お旗女選別(一)

 午後の斜陽しゃようを雲がさえぎり、谷間にさっと影がさした。私は急に一人になった寒々しさを感じながら、急いで衣のすそを絞った。凌介と呼ばれた黄金鎧の青年の笑顔が温かくよみがえり、またほおが熱くなる。

 入水じゃなかった安堵あんどもあった。じゃあなぜあのようなところに? 何をしていたの? 出来れば、理由も聞いてみたかったけど、それにしても、止めに入った私が逆に助けられたなんて、あまりに格好がつかないわ……。

 取りとめのないことを思いながら、頂いた包みをそっと開くと、中にはとても美しい翡翠色ひすいいろ単衣ひとえが入っていた。

 思わず感嘆の声を上げる。社衣を脱ぎ、すぐに手を通すと、まるで羽根のように軽く、ふんわりとした着心地が、春風のようにあたたかだった。



 いつもの時刻より大幅に遅れて社殿しゃでんに向かうと、門の前で水杖みなづえが、心配そうに迎えてくれた。

「いったいどこへ行っていたの? 心配したんだから! お師様も心配してさっきまで覗いていらしたけど、ちょうど今お客人が到着なさって……」

 ああ、間に合わなかったのだ。これでも思いきり山道を駆け戻ってきたのだけれど。

 社殿では、定められたものしか着衣が許されない。一度別棟の自室に戻って新しい社衣に着替え、髪を整えていたため遅くなってしまったのだ。

 あの美しい翡翠の着物は、あたたかな思いと共に部屋の文机ふづくえにおいてきた。りょうすけと呼ばれた青年の、屈託のない素敵な笑顔。私を抱え上げてくれた腕の力強さ。思い返すたびに、また頬が熱くなる。

 主命によるお使いの途中と言っていた。あのもう一人の若者も同様、いずれ長濱軍ながはまぐんの武人の一人だろう。私がお旗女として戦場に出る身ともなれば、いつかまた会うこともかなうのだろうか。

「ご泉水を濁らせてしまったの。間に合わずに申し訳なかったわ。お師様はお怒りかしら。」

 沸き起こる思いを振り払うようにつぶやく。もう考えちゃいけない。もう思い出してはいけない。

 二度と会うことはない。熱い思いを冷たくねじ伏せる。

「バカね、茶の湯よりも朝芽の方が大事に決まってるじゃない。無事帰ってきたと解れば笑って迎えてくださるわよ。それにあの泉の水は2日もすれば浄化されるわ。だから大丈夫よ。」

 ほっとしたように笑う水杖の存在を、私はありがたく思った。水杖の笑顔は、元気をくれる。この友がいなければ、そして厳しくも温かく見守ってくれている師の存在なくしては、とてもここまで苦しい修練しゅうれんの日々を切り抜けられなかったと改めて思う。

 その彼女が、不意に声をひそめた。

「それでね、来たわよ」

「え?」

「予告通り、お武家さまが四人。」

「そう……」

「控え所は大騒ぎよ。一度に四人もお旗女に上がるのは、初めてですって。中には、いかにも恐ろしげな髭の親父もいたっていうけど、構うものですか。ああ、いいわね。私も選ばれないかしら!」

 水杖は、華やかな長濱ながはまのお城や、交易も盛んな城下町を訪れることに、常々あこがれていた。城勤めになれば、その思いもかなう。過去には召された武人に可愛がられて、ついにその妻の座を射止いとめた幸運なお旗女もいたと言う。身寄みよりもなく、帰る家もない私たちにとって、新しい居場所を夢見るのはごく当然のことだろう。

 そうは解っていても、私はやはり、心の臓をギュッと掴まれたような強張こわばりをほどくことができなかった。

 御指名から完全に外れるまでは……。

「一緒に、いけるといいわね!」

 水杖が、私の思いとは対照的な、屈託くったくのない笑顔を向けてきたとき、澄んだかねの音が社殿に響き渡った。

「お召しだわ。新しいお旗女が決まったのよ! さあ、早く大広間に行きましょう!」

 水杖が興奮したように言って私の手を引き、美しく掃き清められた中庭の小道を駆け出した。

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