第14話

スッと綺麗に伸びた背中に腰まで届くさらさらの黒髪がなびき、歩く度にキラキラと朝日を反射させている。

相変わらず品格があるというか、後ろ姿だけなのについ見惚れてしまうような美しさがあった。


そうか、先輩はいつもこの時間なのか…。


普段の俺はもっと遅い時間なのだが、今日は偶然家を出るのが早かったのだ。


ただそうして幸運を天に感謝していたものの、ふと先輩の近くを歩いている生徒達も同じく彼女へとちらちら視線を向けていることに気づいた。

さもありなん。

あれだけ綺麗な人が歩いていれば見ない方が不自然だろう。

ここからでは話の内容までは聞き取れないが、惚けたようなその表情を見れば何を思っているのかなど一目瞭然。

中には同学年や一年生の女子もいて、やはり同様にうっとりとした眼差しを向けている。


ううむ…、真の大和撫子というものは、性別の垣根すら越えて目を奪うんだなぁ…。


すっかりと感心しながら、そんな人と知り合いになれた僥倖に再び感謝し、兎にも角にも声をかけようと歩調を速める。


「……」


しかしいざ声をかけようとしたところで、改めて周囲の視線が先輩に集中していることに気づき、躊躇してしまう。

当の本人は周りの視線に気づいていないのか、あるいは気にしていないのか堂々と歩いているが、この中で声をかけるのは相当な勇気がいる。


__いや、何を言う。ただ知り合いに声をかけるだけなのに、

  何を躊躇うことがあるんだ。堂々と声をかければいいじゃないか__


と、すぐに心の中で強気の恭也がバッと立ち上がって声を上げた。


__しかしこの状況で声なんてかけようものなら、

  間違いなく注目を浴びるぞ?そんな中で俺が上手く喋れるはずがない。

  美弥子先輩に格好悪いところを見せるつもりか?__


だがすかさず今度は慎重派の恭也が、エアー眼鏡をクイッと引き上げながらため息を吐く。

なおこれは別に俺が多重人格なのではなく、あくまで我が心の葛藤を分かりやすくお伝えしているだけである。


というわけでどうしたものかと葛藤していたものの、


「…?」


すると前を歩いていた先輩が、ピクリと何かに反応したようにかすかに身動ぎをし、くるりと振り返った。


「あ、やはり恭也君でしたか。おはようございます」


そして俺の姿を確認するなり、にこりと笑う。


え!?まさか今、俺の視線に気づいたのか!?


そんな馬鹿なと目を瞬くも、そういえば美弥子先輩は勉強だけでなく武道にも長けているという話を思い出した(生徒会長は時の人で噂が絶えないのだ)。

事実つい先日も階段でその片鱗を垣間見たばかりだし、もしかしたら本当に気配を察知したのかもしれない。


ともあれ向こうから声をかけてくれたのならば、こちらの行動は決まっている。


「おはようございます、みや……」


しかし慌てて俺も挨拶を返すべく口を開いたその刹那、


「『恭也君』、だと…!?」

「おい誰だ、我らが姫、戸叶生徒会長に名前を呼んでいただけるという、あのうらや…万死に値する男は!?」

「何、なんなの、あの男……」


そんな声と共に周囲から突き刺さるような視線を感じたため、思わず途中で言葉を止めてしまった。

そのまま目を向ければ、先ほどまでチラチラと美弥子先輩に視線を向けていた者達が一斉に俺の方を凝視しており、たちまちビクリと怯む。


な、ななな何事だ…!?


