第7話

「びっくりしましたよ。突然貴方が落ちてきたのですから。書類を持っていなければ助けられたのですが…」


そんな中、笑っていた先輩がそう言って今度は申し訳なさそうな表情になった。


「あ、いや、いえ…」


その言葉にたちまちしどろもどろになる。

助けようとしたのに自爆し、さらには逆に助けられたとまであっては、男としては情けなさ過ぎて立ち直れなくなってしまう。

まあ、現時点でも相当情けないのだが。


くぉぉ、思い出したらまた恥ずかしくなって……ん?


ただ再び身悶えしかけたところで、ふと後頭部に伝わってくるとても柔らかい感触に気づいた。


一瞬枕かとも思ったが、枕はこんなに温かくないし、そもそも見たところここは空き教室。

そんなものが置いてあるはずもなく、何より俺の男子高校生としての本能が即座に正体を解析してくれたため、疑問を挟む間もなくまたもや顔が熱くなってきた。


「え、ええと、その、それで、こ、これはいったいどういう状況なのでしょうか…?」


現在の俺が置かれた、もはや異次元とも呼べる状況に胸中は大変なことになりつつも、恐る恐る口を開く。

というのも今の俺は、誰もいない空き部屋で先輩に膝枕をされているという状況なのである。


確かに女性に膝枕をしてもらうというのは、男にとっての憧れのシチュエーションの一つである。

しかしそれは、あくまできちんと段階を踏んで親しくなった結果してもらうものであって、初対面の、それも十人に聞けば十人が美人と答えるような大和撫子に突然膝枕されれば、誰だって混乱するだろう。


もちろんだからといってこの状態から自ら離れるなど、さながら蜜を前にした蝶の如く不可能なこと。

従って俺は、ただ後頭部の感触を甘んじて受け入れるしかないのだ。

すなわちこれは自然の摂理、あるいは生物の限界といった、一個人の意志の力など大海に落とした一滴の雫ほどにも影響を及ぼさない、言わば不可抗力的な状況なのであって、断じて俺がむっつりだとかすけべだとかだからではないのだということが分かっていただけるかと思う。


挙げ句にはふわりと髪の香りとはまた別のいい香りまでしてきて、なんだかクラクラとしてきた。


もしかして、俺はまだ夢を見ているのか…?


「?」


ところがそんな俺の一方、誠に残念ながらこちらの質問の意図は伝わらなかったようで、きょとんと先輩が小首を傾げた。

先輩は落ち着きのあるとても大人びた女性なのだが、その表情はなんだか妙にあどけなく、再びドキリとしてしまう。


きっと本人は無自覚なんだろうなぁ…。


なにせ男子高校生という生き物は「初心(常時防御力に-100%のデバフ)」「妄想力過多(混乱と暴走耐性-100%)」という誰得のパッシブスキルを持っているのである。

そんな男子高校生にとって、美しさと可憐さ、そして妙に近い距離感を兼ね備えた先輩の一挙一動は、すべてが致命の一撃に等しい。

この調子ではおそらく、三年生の教室ではすでに先輩に心奪われてしまった者達で死屍累々となっているに違いない。

俺もうっかりすると、心という名のライフポイントを余すことなく持っていかれてしまいそうであった。


と、我ながらわけの分からないことをぼんやりと考えていたのだが、


「あ、もしかして、この姿勢のことですか?」


一間空けて膝枕のことを言っているのだと気づいてくれたようで、たちまち今度は少し困った顔になった。

先輩は意外と表情豊かな人であるらしい。


「すみません、本当なら保健室に連れて行くべきだとは思ったのですが、階段から転落したくらいで怪我をするようなことはまずないはずですから、こう、して……」


しかしそのまま説明をしてくれたものの、間もなくして言葉を詰まらせた。


「………?」

「先輩…?」


まるで自分の言葉に驚いたかのように、目を瞬きながら黙り込んでしまった先輩に首を傾げるも、一方で俺も今の言葉に引っかかりを覚えていた。


そういえば、結構な勢いで落ちたのにどこも痛くないな…。


思わず自分の目の下の古傷に触れる。

もちろん先ほどの夢のような大怪我にはなるべくもないが、それでも脱臼や捻挫くらいは覚悟していたというのに、もはやどこを打ったのか分からないくらい見事に痛みがなかった。

この頑丈さ、もし俺が異世界に転生したらきっと騎士とかになれるに違いない。


…ん?そういえば、この傷はいつできたんだったか…?


