第8話

「……むぅ」


案の定この答えでは不正解だったようで、一瞬パチパチと目を瞬いた後、ぷいっとそっぽを向かれてしまった。

そのまま、私今とっても不満ですと言わんばかりにぷくりと頬を膨らませる。

先ほどの仕草といい、戸叶先輩はずいぶん愛嬌があるというか、意外と子供っぽい仕草が似合う人であった。


こ、これはいったい、どうすれば…。


一方の俺は、情けなくも再び激しく狼狽えてしまう。


だが幸か不幸か、とびきりの美人にこんな顔をさせたまま耐えられるほど強い心臓はしていない。


「え、ええと、それじゃあ、その…み、美弥子、先輩」


なのでしどろもどろになりながらも言い直すと、


「ふふ、はい、恭也君」


むくれていた先輩が途端にパァッと顔を輝かせて、今日一番の笑みを見せてくれた。


な、なんだか無性に恥ずかしいぞ…!


別に名前を呼び合っているだけなんだが、また顔が火照ってくる。

そんな俺を見て、クスクスと可笑しそうに美弥子先輩が笑った。


「なんだか、恭也君とは初めて会った気がしませんね。実は私、こう見えて結構人見知りをする方なのですが…」

「そ、そうですね…」


これだけ流暢に話せていて人見知りというのは流石に冗談だと思うが、どうやら美弥子先輩も同じようなことを思っていたらしい。

実際、ずっと情けない姿ばかり見られていたというのに居心地の悪さはほとんど感じなかったし、なんとも不思議なことであった。


その後はニコニコと嬉しそうな美弥子先輩と一緒に学校を出て、駅にて別れたあとは、今度こそ帰路についた。

すでに日は落ちかけていたし、そもそも疲労感が凄まじかったのでもちろん寄り道はせず一目散に家へと向かう。


と、その甲斐もあってか、幸いこれ以上何かアクシデントが起こることもなく、なんとか無事家に到着することができた。


「なんか、恭也からたくさんの女の気配がする…!?」


思った通り、ただいまとドアを開けるなり、妙に鋭い姉に危うくおもちゃにされかかったため、こんなこともあろうかとポケットに忍ばせていた十円チョコレートをデコイの如くばらまき何とかこれを回避。

そして母さんの美味しい料理を食べ、人類英知の結晶たる風呂に浸かれば、底をつきかけていたライフポイントも一気に全回復する。


うむ、やはり我が家は最高だな。


しかも明日は祝日で、学校が休みなのだ。

思わずニヤニヤと顔が緩んでくるような至福を感じながら、仄かに太陽の香りが残る布団に包まれる。

と、明日のことにわくわくと思いを馳せる間もなく、俺の意識は一瞬で夢の世界へと旅立っていった。


……。

…………。


コォォォー…。


妙に深く響く無機質な音に、ふと目を開く。


といっても瞼は何故か異様に重く、わずかに開かれた瞳には、チカチカと点滅する小さな赤い明かりが見えるばかりだった。


コォォォー…。


再び無機質な音が耳に響いてくる。


ただそうして何回か聞いているうちに、どうやらこれは自分の呼吸音らしいということに気づいた。


ピーッ、ピーッ、ピーッ。


すると今度は呼吸音よりも高い、しかし同様に無機質な音が聞こえてきた。

きっと気づかなかっただけで先ほどから鳴っていたのだろう。

視界の端で赤く点滅する明かりと連動して音が響き渡る。


ここ、は……、どこ、だ……?


そしてそこまで分かったところで、ようやくその疑問が出てきた。

普通なら真っ先に出てくるべき疑問だったのだろうが、今は何故か頭の中に靄がかかったようになっており、そこまで思い至らなかったのだ。


ど…、こ……。


だがそれについて考えるよりも先にまた強烈な眠気がやってきて、視界が狭まっていく。


コォォォー…。


ピーッ、ピーッ、ピーッ…。


コォォォー……。


ピー……。


同時に音も遠ざかっていき、やがて視界が闇に閉ざされると、俺の意識も同じく黒く塗りつぶされていった。


……。

…………。


「……ん」


ふと目を覚ますと、見飽きるくらい見慣れた天井が目に入った。


「ピピピピピピピピピ!!」


続けてスマホのアラームが、俺に起きろとやかましく騒ぎ立ててくる。


「……」


ふーむ、何やら妙な夢を見ていたような…?