その質量さえ感じる鋭い眼差したるや、まさに姫に近づく不審者を見る親衛隊そのものであり、ツツーッと冷や汗が流れてくる。

同時に生徒会長つまり美弥子先輩には、彼女を熱狂的に支持し、害となる者を進んで粛清しようとする過激な者達がいるという噂があったことも思い出した。

正直話半分だったのだが、なるほどきっと彼らがそうなのだろう。


実在したのか…。


しかもどうやら聞いていた活動内容の方も単なる噂ではないらしく、今まさに俺へと向けられている眼差しは、下手なことを口にすれば本当に粛正(物理的)されてしまいかねない迫力があった。


「あ、ええと…戸叶先輩」


なので慌ててかける言葉を修正する。

懸命な諸兄諸姉に置かれては、もちろんこれは俺がビビりだからなのではなく、無用な争いを避けるための方便であることが分かっていただけるかと思う。

そしてそんな俺の気持ちは、きっと先輩も分かってくれるに違いない。

なにせ美弥子先輩は生徒会長となるような優秀な人なのだ。


だから半ば懇願するように先輩の目をじっと見つめたのだが、


「……」


しかし俺の思いも空しく、がーん…!と何やらショックを受けたような顔になり、かと思えばすぐにいつぞやのようにぷいっとそっぽを向き、「私今とっても不満ですっ」と言いたげな顔で可愛らしくむくれてしまった。


え、えぇ…。


てっきりここは生徒会長として適度な距離を保った対応をしてくれるのかと思ったのだが、まさかの展開である。

予想外の事態に再び狼狽える中、ざわりと親衛隊達がざわつき始める。


「お姉様のあんなお顔、初めて見たわ…!」

「姫にそっぽを向かれた挙げ句に、むくれていただけるなど…!なんとうらやま…けしからん奴なんだあの男は!頼む、俺と代わってくれ…!」

「何なのあの男…何なの……!」


比例して向けられる視線の険しさも増していき、今や俺は脱水症状の一歩手前である。


お、俺はいったいどうすれば…!?


むくれる美弥子先輩と、殺気立つ親衛隊達。

あっちを立てればこっちが立たず。

なるほど、これがいわゆる修羅場と呼ばれるものなのかもしれない。

あるいは、対立する社長と副社長の前で意見を求められている平社員の気持ちなのだろうか。

いずれにしても、普通に登校していただけの俺が何故そのような状況となっているのかは依然不明なのだが、ともかくこのままでは埒があかない。


ええい、ままよ…!


「ええと、その…み、美弥子、先輩」

「!はい、恭也君。ふふ」


なので覚悟を決めてそう呼ぶと、たちまちパァッと顔を輝かせて美弥子先輩が笑った。

実に素敵な笑顔である。視界の端に、この世のものとは思えない顔でギリギリと歯ぎしりする何かが映っていなければ、きっと見惚れていたに違いない。


と、そんな経緯もあって、俺は美弥子先輩と共に(あと親衛隊もだが…)、学校へ向かうことになった。

本来なら美弥子先輩のような人と並んで歩けるなど、夕暮れの海に向かってありがとうと叫び出したくなるくらい嬉しいことだったに違いない。

しかし今の俺は、楽しく話せば話すほど周囲からの殺意が膨らんでいくという理不尽極まりない状況に立たされていたため、ハラハラするばかりで全然会話に集中することができなかった。

気分はさながら不良のたまり場で電話をしているかのようである。


なんなんだ、この状況は…。

天は一体、俺に何をさせたいのだ…。


近頃のハードモードなイベントの数々には、もはや俺の紳士性に対する試練ではなく、単なる嫌がらせを受けているかのような気持ちになってくる。


「ふふ、それにしてもまさか、こんなところで恭也君に会えるとは思いませんでした」


だというのに先輩の方は周囲の視線にも気づいた様子はなく、実に楽しそうに話しかけてくるため(もちろんそのこと自体は大変嬉しいのだが)、今やモードはハードを超えて、ウルトラハードへと移行しつつあった。


しかも事態はこれだけに留まらず、


「ええと、それで…ですね。その、恭也君、次の日曜日は空いていますか?もしよければ、少し買い物に付き合っていただきたいのですが…」


楽しげな雰囲気から一転、今度は少し心細そうな表情になってちらりと窺うようにそんなことを仰ったものだから、ウルトラハードをさらに超え、ナイトメア、あるいはノンフューチャーモードへと移行してしまったのも必然だと言えた。


