第6話
「くふふふ…っ!あ~、笑った笑った~!」
少しは落ち着いたようで、栗山が床から立ち上がって椅子へと腰掛け直した。
何故栗山が床に伏していたのかと言えば、どうやら先の俺の発言が相当可笑しかったらしく、最初は机をバシバシ叩いていたのだが、それでも足りなかったのか続けて俺のことをバシバシと叩き、挙げ句には地面に転がって床をバシバシし出したのだ。
こいつはきっと慎みを母親のお腹の中に置き忘れてしまったのだろう。
「いや~、こんなに笑ったの久しぶりかも」
目には涙が浮かび、未だ腹を押さえてひぃひぃと息も絶え絶えの様子ではあったが、三日に及ぶお通じとの戦いに勝利した後のように妙にスッキリとした顔をしている。
「…ふん、それは良かったな」
一方の俺は、それをジトッと睨みつつ眺めていた。
笑っている方はいいかもしれないが、笑われている方は堪ったものではない。
ご満足いただきまして大変遺憾である。
「ぶふっ、え、なに怒った?怒っちゃったの?ごめんごめん、悪かったって~!ほい、これあげるから」
そんな俺へと、なおも笑いながら何かを差し出してきた。
笑いながら謝るとは本当に謝る気があるのかと憤慨しつつも、思わずそれを受け取る。
人の好意は無下にはしない。
これは俺のモットーである。
ともあれ改めて手のひらに載せられたものを見れば、それは袋に包まれたキャンディだった。
子供かっ!
今時こんなもので機嫌を直す高校生がどこにいるというのか。
即座にクワッと目を見開くも、しかしそのまま包みをほどいて口に入れる。
食べ物に罪はないし、決して無駄にしたりもしない。
これは俺のモッ略。
…うむ、うまい。
何の味なのかはよく分からないが、キャンディはとても美味しかった。
ミルクのような濃厚な甘みが口中に広がり、なのにハーブみたいな爽やかな香りもあって涼やかに鼻を通り抜けていく。
そして感動すると同時に何やら怒りも静まってきた。
俺は子供だったのか…?
…いや、これはこのキャンディが大変美味しいからに違いない。
甘いものはストレスを軽減させるという研究結果も出ているのだ。
「…でもま、アンタならもしかしたらそのうち見られるかもね」
「…は?」
「あははは!んじゃ、まったね~!」
そんなわけで、不覚にも栗山の狙い通りほのぼのしてきた俺にまたぼそりと何事か呟くと、やはり聞き返す間もなくヒラヒラと手を振って教室を出て行った。
毎度のことながら嵐のような奴である。
なんだったんだ、いったい…。
しばらくの間、呆然と去って行った方を見送る。
……。俺も帰るか…。
けれどこのままここにいても仕方がないと思い直し、昼休み以上の疲れを感じつつやけに重たく感じる鞄を持ち、少し赤みがかかってきた教室を後にした。
今日はいつになく色々なことがあったな…。
さっきまでは帰りにゲームショップにでも寄って帰ろうかと思っていたんだが、もうすっかりと気力が萎えてしまい、今は安息の我が家が恋しくて仕方がない。
とはいえ、流石にこれ以上はもう何もないだろう…。
もはや願うようにしてふらふらと昇降口へと歩みを進める。
しかしどうやら天は、俺が思っていた以上にスパルタだったらしい。
「…ん?」
階段を降りようとしたとき、ちょうど両腕に荷物を抱えた女子が同じく階段を降りているのが見えた。
制服の色からして一つ上の三年生だろう。
長いさらさらの黒髪に、スッと伸びた背筋。
まさに大和撫子を具現化したような美しく気品溢れる佇まいをしており、残念ながら顔はこちら側からは見えなかったが、後ろ姿だけで美人であることを確信する。
うむ、やはり黒髪はいいものだな…。
あれだけ姿勢が良ければ、さぞや和服も映えるに違いない。
というわけでついまじまじと見惚れつつ頭の中で様々な姿を想像しかけるも、すぐに先ほどの栗山の言葉を思い出して慌てて自重した。
俺は断じて変態紳士などではない。
ともあれ頭を振って改めて目を向ければ、今度は彼女が抱えた書類の山が目に付いた。
というのも書類は顔が隠れるくらい高く積み上げられていて、それを担いだまま階段を降りているというのが今の状況なのである。
あれでは足下くらいしか見えていないに違いなく、どうにもハラハラしてくる。
