第17話

「おっはよう、我が愛しの弟よ!いやあ、今日は良い天気ねぇ~?まさに絶好のデェト♡日和よねぇ~?ねぇ?いや別に誰がとは言わないけどぉ~?くふふ!」


ところがその甲斐も空しく、居間に入るなりニヨニヨニコニコとそれはもう嬉しそうな姉と母から実に明け透けな視線を向けられたため、かき込むようにご飯をいただき、そそくさとその場から脱出する。


く…っ、相変わらず鋭い…!


もちろん今日のことは家族には一言も話していないのだが、どんなに秘密にしようとも、この二人には何故かいつも見抜かれてしまうのだ。

流石に具体的なことまでは分からないとは思うが、これまでの経験上、恐らく概ねのことは把握されているに違いない。


実はエスパーだったと言われても驚かないぞ、俺は…。


ため息を吐き、仕方がなく自分の部屋に避難すべく階段へと向かう。

しかしその矢先、今度は手洗いから戻ってきた父までもが静かに親指を立ててきたため、急遽予定を変更し、逃げるようにして家を飛び出した。

どうやらこの家にプライバシーというものは存在しないらしい。

なので再びため息を吐きつつ、まだ予定よりも大分早い時間ではあるものの、そのまま待ち合わせの駅へと向かうことにした。


今回待ち合わせをしているのは中央図書館のある件の駅。

前にも言ったがこの駅は利用者が多く、構内に限らず周囲にも様々な店が立ち並んでいるから何かと便利なのだ。


ただそうして待ち合わせの場所にたどり着いたものの、当たり前だが美弥子先輩の姿はなく、小さく息をつく。

さもありなん。

なにせまだ約束の一時間前なのである。


これではまるで、楽しみすぎて浮き足立つ男子高校生のようじゃないか…。


まあ実際楽しみだし、浮き足立っているのも間違いではないので、やはりまったくその通りなのだが。


い、意識したらなんだか急に緊張してきたぞ…!


またもや浮かんできたデートという言葉を、慌てて頭を振って追い払う。

こんなに浮かれていては、どんな粗相をしてしまうか分かったものではない。

なので何かないかと頭を捻るも、すぐに一つ思い浮かんだ。


…そうだ、深呼吸だ!深呼吸をして落ち着こう。


古来より呼吸と精神は密接な関係があると言われており、現在でも勉強の効率アップやスポーツにおけるパフォーマンスの向上など、幅広い分野で注目を集めている。


「……」


というわけでさっそく、すぅーと鼻から息を吸い、肺に目一杯空気をため込んだところで少し止め、細く長く口からゆっくりと吐き出す。

そしてそれを何度か繰り返していると、さっきまではまったく聞こえなかった街の雑踏の音が耳に入ってくるようになった。


電車の音、車の音、人の声、歩行者用信号の音。


それらは決して静かではないし、周囲にも溢れかえっていたが、ごくありきたり過ぎて普段はほとんど意識することがない。

しかし改めて考えればそれらはすべて人間、あるいは人間が作り出したものが生み出している音であり、地球上にはこんなにもたくさんの人がいるのだということを実感させられる。


この広い地球という惑星で、俺の存在のなんとちっぽけなことか…。


星という視点で見れば人の人生など、本当に瞬きするよりも短い間のことに違いない。

そう考えたらたちまち落ち着きが戻ってきた。


なるほど…、もしかしたらこれが悟りを開くということなのかもしれません…。


穏やかなること菩薩の如し。

今や俺の心は惑星を超えて大宇宙と一体化しているかのように凪いでおり、だからつい口調だって変わってしまうのも仕方のないことであった。


「あら?恭也君?」

「!?み、みやごほっ!?」


しかし突如として聞こえるはずのない声が聞こえて来た瞬間、大宇宙恭也は普通の恭也へと戻り、むせかえってしまった。

どうやら俺はまだ悟りを開いてはいなかったらしい。

まあ、せいぜい数分深呼吸したくらいで悟りが開けたら、世の中のお坊さん達だって苦労はしていないだろう。


「げほっがほっぶはるぼっ!?」

「だ、大丈夫ですか!?」


盛大にむせまくる俺に、美弥子先輩が慌てて駆け寄ってきて背中をさすってくれる。


た、確かに、星から見れば人間なんてちっぽけな存在かもしれない。

だがそれでも、俺達だって毎日を懸命に生きているんだ…!