ざわり。


予想通り周囲からは、思わずぞっと鳥肌を立たせてしまうような不穏な空気が漂ってくる。


それは深淵、あるいは奈落の底だろうか。

よもや人が発しているとは思えない、ともすれば触れただけで生気を奪われかねないほど濃密なおぞましい気配であり、正直振り向きたくはなかったが、それでも恐る恐る視線を向ければ、


「ひ、姫が…っ、お、俺達の姫が…、あろうことか、で、ででででででデートのお誘いを御身自ら口になさっただとォーーー…!?」

「な、何故なの…、どうしてなんですか、お姉様!?なぜ私ではなく、そのような貧相な男なのですか!?」

「許せない…、あの男、絶対に許せない…っ、ぶつぶつ」


案の定人をやめ、今やホラーゲームに出てくるクリーチャー達も裸足で逃げ出すような形相で俺を凝視する親衛隊達がいた。

もう隠す気もないようで、激しく頭を振り、首や腕を掻きむしりながら口々によく分からないことを叫んでいる。


だ、大丈夫なのか、彼らは…。


血涙でも流しそうな姿に恐怖しつつも、若干彼らの将来が心配になる。


ともあれ、これには流石に美弥子先輩も気づいてくれるに違いない。

なので少しホッとして視線を戻すも、


「?」


しかし可愛らしく小首を傾げられてしまった。

瞬間、ガックリと肩が落ちる。


これはきっとあれだ…。

ずば抜けて優秀な人というのは、思いもよらないところが抜けていたりするあれだ…。


我が家の母と姉のことを思い出して納得すると同時に、この件に関して先輩にフォローをお願いするのは無理そうだと諦める。

そしてすぐにこの状況をどうにか切り抜けるべく、全力で考えを巡らせる。


「え、ええと、次の日曜日は、その…」


本当なら美弥子先輩からのお誘いはトリプルアクセルで宙を舞うくらい嬉しい申し出であり、そもそも悩むこと自体あり得ないのだが、流石にここで了解すればきっと俺は次の日曜日を待たずに、東京湾の水底で深海魚達とイナバウアーである。

だから先輩には申し訳ないし、俺自身も非常に残念なのだが、ここはお断りするしかない気がする。


__待て、本当にそれでいいのか…?__


ただそこでふと、心の中の俺が再びエアー眼鏡をクイッと上げながら問いかけてきた。


__確かにここで用事をでっち上げれば、俺の身は助かる…とは言い切れな

  いが、少なくとも可能性が高くなることは事実だ。しかし誰かのために

  なるのならともかく、己の身可愛さに噓を吐くのは仁義に悖るのではな

  いか。真の紳士、侍を目指す男として、そのような行為は断固として認

  めるわけにはいかない!__


ううむ…、確かにその通りだ。


ごもっともな意見に心の中の俺達が頷きかける。

でもやはりというべきか、そこでもう一人の恭也が立ち上がった。


__だがそうは言っても、もしここで肯定などすれば、俺の寝床はこれから

  ずっとドラム缶となってしまうではないか。それはぎょろりと血走った

  目を向けてくる周囲のクリーチャー達の顔を見れば明らかなことだ。

  水底で紳士を語ったところで、それにいったい何の意味があるという

  のか__


なるほど、こちらもごもっともである。

いくら紳士道のためとはいえ、俺はまだドラム缶やコンクリートのお世話になりたくはない(というか一生なりたくはないが)。


と、そんな風にして紳士たらんとする恭也と、この身の生存を必死に訴えかける恭也とが心の中で激しく論争を繰り広げていたものの、すると、むぅと先輩がまたむくれた。


「恭也君は、静音さんからのお茶のお誘いには二つ返事で頷くのに、私とはしてくれないんですね」

「!?」


な、何故先輩がそのことを…!?


突如として出てきた思いもよらない名前に、ぎょっと目を見開く。

だがそのことを尋ねるよりも先に…もうお分かりだろう。

現在我々の周りで蠢いているクリーチャー達が、今の言葉でどうなったのかなど。

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