一応足取りはしっかりしているし、実際は心配するほど危なげではないのかもしれないが、このまま黙って見送るのも忍びない。
「あ、あの…っ、て、て、手伝いまひょか?」
なので兎にも角にも勇気を出して声をかけた。
少しどもって愛嬌ある方便みたいになってしまったのは、もちろん俺が人見知りだからではなく、相手の緊張をほぐすためのテクニックである。
しかし、どうやら俺は気遣うところを間違えたらしい。
「…え?きゃっ」
ちょうど先輩が足を踏み出しかけたところで声をかけてしまったようで、きっと無意識に振り返ろうとしたのだろう、あろうことかぐらりとバランスを崩した。
こんな階段の途中で、しかも両手に大量の書類を抱えた状態でバランスを崩せばどうなるかなど、改めて考えるまでもない。
「危ないっ!」
否が応でも予測できてしまう先の展開を想像して思わず手を伸ばす。
「……っと」
だが予想に反して先輩の方は身軽に姿勢を戻すと、書類を一枚たりとも落とすことなくその場で踏みとどまった。
普通ならそのまま階下に転落していただろうに、素晴らしい運動神経と体幹の強さである。
ただ残念ながら俺の方にはそんな素敵なスキルはひとかけらたりとも備わってはおらず、
「うわぁぁああ~!?」
手を伸ばした姿勢のまま、逆に階段下へと転げ落ちてしまった。
必要の無い手助けをしようとした挙げ句、勝手に自爆するという完全な独り相撲。
我ながらなんとも情けない。
「だ、大丈夫ですか!?」
…今日は、厄日だ。
肩に走った大きな衝撃と共に薄れゆく意識の中、今日初めて見たはずの先輩の慌てた声に何故か妙な懐かしさを覚えたのを最後に、俺の意識は完全に闇へと飲み込まれていった。
……。
…………。
「___!!」
ふと、誰かが叫んでいる声が聞こえた。
「_________、__________!?_____!」
目を向ければ女性がこちらを向き、懸命に何事かを叫んでいる。
あれは…、先輩?
よくよく見れば、その女性は今し方階段で見かけた先輩だった。
ただ先ほどと違うのは制服ではなく、何かスリムな宇宙服?みたいなものを着ているということと、男が彼女の後ろから身柄を拘束していること、そんな男に抵抗してもがきつつ先輩が俺の方に向かって必死に片手を伸ばしていることだ。
しかし対する俺の方は、その言葉に応じることもできないような状態にあった。
というのも、現在進行形で左右から男達に暴行を受けているのである。
俺をサンドバッグか何かと勘違いしているかのように、それはもう好き放題殴り、蹴飛ばしている。
お陰で身体中が痛み、息をするのも辛いような状態だったが、その中でも一番強烈なのが左目の下の痛み。
もはや熱いとさえ言えるほどの激痛が頬から顔全体に広がっており、そこからダラダラと流れ出る血が男達の暴行に合わせて右へ左へと迸っている。
恐らく刃物でやられたものなのだろう。
よくよく見れば先輩を羽交い締めにしている男の足下には、べっとりと血の付いた大型のナイフが転がっていた。
いわゆるコンバットナイフと呼ばれるもので、もはやナイフと言うよりも剣に近く、あれなら確かに人の身体などさくさく切り裂くことができるに違いない。
こんな物騒なもの、いったいどこから…ぐはっ!?
だがそれを疑問に思う間もなく腹を強く蹴り上げられ、視線を強制的に戻されてしまう。
と、そこで初めて男達が身体や腕、足にアーマーのようなものを装備していることに気づいた。
どうやらただの暴漢ではないらしい。
ああ、これは夢だ…。
ただそこまで状況を把握したところでそのことを理解した。
だって俺はついさっきまで学校にいたのである。
それが突如こんな廃工場のような荒れ果てた場所で男達に暴力を振るわれているという状況になったのだから、夢の中であるにも関わらずその結論に行き着くことは難しくない。
まあ何故こんな物騒な夢を見ているのかは分からないが、きっと先ほど先輩を助けられなかったことが関係しているのだろう。
我がことながら、何と繊細な心なのかといっそ感心すらしてしまう。
「……」
でもそれが分かってなお、俺の胸の内では叫び出したくなるほどの悔しさが暴れていた。
先輩を助けられなかったという悔しさが。
すみません、先輩…、俺が、ふがいないばかりに…!