ふわりとかつてと同じいい香りに包まれるのを感じながら、ひとまずそれだけを言い訳し、俺はむせることに集中した。


……。

…………。


そうして少ししたあと。


「もう大丈夫そうですか?」


ようやく落ち着いた俺に、美弥子先輩が小さく首を傾げて尋ねてきた。


「す、すみません…」


一方で俺は、恥ずかしさに俯いたままぼそぼそと言葉を返すことしかできない。

待ち合わせの相手に声をかけられただけでむせ返る男が、よくもまあ悟りだ星だなどと壮大なものについて語れたものである。


__この広い地球という惑星で、俺の存在のなんとちっぽけなことか…__


うぐ…っ!


__なるほど…、もしかしたらこれが悟りを開くということなのかも

  しれません…__


ぐはっ!?


__大宇宙(笑)恭也__


ぐあああ!?や、やめろ、やめてくれー!?

…って待て、何だその(笑)というのは!?


先ほどの自分の考えが頭の中で次々とハイライトされていき、その度に内心で身悶えする。

我ながら難儀な性格である。


「そ、その、美弥子先輩もずいぶんと早いんですね…」


ともあれ顔が赤くなっているのは自覚しつつも、咳のせいだと思ってくれることを切に願って先輩に声をかける。

早く話題を変えなければ、このままでは恥ずかしさで倒れてしまいかねない。


__大宇宙(笑)恭也__


ええい、うるさい!


「ふふ、恭也君とのお買い物が楽しみで、早く着きすぎてしまいました」「え!?」


しかし続く笑いを含んだ先輩の言葉に、思わず勢いよく顔を上げる。

それはそうだろう。

俺自身も楽しみだっただけに、こんな風に言ってもらえて嬉しくないはずがない。


「…と言いたいところなのですが、本当は学校の所用がありまして、そちらを済ませていたんです。ただ予定よりも大分早く終わったので、無意識に待ち合わせの場所へと足が向いてしまったのですが、そうしたら本当に恭也君の姿が見えたんですもの。びっくりしちゃいました。

 あ、もしかして、恭也君も楽しみにしてくれていたんですか?」


と、そんな俺を見て少し申し訳なさげに眉尻を下げたあと、でもすぐに鈴を転がすような声で嬉しそうに笑った。


「……」


ただ俺の方は、顔を上げたままの姿勢で声もなく固まっていた。


「?恭也君?」


再び先輩が小首を傾げる。

だがやはり俺は硬直したまま、より具体的に言えば先輩の格好に目が釘付けになったままとなっており、返事をすることができなかった。

というのも、今日の先輩は当たり前と言うべきかいつもの制服姿ではなく、上品なブルーグレーのワンピースに白のカーディガンという出立ちだったのである。


それは清楚な美しさを漂わせつつも無邪気な可愛らしさも兼ね備えていて、まさに美弥子先輩にぴったりの装いだと言えた。

すなわち今の状況は、道端でふと可憐な花を目にしたときのようなもの。

見惚れるなと言う方が無理な話だろう。

女性の魅力を引き出す服装は数あれど、何というか、ワンピースほど女性らしさを引き立てるものはない気がする。


「……」

「…あ。もしかして私の服装、その、変、ですか…?」


なのでじっと見惚れていたものの、すると流石に視線に気づいたようで、先輩がたちまち慌てたように自分の服へと視線を落とした。


「実は私、恥ずかしながら流行の服はあまり知らなくてですね…。や、やっぱり変、ですよね…?」


言いながら段々と不安そうな顔になっていくも、しかし最後にそう付け加えるのを聞くなり、思わずカッと目を見開いた。


「まさかっ!変どころかものすごく似合ってますから!俺は今、先輩があまりにも可憐すぎて見惚れていただけです!むしろありがとうございます!」


そのままぐっと握り拳を握って熱弁する。

似合わないなんてとんでもない。

ほかほかの白いご飯に、まだジュウジュウと音を立てる豚カツと千切りのキャベツ、和辛子とレモン、それに特製ソースを添えられて、「ちょっと合わないかもしれませんが…」と言われているようなものである。

