大『久』保


 僕の本当の父親が住んでいるアパートは、電車で駅を二つ越えたところにあった。

 家賃の安いボロアパート、玄関からちらっと見えた部屋の中は、お世辞にも綺麗とは言えなかった。


「若いですね……」


 顔を突き合わせた瞬間、そんな事を口走ってしまった。

 家主、僕の生みの父親である大久保おおくぼようは不機嫌そうに顔を背けたあと、「十四歳しか変わらないからな」と言って、僕を部屋に招き入れた。


 畳の上に落ちている埃や髪の毛を手で払い、僕は部屋の真ん中に座った。

 僕と膝を突き合わせるように、彼が床に腰を落とす。

 机の類は無いらしい。台所の流しにあるカップラーメンは、どこで食べたのだろう?


「すまなかった」と、彼、今年で五十歳になるという僕の本当の父親が言った。

 太りにくい体質の僕と同じ血が流れているからか、それとも偏った食生活のせいか、彼は酷く痩せこけていた。

 手入れしていないにも関わらず口元の髭が薄いのは僕と同じ。やはり僕は、彼の遺伝子を継いで生まれて来たのだろう。


 ほろりと涙を流したあと、彼は堰を切ったように話を始めた。

 母親のこと。

 僕の出生のこと。

 その後の人生設計。

 彼女に母性はない、産まれた子は父が引き取ると約束した。だけど産み育てることが出来ないと悩んでいた時に出会ったのが僕の育ての父親だった。

 子どもを譲って欲しいという利明の父親に、僕の生みの親である大久保葉は喜んで了承し、僕を差し出したという。

 だけど年月を過ごすにつれて後悔の念を抱き、今日、僕のほうから会いに来てくれて嬉しかった、と。


 二時間に渡る言い訳と昔話を聞き、彼の声が途切れたところで僕は本題を切り出した。


「それで、僕の本当の名前はなんですか?」

「名前? 君の名前は利明だろう?」

「違うんです、それは僕じゃない。その名前はあの家の本当の息子のもので、本当の僕はあなたの子どもです。だから、僕の本当の名前を教えてくれませんか?」


 彼の顔が歪む。

 不思議そうに首をかしげたあと、やはり彼は表情を曇らせた。


「君が何を言っているのかよくわからないが、本当の名前なんてないよ」

「え?」

「産まれる前に手放す事を決めたんだから、名前などつけていない」


 僕は絶望した。


 名前なんかなかった、最初から。

 僕は大久保葉という父親から生まれた生命ではあるが、大久保なんたらという大久保家の人間ではなかったのだ。

 僕に名前はなかった。



 じゃあ、僕は一体、何者なんだろう?

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