このときほど身体を鍛えてこなかったことを後悔したことはない。
いや、仮に鍛えていたとしてもやはり結果は大して変わらなかっただろう。
何故なら男達は明らかに訓練された動きをしていたし、丸腰のこちらとは違って完全武装しているのだ。
しかしそれでも俺は、自分の情けなさに怒りを覚えずにはいられなかった。
「……」
蹴られすぎたのか、はたまた出血しすぎたのか、もはや痛みはほとんど感じられず、同時に意識も朦朧とし始めていたが、自分への怒りと男達への怒り、先輩に対する申し訳なさを糧に、何とか意識を保ったまま視線をまた先輩の方へと戻す。
「___!!」
と、先輩がもう一度何か叫んだが、今の俺にはそれを確認するだけで精一杯だった。
せん…ぱ…い…、すみま…せ……。
……。
……。
…………。
「先輩!?」「きゃっ!?」
勢いよく目を開けると、何やら可愛らしい悲鳴と共に、ふわりといい香りが鼻腔をくすぐってきた。
……ん?「きゃっ」…?
思わず目を瞬きながら改めて目の前へと意識を向ければ、長い髪を俺の顔へと垂らした先輩が、びっくりしたように目を見開いているのが見える。
どうやら先に感じたいい香りは、この髪の香りだったらしい。
…あれ?先輩?
助けようとしていたはずの先輩が目の前にいるという状況に、再び目を瞬いてしまう。
「…よかった。気が付かれましたか」
そんな俺の一方、目を見開いていた先輩がホッとしたように表情を緩めた。
「?ええと…、あの男達は…?」
その姿にますます疑問を覚えつつも、ともあれそう尋ねる。
あの様子からして男達が先輩を解放するとは到底思えないのだが、どうにも状況が分からない。
そもそも俺はあいつらに暴行されて…。
無意識に左目の下に手を持っていく。
しかしそこには痛みも出血もなく、ただ古傷の固い皮膚の感触が返ってくるばかりであった。
同様に身体の方にも痛む箇所はまったくない。
って、それはそうか、あれは夢なんだから……ん?夢?
ただそこまで考えたところでようやく頭が覚醒してきたようで、現状を正しく理解した。
今自分でも言った通り、先ほどの出来事は夢。
つまり今は目が覚めて現実世界の方にいるということで…。
「……」
「ふふ、もしかして、寝ぼけてます?」
かぁっと瞬間湯沸かし器もびっくりな速度で顔を火照らせる俺を見て、案の定先輩がクスクスと可笑しそうに笑い出した。
仰る通り、どうやら俺は寝ぼけていたらしい。
高校二年生にもなってゲームの世界みたいな夢を見たばかりか、それと現実の区別も付かず「先輩!」とか必死の形相になるクールガイ(笑)、それが今の俺である。
……ぎゃぁぁあああ、やめてくれーーっ!?思い出させないでくれーー!?
現状を客観的に再確認し、顔の火照りはもはや留まるところを知らず、ますます熱を帯びていく。
穴があったら入りたいと今日この時ほど強く思ったことはない。
「ふふふ」
「……」
だがそうして心の中で身悶えしていたものの、相変わらず楽しげに笑う先輩に改めて目を向けた途端、恥ずかしさも忘れて見惚れてしまった。
というのも、先輩は思った通り顔の方も大変整った美人だったのである。
そんな彼女が泣きぼくろのある切れ長の目を細めて笑っているのだから、見惚れるなと言う方が無理な話だ。
なるほど、これほどの美人であるならば夢に出てくるのも道理だろう。
しかし納得すると同時にため息が出てきた。
…ならせめて、夢の中でくらい華麗に助けてもいいのではないか?
ひたすら暴行を受けていただけの自分を思い出して、もう一度心の中でため息をつく。
なんともままならない世の中であった。
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