第4話 えらかったんです

今夜も、鍵の壊れたビルの屋上に立っていた。


僕は例の独り言を始めた。


―ここから独り言―

今日、僕は珍しくコーヒーショップで時間をつぶしていた。

僕は今日シフトの時間を間違え、それはかなりの長時間の待ち時間だった。

お金の無駄だから、滅多に行かないが、僕は体力をつけるため、現場にはいつも歩いて向かう。

つまり、一旦家に帰ってここに指定の時間に戻ってくるには、時間が足りない。

そこで、コーヒーショップにコーヒー一杯で三時間粘って、仕事の一時間前にそこを出る事になった、とういう経緯である。


現場に着くと、まだ会社の引っ越しトラックは来ていなかった。

そこで、電柱に寄りかかり、トラックを待っていた。

すると、まもなくトラックが到着し、僕もそこに加わった。

「あ、先輩、おはようございます!」

「あ、うん」

この、『先輩』がなんだか腑に落ちない。

だって、彼の方が年上なのだから。


「あの…さ、僕、平田ひらたさんの年下なんで、敬語、要らないですよ?」

「でも、こういうの、自分、大切にしたいんです!」

そう言った平田さんは二十四歳だ。

そんな年の差で、敬語を使われると、こっちも委縮してしまう。


しかし、その日の業務が終わり、会社の水道で皆手や顔を洗う。

そのめくられた平田さんの腕に深い傷跡を見つけた。

触れて良いのか、悪いのか…いや、僕はそんな、人をじっくり観察したりしないし、今日が初めてなくらい悩んだ。


「平田さん、ぶしつけで申し訳ありませんが、その傷、どうされたんですか?」

「え?」

平田さんは顔を洗うのを止め、その傷をじっと見つめた。

「先輩に…あ、漣さんにじゃないですよ?高校の時の野球部の先輩にしごきと言われて、毎日毎日殴ったり、蹴ったり…そのうち後輩までも、俺を見下して、只、そこらへんに捨ててあるぬいぐるみを傷みつけるみたいに、みんなで僕を下に見て来て…。僕は引きこもりになったんです。一度も野球部の誰にもやり返すことも出来ずに…僕は、暴力に屈したんです。僕はどうすればよかったのでんですか?僕は一体なにをあの人たちにしたって言うんですか?僕は…僕は…」


その憤りを痛いほど、こんな人間不信の、家族が名前を忘れるって…どうなんでしょう?と言いたかったあの日の僕が、感じていた。


「平田さん、顔洗ったふりしてますけど、本当は泣いてるんですよね?苦しいんですよね?僕を…何歳も下の僕を先輩と呼ぶのが癖になるほど、悔しい想いをしたんですよね?でも、大丈夫です。僕を先輩なんて呼ばなくて良いんです。平田さんは、仕返しもしないで頑張ったじゃないですか。普通かどうかは解りませんが、きっと平田さんが違う平田さんなら、その野球部、みんな、殺されてます」


「!」


「でも、平田さんは殺さなかった。それは、立派です」


そう、僕が言うと、平田さんは、号泣していました。

よほど、心に膿が溜まっていたのでしょう。

それが、涙の粒に混じっているような感覚さえ覚えました。


「せ…漣くん…ありがとう。僕は殺さなかった。それは、偉かったんだよな?僕は間違わなかったんだよな?…僕は…僕は…」

「はい。平田さんは、偉かったんです。そして、これからも憤りは引きずるかも知れません。でも、もう自分を卑下することはありません。あなたは偉いです」


「じゃあ、漣!明日からもよろしくな!…ありがとう…本当にありがとう」


そう言うと、平田さんは、わざと沢山の水道水を顔にかけて、涙を止めた。


「先輩、明日からもよろしくお願いします」


無感情な僕が、僕にとって平田さんにとって正しい会話を出来た気がした。

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