第23話
「あ、あのぅ…、実は少しお聞きしたいことがあるのですが…」
その際、笑顔を浮かべて揉み手することも忘れない。
人にものを尋ねるときは丁寧に。
これは紳士の基本である。
だからこれは決して俺がビビっているというわけではないのだ。
「あ?」
もっともそんな俺の努力も空しく、案の定メデューサの如き鋭い眼光が返ってきたため、思わず背を向けて机の下にうずくまりたくなったが、それでも今は聞かなければという焦燥感の方が強い。
「え、ええと…あ、だがその前に、栗山は?まさか休みか?」
「…お?」
なので今や恒例となったファイティングポーズを取ってそう続けると、予想外の言葉だったのか、咄嗟にクリヤマーズが驚いたように顔を見合わせる。
「なんでオメーが知らねーんだよ」
「つかむしろアタシらが聞きたいわ」
「相変わらず既読もつかなーい」
「電話も出ないし…」
そして再び目つきを鋭くしつつも、今度は心配も多分に含んだ表情でそう答えてくれた。
「む、それは確かにおかしいな…」
その言葉に、つかの間動揺も忘れて考え込んでしまう。
なにせ栗山は、風呂の最中でさえメッセージのやり取りをするような奴なのだ(俺のスマホにも頻繁に届く)。
なのに既読すら付かないとなれば、どうしたって心配にもなる。
だが昨日の件もあるし、もしかしたら俺と同じくなかなか寝付けなかっただけという可能性もある。
それにクリヤマーズの様子からして頻繁に連絡はしているみたいだから、今ここで俺が同じことをしても結果は変わらないだろう。
というわけで心配ではあったがひとまずは脇に置いておき、もう一つの疑問の方へと意識を切り替えた。
「何、聞きたいことってそれ?」
「へ~ぇ、一応姫良瑠のことちゃんと心配してんだ?」
「エセ紳士(笑)野郎もようやく姫良瑠の魅力に気づいたって感じ?」
「今更すぎかよ」
そんな俺を余所に、クリヤマーズが少し機嫌を直したように表情を緩める。
「ああ、それもあるが、もう一つあってな」
「……」
しかしそのことにホッとする間もなく、ため息と共にまたギロリと恐ろしい視線が飛んできたため、あえなく怯んだ。
な、何故彼女達はすぐにこう不機嫌になるんだ…!?
この変化の激しさたるや、女心というものはよく秋の空に例えられるが、彼女達の場合はもはやアルプス頂上付近の空である。
「え、ええと、聞きたいのは、昨日のアメリカの事件についてなんだが…」
ともあれ、なけなしの勇気をかき集めて質問を続ける。
だが。
「は?あめりか?何それ?」
返ってきたのは打って変わり、きょとんとした顔だった。
「………は?」
瞬間、直前までの暢気な気分は吹き飛び、つい呆けた声を出してしまう。
「え、何その反応?知ってる?」
「いや聞いたこともないし」
「ねー」
「つか姫良瑠じゃないけど、その顔確かにウーパーで草生えるんだけど!」
仲間達を振り返って尋ねるも、やはり同様の反応が返ってくるばかり。
「……」
その光景を眺めながら、俺は完全に凍り付いていた。
これは…いったい…?
ど、どうなっているんだ…?
一瞬またからかわれているのかとも思ったが、彼女達の表情と一連の反応は完全に「意味の分からない言葉」を聞いたときのものであり、良くも悪くも感情がすぐ表に出てくるクリヤマーズだけに、冗談を言っているようには見えない。
つまり、彼女達は昨日の事件どころではない。
「アメリカ」を知らないのだ。
そ、そんな馬鹿な…!?
