田畑秋『徒』


 答えを見つけるきっかけをくれたのは、新しい家族だった。


「改名しましょう」と、彼女が言った。


 バスの中で偶然知り合った女性。

 引っかかった鞄を取ってあげた、たったそれだけで彼女は僕を気に入り連絡先を聞いて来た。


 一目惚れから始まった恋だけどあなたの事を愛しています。


 映画のような台詞で僕を口説き落とそうとする様が可愛らしくて、交際を拒む理由は見当たらなかった。


「苗字は私の姓にしましょう。仕事の関係で、私もそちらのほうが好都合なので」


 テキパキと婚姻の準備を進める彼女を、一度は止めた。

 名前を捨てると同時に職も実家も捨てた僕は、貯金を切り崩して暮らしていた。そんな生活が長続きするはずはないが、本当の自分を見つけるまでは定職にも就けない。

 こんな男を生涯の伴侶にするなどやめておいた方がいいという僕の言葉に、彼女はくすくすと笑った。


「家計は私が支えますから、心配しないでください。それに新しい名前をつけましょうとお話ししたでしょ? あなたはもう私の夫、秋徒さんです」


 相談したわけではないのに、彼女が僕の新しい名前を口にした。

 その後すぐに僕は彼女の夫となり、田畑たばた秋徒あきとという名前を手に入れた。





 杞憂をよそに、新しい人生のスタートは好調だった。

 時間に余裕が出来たので、今流行りの冒険小説を書いてネットに投稿する事にした。

 ふと、名前を考えないといけないことに気がついた。


 ニックネーム、偽名を考えなければ。


「名前を、考える?」


 途端、僕は吐き気を催して洗面所へ駆け込んだ。

 鏡を見ると、以前より膨よかになった僕の顔、秋徒という名前の男。

 確かに僕は、社会的には田畑秋徒という名前の人間に間違いない。


 だけどそれは所詮、妻がつけた架空の名前。


 いや、それを言い出したらキリがない。

 生後七日以内に役所に届ける氏名だって誰かがつけたもので… …

 じゃあ、利明という名前は? 偽物なのか? 違う、あれはあの家の本物の息子のものだ。

 僕は大久保葉から生まれた生命だけど、その家の本当の息子ではなくて。

 だけど秋徒という名前も、ある意味偽名に過ぎない。


 名前とは、その人の存在意義とは何なのだろう?


 本当の自分ってなんだ?


 本当の僕は一体、何者なんだろう?



 考え始めたらわけがわからなくなって、妻が帰宅するまでの四時間半、僕は洗面所に座り込んでいた。

 仕事から帰った妻に声をかけられたことで、ようやく我に返る。


「なんでもない。ただ少し、吐き気がして……」


 そう言うと彼女は不思議そうに首を傾げ、くすくすと笑った。


「私のつわりが、あなたにうつっちゃったのかな?」


 はっとして顔を上げると、彼女が穏やかに微笑んだ。


「正常なら今二ヶ月。明後日お休み取れたから、病院に行こうと思うの」



 土曜だったせいか、付き添いの男性はたくさんいた。

 同じソファに座り、妻の腹を撫でている者までいて、僕はどこに目を向けていいかわからず俯いていた。


「これが赤ちゃんです」


 写真を見せられてもよくわからなくて、コレが人間になるという実感がなくて、僕は呆然と医者の話を聞き、妻の後について病院を出た。


 嬉しそうに僕の前を歩く妻の背中。


 今思えば手を繋いで、僕が彼女の身体を支えてあげなくてはいけなかったのだろう。

 当時の僕はそれすら気づかず、【本当の自分】とやらを探すのに精一杯だった。





 転機が訪れたのは、妻の腹に新しい命が宿ってから九ヶ月経ったある日のこと。


「子どもがね、りんごが食べたいみたいなの」と、妻が言った。


 自分が食べたいだけだろとは思ったが、僕は黙ってキッチンへ向かった。

 産休中の妻に職場の同僚だという人が持ってきた、表面がキラキラした高級感溢れるりんご。

 サクッとりんごの皮にフルーツナイフの刃を突き当てた時、背後で呻き声が聞こえた。


 振り返ると、妻が腹を抱えて蹲っていた。


 ナイフもりんごも放り投げて彼女の元へ駆け寄ると、さらに苦しそうな声が聞こえた。

 緊急事態への対処法は心得ていたつもりだった。だけど実際にそれを体験すると頭が回らなくなって、僕は必死に妻の背中を撫でていた。

 しばらくして、大きく息を吐き出した妻が僕の手を握った。背中に置いた僕の手がゆっくりと正面、彼女の腹へと移動する。

 服の上からでもわかる、目に見えて波打っている妻の腹、胎児がいるであろう場所に手のひらが触れる。

 その時だった。



「おとうさん」と、声が––––…



 あり得るはずがない、子どもの声が聞こえた。

 茫然と固まって動かない僕に、妻が声をかける。


「産まれるわね……今日からあなたは、この子の父親よ」


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