに妙な気分なる。娼妓たちの部屋にある売春向きの組夜具と違って、尋常な掛け敷きを茶室めいた縁側つきの座敷に敷いてると、自分の部屋に連れ込んだ相手と仲良くする準備をしてると錯覚しそう。

「起きたら遊びに行かないか。女が居ない方がいいならそういう遊びもあるし」

「賭場に憲兵が顔出したら営業妨害だろ」

「帰化したドイツ人がやってる飲み屋は?舶来品そろってるぜ」

「……また今度な」

 それには興味がないでもないらしい。断りの返事が遅れた。

「今度の前に乗艦勤務が終わってもうここに来なくなったりすんじゃないか?」

「なっても金は送るから安心しろ」

「それで安心するのは女将で俺じゃないし」

「気の毒がって代わりに口説いてくれようってんならありがた迷惑だ」

「あんたみたいな上玉がいつまでも一人寝してるとか勿体無さすぎだろ」

「俺には一番贅沢なんだよ。おやすみ」

 布団にもぐりこみながらの言い草が耳に引っかかった。共寝にうんざりした娼妓たちが時々呟く台詞だった。口調までよく似てて冗談に聞こえなかった。

 経験があるのは不思議でもなんでもない。軍人さんだし、でなくてもこれだけの美形だ。 藤原頼長の台記から好色一代男の世之介まで、この国じゃ男色は途切れなく花盛り。

 惚れられるのは日常茶飯事で誘惑も多いだろう。『恋人』が居てもおかしくはない。でも肉体的な意味も含めての辛さに耐えかねてつい口走っちまったような嘆きには、精力家の恋人を惚気る甘さは少しも含まれてなかった。

「いま、なんてった?」

 返事は無い。おやすみを言った以上は答える義務はないと、少しだけ見えるうなじと形のいい耳たぶが告げていた。かなり好みのチラリズムだがその時の俺に肌の白さを観賞する余裕は無かった。なにが何でも詳しく聞いてやる決意で布団越しの肩に手を掛ける、本当に寸前。 

「女将に言いつけるぞ」

 背中ごしに投げつけられた一言に動きを止めたのは不覚だった。気づかれてたのか、カマをかけられたのか、どっちにしろビクッとしたら肯定したも同然。

「……おやすみ」

 あんまり俺がビクついたんで可哀想になったらしい客に、宥めるみたいな柔らかめの声でもう一度、言われて俺の落ち込みは増した。



 増したが、いつまでも鬱々と落ち込んでても仕方ない。登楼の客が増える時間帯になって客の案内や出前の注文や娼妓の割り振りやら忙しく楼内を駆け回ってるうちに、大した失敗でもない気がしてきた。

 強姦しようとして撃退されたわけじゃない。心配になって踏み込もうとしたら追い払われただけ。それも最後は冷淡さを謝られたみたいになった。俺の反応はちょっと情けなかったかもしれないが、惚れた弱みで情けなくなる男ってのは意外とウケがいい。女将との事情を察知されてたのは想定外だったが、口説いた後で知られるよりはマシだ。

 休憩の客を見送り終えて一息つき、泊り客が起きだす時間まで寝ないつもりで玄関脇の小部屋に入って一服する。万が一にも支払いしないまま逃げようって客の見張り番も兼ねてるから戸は無い。受払い簿をパラパラ捲ってると離れる客がいつものように銘酒つきの上等膳を仕出して、発注の横には支払いに済みを意味する白丸が書かれる。

 色町はなんでも割高だがこの膳は2円もする。小学校の教員の給料が50円なのを考えるとかなりの額だ。それでいていつも銚子には手をつけてない。なに考えてどういう意図で『泊まり』に来てるのか、女将じゃないが、ちょいと気味悪くもある。

「お膳をねぇ、梅千代に持って行かせたら、給仕もさせて貰えなかっんだよ」

 考えてたら女将が現れて俺の隣で煙草を咥える。両切りのチェリーを吸っては、あたしの名前が桜なんですよと客に笑いかけるのが得意技だ。マッチの匂いは煙草をまずくするから吸ってたやつを差し出すと、女将は咥えた先端を近づけて火を移す。

「不能にしては女の子たちに優しいし、なにがナンだか、よく分からないねぇ」

 同感だった。が、揚げ足を取られそうで相槌はよしておいた。

「アンタも振られたんだろう。ヤケッパチで今日はえらく働いてたじゃないか。普段からこの調子で気張って欲しいもんだがね。……アタシもちょっと休むよ。玄関番は頼んでいいね」

 頷く。

「あたしをすてるつもり?」

 それにどう答えたものか、煙草の火を消しながら考えてたところへ。

「夜分に失礼。こちらに神林中尉はいらっしゃるだろうか」

 サーベルの鞘がベルトに当たって音を立てないよう左手に持ち替えた本気軍装の憲兵が次々と長暖簾の中に入ってきて、俺と女将は顔を見合わせた。



 お仲間の呼び出しだぜと声を掛けるまでもなく、引き戸の錠を合鍵で開けた時点で中の客は目覚めてた。衣装箱の中に畳まれてた靴下からシャツまで順に手渡して着替えを手伝う。上着を渡して帽子を被ってる間に玄関の先回りし短靴の紐を緩めて左からはき口を広げて履かせ、紐をぎゅっと締めた。

 俺も客もほぼ無言だった。ただ出て行く前に横目でちらっと眺められる。気がきく行為に感謝の意味で、軍帽被ってると会釈が出来ないからその代わりなのは分かってた。分かっちゃいたが、流し目の目尻はなかなか堪らなかった。そんな場合じゃなかったとしても。

 離れから庭をまわって木戸の路地づたいに表に出る、客がいつも早朝に帰る経路で玄関に出て行くと憲兵たちは一斉に姿勢を正した。中の一人が耳元に顔を寄せて事情を小声で囁く。人間には聞こえなかっただろう。俺の耳にも幾つかの単語が届いただけだった。吸血、被害者、被疑者、追跡。

「……どういうことかしら」

 集団と一緒に出て行った客を女将が不安そうに見送る。うちの馴染み客が他の奴らを率いてた。

「誰かドジったかもしれないな」

 この街に定住してる奴じゃない。入港した軍艦に乗ってた憲兵を呼びに来て捕縛に行くのは、その艦に関係がある相手だ。

「オレとオマエがバレたんじゃないだろ」

 下艦して色町に泊まってたのは休暇じゃなく職務待機だったのかもしれない。だとすると女を抱かないのも酒を飲まない理由も分かる。

「若くて慣れてない奴だろうな」

 軍艦や寄宿舎といった、人の出入りが少ない場所に棲まない知恵もないまま同族になったのなら、そいつはこっち側にとっても『不穏分子』。

「怖いわ。あの客やっぱり、もう断りましょうか」

「バカ言うな」

 俺たちを疑ってここに内偵していたのなら、部下の憲兵に制服のまま迎えに来させたりはしないだろう。

「せっかくの情報源逃がしてたまるかよ。俺かオマエか、両方でもいいが、バレないように寝て懇ろになっちまいたいくらいだ」

 昼間、知ってる奴にはバレるやり方で無理やり抱かなくて良かったと内心、冷や汗をかいた。






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