第8話 えがおはできません

少し、自分でも気が付かなかったが、足がいつもより軽い。

ビルの屋上まで、駆け上がった。



―ここから独り言―

時計を見て、三秒後、明日が今日になった。

今夜はお月さまが本当に奇麗で、思わず、コンビニでホットドッグと、おかかのおにぎり、そして烏龍茶を買って、いつもの屋上へ行った。

そんな今夜の僕は珍しく上機嫌だった。

バイトの給料が千円増えたからだ。

その上、多田さんに、

「漣君、君は本当に毎日よく働いてくれているな。素晴らしいよ。愚痴も言わないし、お客様の荷物は、お客様の指定した大切なものだから、慎重に、と言う荷物だけでなく、すべてのお客様に満足いただけるような仕事をしてくれている。ありがとな」

「いえ。そんな事ありません。まだまだ未熟です。すみません」

「ははは。漣君は色んな人の大切なものが解るんだな。それは引っ越しの時もおんなじだ。漣君、君は今までバイトをしたいと言ってきて、雇った人の中で一番優秀だ。これからもよろしくな」

「はい。ありがとうございます」


僕は、多田さんに聞かれた事がある。

「君は何故高校に行かなかったの?」

「勉学が嫌いになったわけではありません。ですが、図書館に行けば、勉学に困る事もありませんし、努力すれば、有名大学くらいのIQよりずっと僕のIQの方が上です。そんな…」


「…どうした?」


「…僕は、家族に名前を忘れられました。もう、父も母も姉もいません。死んだと思う事にしています。あ…最初の質問の答えにはなっていませんでした。すみません」

「いや、いいさ。君、頑張ろうな!」



それは、とてもとても、温かい光に包まれているようでした。

こんな僕でも、感情はあるんじゃないだろうか?とさえ思わせてくれた。


僕の名前を、呼んでくれた、家族より真っ直ぐ、名前を呼んでくれた、それが多田さんでした。


僕は、堪らなく嬉しかったのに、いつの間にか制圧された笑顔はもうAIの技術でも駄目だろう。


ありがとう。多田さん。


―独り言終わり―

と言ったと思ったら、屋上の階段の隙間から誰かが僕を見つめていた。

「…誰ですか?」

そう問うたが、その人は顔を見せない。


こんな夜中に、そしてこんなおんぼろ廃ビルで一体どんな来訪者か…。



―再び独り言―

もしかして、いつかの夜、この僕の意気地なさを何処かからあの人たちが意地汚く僕を笑い者に現れた…。

そんな事あるはずない。

あの人たちは、もう僕のことなど忘れて、三人で温かい布団に入り、気楽にすごしているだろう。

じゃあ…?


僕は、いつかの夜に、

「今日僕は死ぬって決めたんだ」

と言ったまま、結局今現在は、バイトをし、暮らすに困らない家があり、死のうと思う事は自然とその気持ちは一切なくなった。

しかし、笑顔にはどうしても慣れない。


ずっと、ずっと、大好きなお父さんも、優しいお母さんも、かけっこをするような姉も、求めていたのが、もう生まれた瞬間、いや、生まれる前から、僕を人形にさせる事でそれ以外は求められなかったんだ。


頭の中で、さっさっさっと紙がこすれる音がする。

僕は、一歳の時の記憶を、唯、目を開けているだけだ。

何か描かれている紙が瞬時にめくられている。

それは、確か、母親の指先が何枚もの絵を僕に見せている。

何をしているんだろう?

僕に覚えさせようとしているのだろうか?


…おむつが汚れて、泣きじゃくる赤ん坊の異変に気が付かず、母親ベクトルは、英才教育だけに自分の時間…いや、僕の時間を掌握し、もう僕は死ぬしかない…。




そう、思っていたのは、漣でもなんでもなくて、お腹にいた時の僕だったんじゃないだろうか…。


だから、十五歳の自分が死を望んだ―…


中学の卒業式、あの日にこの学校の屋上で、十六歳になった僕があの廃ビルから飛ぼうとする前にも、自分は要らないものだと思ったんだ…。

…そう、僕にも、中学の卒業式、誰か三年間ずっとテストで、一位にいた事を、居続けられるように、頑張っていた事、努力した事、苦しかった事、辛い時もあった事、三人に、褒めて欲しかった事。



それなのに、卒業式、家族の欠席は僕だけだった。



これが、中卒を選んだ理由だ。



それ故か、笑顔を見せる事は出来ない。

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