幸か不幸か内容はすでに思い出せないのだが、なんだかずいぶんと印象的な夢だったような気がしてそのままベッドの上で首を傾げてしまう。


「恭也ぁぁぁぁー!!!アラームうっさいわぁぁぁぁー!!!」


しかし間髪を入れず隣の部屋から凄まじい怒声が飛んできたので、たちまちビクリと意識は壁の方へと向いた。


この耳元で怒鳴られたかのような、壁を挟んでいるとは思えない大声は我が姉のもの。

もはやアラームの音が「あ、なんかすみません…」とかき消えるくらいの音量に、一瞬で目が覚める。


「私はついさっきまでレポートやってたのよ!というか何よ、『古代ローマと現代における筋力トレーニングの方法および筋肉に対する美的感覚の違いについての見解』って!?知らんわよっ!?何が悲しくて今をときめく女子大生が『筋トレ、ローマ』『筋肉、美しい♡』とか検索しなくちゃならないのよ!?お陰で人前で検索しづらくなったわっ!?なんならもうインストラクターとして独立できそうなくらい知識がついたわっ!」


そんな俺を余所に、うがーっと姉が叫び声を上げ続ける。


なるほど、大学で出された課題を頑張っていたのか…。


いつも騒々しい姉だとはいえ、朝からやたらと元気なわけが分かって納得する。

いわゆる徹夜明けのテンションという奴なのだろう。


なお姉はよくこんな風に文句を口にするが、いざやるとなると、例えそれがまったく興味のないことや気乗りしないことであっても、とことんまで突き詰めるタイプの人だった。


そのことを代表する事例として、小さい頃、ゲームにはまったく興味のない姉に格闘アクションの対戦をお願いしたことがあったのだが、すると彼女はまず攻略サイトでルールや操作方法を調べ、続けてフレームの概念、キャラクター同士の相性、現行バージョンから過去に至るすべての仕様や不具合情報を収集し、果ては心理学や生物学まで勉強して、俺の行動パターンや人間の反射神経の限界について分析し出したのである。


結果俺は何をしようとも、まるで心を読まれているかのように完全に対応され、常にパーフェクトゲームで敗北。

まさに最高難度のコンピューターを相手にしているかの如く完膚なきまでに叩きのめされて、以来俺が姉に対戦をお願いすることはなくなった。


とまあそんなすごい人ではあるのだが、一方で無邪気というか感覚的なところもあって、この通りアラームの音がうるさいと怒ったり、あるときは俺の大好物である豚カツを取り上げて自分と同じダイエットメニュー(サラダと鶏肉だけ)を押しつけてきたりといったこともしばしば。

改めて思い返すと理不尽極まりないのだが、あまりにも堂に入っているものだから大抵は「もしかしたら俺の方に何か問題があったのかもしれない」という気持ちになってくるのである。

これもまた姉のすごいところであった。

…まあ、是非とも改善していただきたい点ではあるのだが。


「しかも次は『ブリーフとトランクスの歴史についての見解』よ!?ひとっかけらも興味ないわっ!?ていうか、これもうセクハラ案件でしょうが!?」


ともあれ、このままでは近隣にお住まいの方々にもご迷惑をかけてしまいかねないため、直ちにアラームを止めて起き出し、十円チョコをドア前にお供えしてお怒りを鎮めていただいた。


姉が興奮し始めたらチョコレート。

落ち込んでもチョコレート。

これは我が家の暗黙のルールである。


さて、身支度を済ませるか。


無事静かになったことを確認し(お供えしたチョコレートは一瞬で扉の向こう側へと吸い込まれていった)、さっそく今日の予定の方に頭を切り替えつつ洗面所へと向かう。

というのも今日は一樹と会う約束をしているのだ。


なおお忘れかもしれないが、渡良瀬一樹とは我が友人にして例の完全体イケメン野郎のことである。

まあ約束とは言っても街を適当にぶらつくだけなのだが。


これは昔からの俺の休日の過ごし方で、二人で街を散策したあとは大体昼を食べて別れる(午後はほぼイケメン野郎が女の子あるいは女の人と会う約束があるからだ。別に羨ましくなどない)。