ただ何ともくだらないことを考えていたところで、続けてそんな疑問が浮かんできた。

こうして未だに残っているくらいなのだから、相当大きな怪我だったはずだ。なのに思い出せないというのはどうにも違和感がある。


うむむむ……?


しかしどんなにうんうんと頭を悩まそうとも、やはりまったく思い出せなかった。

先の静音の件といい、なんだか今日は思い出せないことが多い。


「あ、ああいえ、すみません」


そうして二人して考え込んでいたものの、しばらくして先輩がハッと我に返り、少し慌てたように微笑んだ。


「ともかく怪我はなさそうでしたので、あの場所から一番近かったこの教室まで運ばせていただいたんです。その後はすぐに起こそうかとも思ったのですが、あまりに気持ちよさそうに眠っていましたからそれも申し訳ない気がして…。ですので結局、こうして可愛らしい寝顔を拝見していました」

「か、可愛らしい…」


その時のことを思い出しているのかまたクスクスと笑い始めるも、対照的に俺の方は何とも複雑な気持ちになってしまう。


もちろん先輩からはどこぞの誰かのようなからかう意図は感じられず、純粋な気持ちで言ってくれていることは分かる。

だが侍を目指す男として、可愛いと言われるのは如何なものだろうか。


…いや、待てよ?


ただそこでハッとする。


そういえば栗山にも同じようなことを言われたような…。

……。

…あれ!?ま、まさか世間一般の基準では、俺は女顔の分類なのか!?


でもすぐにその結論に至って今度は愕然とした。

流石に一日に二度も、それも違う女子から「可愛い」などと評されれば、どうしたってそう思わざるを得ない。

改めて思い返せば姉や母に女物の服を勧められたことも一度や二度ではなく、よもや乱心でもしたのかと心配していたのだが、あれもつまりはそういうことだったのではないか。


ガーン…!


俺は常々、心の師である斉藤一のような、クールで洒落者な一匹狼の姿を理想として日々邁進してきただけに、これにはショックを隠せない。


「あ、それと」


そんな中、不意に先輩がポンと手を打った。


俺も心の中ではよくやるが、実際にやる人を見たのは初めてである。

けれどやはりというべきかこの仕草もとても可愛らしく、動揺も忘れて再び見入ってしまう。

美人というのは何をしても絵になるらしい。

もし俺が同じことをしても、きっとアイスを落とした子供に向けるような目が返ってくるだけだろう。


と、妙なところに感心していたものの、先輩が俺の頭に手をやり、そっと膝を抜く。


「遅くなってしまい申し訳ありませんが、先ほどは私を助けようとして下さってありがとうございました」


そして姿勢を正し、深々とお辞儀をしてきた。


もしかしたら先輩はいいところのお嬢様なのかもしれない。

非常に綺麗な所作だった。


「い、いえ、とんでもない!それどころかとんだご迷惑をおかけしてしまいまして…!」


なので、後頭部に感じていた温かい感触が離れていくのを残念だと思う間もなく、慌てて俺も姿勢を正し、頭を下げ返す。


何故なら助けられたのはむしろ俺の方であり、今自分でも言った通り迷惑しかかけていないのだ。

本来なら先輩はすでに書類を運び終えて帰路についていたに違いなく、なのに介抱までさせているのだからいたたまれないことこの上ない。

真っ赤に染まる室内で、改めて自分の情けなさに思い至って恐縮する。


しかし小さくなる俺を見て、先輩がまたクスリと笑った。


「結果はあくまで結果ですよ。

 もちろんそこに繋がることが一番ですが、そもそも結果とは行動の積み重ねです。己に恥じない信念ある行動を続けていれば、いつか必ず己が是とする結果はやってきますし、逆もまた然り。誰かを助けたいと思い行動に移したことは誇ることこそあれ、恥じることなど何一つありません。

