そよ風亭と賃貸契約
店内はそれなりに広いが、その大部分がテーブルと椅子で占められていた。そのせいか、少し手狭に感じられるほどだ。席数は多いので、満席近く埋まるのだとしたらかなり人気店といえるだろう。飾り気はないが、掃除はしっかりと行き届いている。
レクトが室内を観察していると、奥の調理スペースから誰かが出てきた。少しつり目がちで、勝気な印象の女性だ。年齢はクレシェと同じか少し年上といったところ。食堂スペースに入ってきたときは笑顔を浮かべていたが、レクトたちを――より正確に言えばクレシェを見た瞬間に笑顔が引っ込んだ。
「なんだ、クレシェか。閉店の札、かかってなかった?」
「ちゃんとかかってたよ。大丈夫」
「いや、大丈夫、じゃないのよ。入ってきたらダメでしょ。まあ、いいけど……」
つり目の女性は呆れた様子でクレシェを軽くたしなめる。ただ、どこか諦め気味で、切り上げるのも早かった。慣れた対応からも、よくあるやり取りであることが伺える。
「それで、こんな時間にいったいどうしたの。その子の紹介? まさか、彼氏とか言わないでしょうね」
「違うよ! 変なこと言わないでくれない?」
仕返しとばかりに、つり目の女性がクレシェをからかう。もちろん、本気で言っているわけではない。他愛のないじゃれ合いのようなものだ。
店に入る前に知り合いだと言っていたが、もっと親しい間柄のようだ。
「友達?」
「そうそう。友達だね。だからレクト君も仲良くしてほしいな」
なるほど、とレクトは頷く。そして、自己紹介をすべく、つり目の女性に向き直った。
「……レクト。よろしく」
「えっ、ああ、うん。よろしくね。アタシはセーニャだよ」
前振りのわりに簡潔すぎる自己紹介にセーニャは一瞬だけ戸惑いの表情を浮かべた。しかし、すぐに気を取り直して、にっこりとほほ笑む。飲食店をやっていれば、変わった客に遭遇することはよくあるものだ。例えば、閉店の札を無視する知人だとか。それに比べれば無口な少年なんて可愛いものだ。
「フレトスは料理中かな?」
「そうだよ。今はちょっと手が離せないね」
「んー、じゃあ後でいいか。とりあえず、話を進めておこうかな」
「……何の話?」
セーニャは話が見えずに訝しげな表情を浮かべている。
レクトを連れてきたからには、彼に関係する話であると予想はつく。とはいえ、クレシェはときどき突拍子もないことを言い出すのだ。何度もそれに振り回されたことのあるセーニャとしては、思わず身構えてしまう。特にクレシェの表情が気になった。あの顔は何か企んでる顔だ。
「いや、そんなに警戒しないでよ。今、隣のアパートに空きはあるかな? できれば、レクト君の部屋を借りたいんだけど」
「ああ、そういう話か。一応、空いてる部屋はあるけど」
セーニャとその夫は『そよ風亭』を営むとともに、賃貸アパートのオーナーでもある。クレシェの申し出は、その一室をレクトに貸してほしいというもの。その言葉からは、特に企みのようなものは感じられなかった。
杞憂だったかと思いつつ、セーニャは尋ねた。
「でも、賃貸料はどうするの? ウチも特別安いってわけじゃないよ」
セーニャが所有しているアパートは大衆向けの物件。賃貸料もそれなりに安いが、子供が簡単に払える金額ではない。もちろん、契約は保護者がするという形なら十分ありえるが、それならば、その保護者がこの場にいないのはおかしい。
「それなら大丈夫。とりあえず一年分くらいは私たちが払うから」
「え!? なに? もしかして、誰かの子供なの? もしかして、フィーナ……?」
「あははは! 違うって!」
賃貸料を『導きの天風』で支払うと聞いて、セーニャはレクトがメンバーの誰かの子供ではないかと疑った。よく考えれば、フォルテやコーダもレクトくらい大きな子供がいる年齢ではない。しかし、エルフのフィーナならば可能性はある。エルフは青年期が長く寿命も長い。フィーナはエルフの基準でいえばまだまだ若者ではあるが、すでに五十は超えているのだ。
もちろん、セーニャの推測は完全に見当外れだ。しかし、事情を知らなければ無理もない。普通、全くの他人の支払いを理由なく肩代わりすることはないのだから。
「じゃあ、いったい何なのよ」
「レクト君は、私たちの恩人なんだよね」
「恩人……?」
セーニャは改めてレクトを観察する。見た目は普通の少年だ。そんな少年がBランク冒険者たちの恩人と言われて、ピンと来るわけがなかった。明らかに説明が足りない。
とはいえ、クレシェも勝手に説明するわけにはいかないと考えていた。恩人である理由を説明するには、レクトの使う異質な魔術について話さざるをえないからだ。もちろん、クレシェはセーニャを信頼しているが、レクトたちが同じ判断をするわけではない。説明する前にレクトたちの許可を取る必要がある。
クレシェはレクトの方に向けてアイコンタクトを飛ばす。説明してもよいか、という意図を込めて。残念ながらレクトには全く意図が伝わらなかったが、それは想定通り。クレシェが合図を送った先はレクトではなく、その肩に座るルナルだ。
そのルナルは、大げさに肩をすくめてみせた。
「全部話しちゃっていいわよ。知り合いみたいだし、むやみに広めないって判断なんでしょうから。レクトがお世話になるのなら、ずっと隠したままにしておくのも面倒だしね」
どうせ説明するのなら隠す必要もないと、ペラペラしゃべりだすルナル。当然ながら、セーニャにとっては驚きの事態だ。
「……え!? 狐がしゃべった!?」
「はいはい。しゃべったわよー。詳しくはクレシェに聞いてねー」
「ふふふ。いいねぇ、セーニャ。予想通りの反応だよ!」
その様子を見てクレシェがニヤニヤと笑っている。クレシェは賃貸契約を結ぶにあたって、セーニャには事情を話すことになるだろうと考えていた。そして、きっといいリアクションをしてくれるだろうと楽しみにしていたのだ。
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