そして以後は図書館へと本を借りに行き、いい本が見つかればそのまま喫茶店に立ち寄って読書をする。

姉からは毎回同じで飽きないのかと呆れられるのだが、借りる本はもちろん、道中の風景や喫茶店のメニューなど必ず何かしら変化や発見があるため、俺は結構気に入っている。


そんなわけで早々に身支度を済ませ、味噌汁にほかほかのご飯、焼き鮭、卵焼きという、身体の底からエネルギーが湧き出してくるかのような黄金なる日本の正しい朝ご飯をいただき、足取りも軽く待ち合わせをしている駅へと向かった。


毎度のことだが、定期券のありがたみを実感するな。


俺の通う高校はそれなりに有名だということもあって、全国から生徒が集まってきている。

なので定期券を持っている者は多く、俺もここからだと途中で電車を一本乗り継いで向かう必要があるためやはり持っている。

今日待ち合わせをしている駅もその途中の駅だ。

お金のない高校生にとって、交通費がかからないというのはとてもありがたい。


そうして駅へとたどり着けば、すでにイケメン野郎が待っていた。


まだ集合時間には十分ほどあるはずなんだが、きっと近くで買ったのだろう、コーヒーを片手にベンチに腰掛け、くつろいだ様子でスマートフォンをいじる姿からは待っているという感じはまったくせず、なんだか妙に絵になっていた。

恐らくこういうところも、この男をイケメン野郎たらしめている要因の一つなのだろう。

現に今も周囲の人間から、特に女性から、ちらちらと頻繁に視線を向けられているのが見えた。


「……」


それを見て、いっそもう一時間くらい待たせてやろうかという考えが咄嗟に頭をよぎったが、ここは俺も学ぶべきなのではないかと思い直す。


相手を待たせず、待たせたという気後れもさせない、か。

なるほど、それなら今度から俺ももっと早く着くようにしよう。


加えて、よりくつろいだ感じも出せば完璧なはずだ。

相手の優れたところを妬むのではなく、貪欲に取り込んで糧とする男、それが秋月恭也である。

なのでさっそくその様子をシミュレーションしてみることにした。


__悪い、待ったか?__

__(クラシックが流れるタープの下でキャンプチェアに腰掛けて

  コーヒーを飲みながら)いや、俺も今来たところだ__


「……」


しかしすぐに頭を抱えてしまう。

我ながらもはやどこから突っ込めばいいのか分からないが、そもそも駅前でタープなんて張ったらおまわりさんに止められるに違いない。

「待ち合わせの場に到着したら、相手が警察に職務質問されていた」

俺ならそのまま回れ右して家に帰るところだ。

気遣いどころか新手の嫌がらせだと思われても仕方がない。


…うむ。大変遺憾ながら、俺が今まで女性とお付き合いしたことがない理由が、今何となく分かった気がするぞ…。


どうやら俺には、イケメン野郎のようなさりげない気遣いスキルは備わっていないらしい。

薄々気づいてはいたが、改めて現状を認識して思わず遠くを見つめてしまう。


「…ん?お、来たか…って、なんでそんな悟りを開いた仙人みたいな顔をしてるんだ?」

「…まるで仙人を見たことがあるかのような口振りだな」

「そりゃあまあ、毎週会ってるからなぁ…。可愛い女の子達からあからさまに好意を向けられているのに、受け入れるどころか気づきすらしない、仙人というか鈍感な変人に」

「?」

「やれやれ、この調子じゃ栗山達も大変だな…」


そこでどうして栗山が出てくるのかと首を傾げる俺に、一樹が肩をすくめ返してくる。

なんだかよく分からないが、世の中にはずいぶんと奇特な奴もいるらしい。

可愛らしい女子から好意を向けられるなんてことがあれば、俺なら一も二もなく頷くだろうに、まったくうらやま…けしからん話である。

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