 現に私には助けようとしてくれた貴方の姿はとても立派に見えましたし、すごく嬉しかったですよ」

「……」


そう言ってやんわりと微笑む先輩を、ただ呆然と見つめてしまう。


迷惑をかけられたことを煩わしく思うどころか感謝さえしているという。

先輩の目を見れば、それが本心からの言葉であることはすぐに分かった。


この人は天の使いなのだろうか…。


あるいは女神様ご本人なのかもしれない。

あまりの神聖さに、膝枕がどうとか言っていた男子高校生としての恭也がのたうち回って悲鳴を上げる。


「は、はい、ありがとうございます…。ええと…」


そんなわけですっかりと参ってしまったものの、改めてお礼を言おうとしたところで、ふとまだ先輩の名前を知らないことに気づいた。


「そういえば、まだお互い名乗っていませんでしたね。

 私は戸叶美弥子と申します。格好からすでにお分かりかと思いますが、本校の三年生です」


と、すかさず俺の戸惑いを察してくれた先輩が、再び綺麗な所作でお辞儀をしてくる。


「あ、これはどうもご丁寧に。俺は秋月恭也と言います」


なので同じく俺も、母親に叩き込まれた作法の通りお辞儀を返した。


誰もいない空き教室の片隅で床に正座してお辞儀し合う俺達の姿は、端から見ればさぞやおかしな光景に見えたことだろう。

しかし俺はこの空間に不思議な心地良さを覚えていた。


「改めてお礼を……って、戸叶?」


ただそのまま言葉を続けようとしたところで、思わず聞き返してしまう。


だって「戸叶」と言えば…。


「あの、『戸叶』ってもしかして…」

「ええ、この学校の理事長は私の母、戸叶君枝です」


や、やっぱりか…!


高校と同じ名字、かつ仕草の端々に見え隠れする育ちの良さからまさかとは思ったのだが、案の定だったらしい。

しかも戸叶君枝と言えば、現在の東京都知事でもある人。

ニュースなどでもよく見かける紛れもない有名人であり、そんな人の娘だというのだから驚かないはずがなかった。


「僭越ながら私も生徒会長として、この学校を少しでも盛り上げられるよう砕身させてもらっています」

「先輩自身も生徒会長だったんですね…」


でもそう続けた先輩の言葉に、はぁ…、と今度は感嘆の息が出てくる。

母は都知事兼理事長、娘は生徒会長。

何というか、まさに上流階級の家という感じがする。


言われてみれば、前の全校集会でも遠目に見た覚えがあるような…。


なお、これは決して退屈な集会に飽きてボーッとしていたわけではなく、我が校は一学年の生徒が四百人を超える非常に大きな高校で、しかも俺のクラスは順番的に後ろの方であるため、壇上の様子は遠目にしか分からないのだ。

なんだかものすごく言い訳っぽいが、本当なのだから仕方がない。


ただ、そうして目を瞬きながらまじまじと見つめていたものの、


「とは言いましても実質はお飾りみたいなもので、大したことはしていないのですけれどね。ですから私のことは、気軽に美弥子と呼んでください」「え!?」


何気なく付け加えてきた先輩の言葉に、ついびっくりして声を上げてしまった。


し、下の名前で…!?


いくら本人がいいと言っているとはいえ、流石に出会ったばかりの、それも年上の女性を名前で呼ぶのは抵抗感がすごい。


だが怯む俺を余所に先輩はニコニコと笑っており、心なしかその目も期待に輝いているように見えた。

どうやら俺が名前を呼ぶのを待っているらしい。

ならば男として、ここは期待に応えねばならないだろう。


「あ、え、えっと、みや……と、戸叶、先輩…?」


しかしそんな俺の思いとは裏腹に、口から出てきたのは名字読みであった。

どうかビビりだなどとは言わないで欲しい。

俺は人よりも少しSHYBOYなのだ。

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