合わないわけがなく、むしろこれ以上合う組み合わせを探す方が難しい。

…いやまあ、女性の容姿を食事に例えるのは失礼かもしれないが。


「……」


と、思わぬ反応だったのか、美弥子先輩がびっくりしたように目を瞬く。


「か、可憐、ですか…、あ、ありがとうございます…」


しかしすぐに頬を染めると、恥ずかしそうに俯いてしまった。


「…はっ!?」


その様子を見て即我に返る。

つい心の声が漏れてしまったが、今俺はかなり恥ずかしいことを口走っていた気がする。

無論何一つ間違っていないし、後悔もない。

とはいえ感情はまた別の話であり、なんだか急に恥ずかしくなってきた。


「あ、い、いえ、こちらこそ…」


同じく俺も俯きながらごにょごにょと言葉を返す。

なにがこちらこそなのだ。

もっと適切な言葉があるだろうに、咄嗟に出てこない自分の口下手ぶりが恨めしい。


だがそう思いつつも、その間にも目はちらちらと照れてもやはり可愛い先輩の方へと向いてしまう。

これはもはや男子高校生の業であり、抗えない自然の摂理にして宇宙の法則。

だからどうかどこぞの連動ミサイル女子のように、エセ紳士(笑)などとは言わないで欲しい。


ただ、そんな風に二人して照れていたものの、不意に先輩が何かに気づいたようにハッとした顔になった。


「…あの、恭也君?なんだかずいぶんさらっと『可憐』なんて言葉が出てきましたけど、もしかしてこういう台詞、女の子全員に言っていたりするんですか?」


かと思えば、そう言って今度はジトッとした目をこちらへと向けてきたので、ぎょっと狼狽える。

なにせはにかみながらも嬉しそうにしていたと思ったら、急に雲行きが怪しくなってきたのだ。


それに俺は断じてそのような軽薄な者ではない。

今だってつい口にしてしまって猛烈に恥ずかしい思いをしているくらいだというのに、実に心外である。


「い、いえ、そんなことは…!」


しかし慌てて否定しようとするも、そういえば前に静音にも魅力的だと言ったことを思い出して咄嗟に言葉を詰まらせる。


い、いや、だがあれは本当にそう思ったからで、今だってそうだし、だから決して女子全員に言っているわけでは…。


「ふふ、冗談です。ごめんなさい、ふふふ」


でもそうして必死に自問自答していたものの、すると、ぷっと先輩が吹き出した。

思わず目を瞬く俺を見て、クスクスとますます可笑しそうに笑う。


え、ええと…?


さっきまで訝しげにしていたのに、いったいどういうことなのだろうか。

呆然と首を傾げるも、ともあれとても楽しそうな様子にホッと胸をなで下ろす。

どうやら機嫌を直してくれたらしい。

…まあ、そもそも何故機嫌を損ねたのかが分からないのだが。

やはり俺には、女性の胸中を予測するなんて到底できそうにない。


と、そんなことはあったものの、すっかりと上機嫌になった先輩と共にさっそく買い物へ…とはいかず、まずは喫茶店へと向かうことにした。

というのも先輩から「ええと、その、もしよければ、まずはゆっくりお茶でも飲みながら今日の予定についてお話ししませんか?あ、ほら、準備は重要ですから!」という申し出があったからである。

なるほど、よく「段取り八割」と言うし、確かに意思疎通を含めた準備は重要だろう。


うーむ、流石は生徒会長を務める人だなぁ…。


俺など準備という言葉すら思い浮かばなかったというのに、改めて大変優秀な人なのだと感心しつつ二つ返事で頷けば、先輩がホッとしたように顔をほころばせた。

ただ今日の打ち合わせをするだけなのに、何とも謙虚な人である。


とはいえ先輩は店自体には特に希望がないみたいだったので、ならばと俺がよく通っている件の店をお勧めした。

店内は適度に静かだから打ち合わせをするにはもってこいだし、もしかしたら先輩も気に入ってくれるかもしれない。

そう思ってのことだったのだが、特徴を伝えると案の定興味を持ってくれたようで、とんとん拍子に予定が決まっていく。


うむ、今日は素晴らしい一日になりそうだ。

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