彼女達がアメリカを知らないはずがない。
しかし噓をついている様子もない。
相反する二つの事実にたちまち頭は大混乱を呈し、軽く吐き気さえ覚えて慌てて口を押さえる。
「ちょ、ちょっと秋月…?」
「なんか顔色めっちゃ悪いけど…」
「え、だ、大丈夫?」
そのままよろよろと無意識に一歩後ずさる俺を見て、クリヤマーズがぎょっとする。
いつもは敵意剥き出しの彼女達が心配するくらいなのだから、きっと今の俺は相当ひどい顔をしているのだろう。
だが同時にそれは彼女達が噓をついている可能性が、実は迫真の演技で俺をからかっているのだという淡い期待が、完全に砕けたことを意味していた。
「な、なあ、ちょっといいか?突然変な質問をして悪いんだが、『アメリカ』ってもちろん知っているよな?」
それでもまだ認めたくなくて、思わず近くで談笑していた同級生に尋ねる。
と、びっくりしたように俺を振り返り、続けて訝しげな目を向けてきた。
当然だろう。
同級生だとはいえ話したこともない相手だ。
それがいきなりよく分からない質問をしてきたのだから、この反応も無理はない。
「…いや、何それ?」
ただ一間空けて顔を見合わせたあと、そう答えてくれた。
その表情は先ほどのクリヤマーズと同じ。
「意味の分からない言葉」を聞いたときのものだった。
な、なんだ…、なんなんだこれは…!?
突如足場がなくなったかのような感覚がして、咄嗟に近くの机に手をつく。
当たり前に連続しているはずのことが連続しない。
当たり前のように繋がっていると思っていた明日が、けれど目が覚めたら全然別の明日に繋がっていたかのような気分だった。
そ、そうだ、一樹…!
かつてないほどの混乱に今や恐怖すら覚えながら、震える手で急ぎスマホを取り出す。
ネットを通してだとはいえ、昨日一緒に事件を目の当たりにしたのだ。
あいつなら知らないなんてことはないはず。
なのでクリヤマーズと同級生に礼を言うのもそこそこに、縋るようにして電話をかける。
しかし繋がらない。
それは何度かけても同じで、ならばと次は美弥子先輩にかけるも繋がらず、続けて静音、栗山とかけてみるも結果は同じ。
もちろんみんなにもみんなの都合があるわけで、電話をかけたからといって必ず通じるわけではない。
それでも今の俺にとってはこのことすらも異常の延長線上にあるように思えてならず、スマホを片手に呆然と立ち尽くしてしまう。
まさか、おかしいのは俺の方、なのか…?
一体みんなどうしてしまったのかと焦っていたが、ここまでくると逆に俺の方がどうにかなったのではないかと思わざるを得ない。
昨日の出来事は本当に現実だったのか。
実は俺の妄想が生み出した錯覚だったのではないか。
…俺の記憶は、一体どこまでが本当なんだ?
俺という存在が、自分が見ている世界が根本から崩れていくような、未だかつてない恐怖に視界が歪むのを感じながらフラフラと席に着く。
だが幸いすぐに授業が始まったため、ひとまずはホッと息をついた。
何故なら、授業ならばアメリカの話題が上がらないことも不自然ではなく、いつも通りでもおかしくはないからだ。
もはや言葉遊びのような屁理屈だとはいえ、それに縋らざるを得ないほど今の俺は混乱を極めていた。
もっとも授業が終われば、また「異常な」いつもの風景が目に入ってきてしまう。
たちまち恐怖に心が塗りつぶされそうになったが、だからといってこのままただ座っているわけにはいかない。
とにかくこの状況を詳らかにしなければという一念を胸に、席を立つ。
ブブブーッ!
するとちょうどその時、スマホが振動した。一瞬ビクリと震えるも、画面に表示された名前を見て慌てて通話アイコンを押す。
美弥子先輩だ!
「すみません、恭也君。今大丈夫でしょうか?」
「は、はい、大丈夫です…!」
間もなくして聞こえてきた凜とした声に大きな安心感を覚えつつ、足早に教室を出て廊下の隅へと移動する。
「何度もお電話をいただいていたのに、出られず申し訳ありません。ご用件はやはり『昨日』のことでしょうか?」
「!はい、まさにそのことで電話を…」
やはり先輩は覚えてくれていた!
その言葉に脱力しそうなほどの喜びを感じたものの、そこでふと言葉を詰まらせる。
何故なら「昨日」と言っても、出来事は色々あるのだから。
…もし先輩も覚えていなかったら?
そう考えた途端、喜びや安堵の感情は再び恐怖に塗りつぶされた。
もし昨日の事件を目の当たりにした美弥子先輩も覚えていなかったら、「アメリカ?すみません、それは何でしょうか…?」なんて言われたら、いよいよ俺の頭か精神がおかしいことになってしまう。
「……」
ゴクリとつばを飲む。
確かめるのが恐ろしい。
「…恭也君?」
電話口から、美弥子先輩の心配そうな声が聞こえてくる。
しかしいかに恐ろしくとも、確かめないわけにはいかない。
「…先輩。その、『昨日』というのはどの話でしょうか?」
なので一つ深呼吸をして覚悟を決めると、口を開いた。
「……」
俺の言葉に沈黙が降りる。
それは妙に長く、ツツーッと冷や汗が流れてくるのを感じたが、きっと実際はそこまででもなく、俺の心理によるものだったのだろう。
「…もちろん、『アメリカが消失した』件です」
「!」
でも返ってきた言葉を耳にするなり、今度こそ心底からホッとした。
そのまま倒れ込むようにして床に座る。
「よ、よかった、先輩もちゃんと覚えていたんですね…!」
「!恭也君も忘れていませんでしたか…」
と、電話の向こうでもホッとした声が聞こえてきたので、すぐに状況を察した。
「やはり先輩の周りも…?」
「…ええ。誰も昨日の事件について覚えていません。それどころかネットを始め、どこを探しても事件に関するものがまったく見当たらないんです。いただいたお電話に出られなかったのも、この件を自分なりに調べていたからでして…、申し訳ありませんでした」
「い、いえいえ、そんな!こっちこそ、何度も電話してすみませんでした」
慌てて謝り返しつつ、そういえばみんなに電話をするばかりで、ネットの方はまったく調べていなかったことに気づく。
それくらい俺はすっかりと気が動転していたというのに、美弥子先輩の方は異常を察知するなり即座に行動に移していたらしい。
流石だと感心すると同時に、一人ただ動転していたことが恥ずかしくなってくる。
…いや、待て。
今先輩はなんと言っていた?
「事件に関するものがまったく見当たらない」…?
でもその言葉の意味を理解するなり、たちまち愕然とした。
「こんな状況です、一度会ってお話ししませんか。正直今、私はかなり混乱していまして、できれば一緒に状況を整理したいのですが…」
そんな中、先輩が深く息をついてそう言ってきたので、ハッと我に返る。
まさに願ったり叶ったりの言葉であり、もちろん俺に断る理由はない。
「俺もまったく同じ気持ちでした。むしろこちらこそお願いします」
聞いている感じだと至極冷静な印象だったが、先輩も動揺していたことが分かってなんだか少しホッとしてしまう。
いかに優秀な人だとはいえ、先輩だって俺と同じ一学生。
昨日の出来事以上に意味不明なこの状況に戸惑わないはずがないのだ。
「そうですか、よかった…。それではお昼休みに生徒会室に集まりませんか?あそこなら誰も来ませんし、話し合うにはちょうど良いと思います」
「分かりました」
先ほどよりも幾分柔らかくなった声からは、電話口で顔をほころばせているのが見えるかのようで、自然と俺の方も落ち着きが戻ってくるのを感じながら返事をする。
「あ、それからできれば姫良瑠さんと渡良瀬君にも声をかけていただけませんか?静音さんの方には私から連絡を入れますので」
「了解です。では、また昼に」
「ええ」
抜かりなく付け加えられた言葉に、頬を緩めつつ電話を切る。
混乱していると言いながらも、ちゃんと周りのことも気にかけているところがなんとも美弥子先輩らしい。
お陰で大分落ち着きが戻ってきたことに改めて心の中で感謝をし、ともあれ次の授業開始を告げるチャイムがなったため、足早に席へと戻る。
二限目になって栗山がやって来た。
ひどい顔色で、一瞬本当に具合が悪かったのかとぎょっとするも、すぐにピンとくる。
なので着席するなり「昨日の『アメリカ消失事件』のことで今日の昼、同じメンバーで集まらないか?」とメッセージを打てば、間もなくして栗山がスマホを取り出し、ハッとした顔になって俺の方を向いた。
やはり栗山も覚えていたらしい。
そのことに胸をなで下ろしつつ頷き返すと、ぐっと少し泣きそうな、でもそれ以上に安堵した顔になったあと、スマホを両手で胸に抱え、柔らかく微笑んで首を縦に振った。
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