出会いは冷たい泉の中で(二)

 私は、怖いのかもしれない。


「だめだわ、こんなことを考えるなんて」

 我知らず思いを口に出し、ハッと我に返った。誰もいない深山しんざんの崖道であることを思い出し、ほっと安堵の息をつく。

「さあ、早く戻ろう!」

 気を取り直し、足を踏み出した私は、目的の泉の方を見て思わず息をのんだ。


 誰かが水の中に入っている。


 一目で武人だと解った。こがね色の胴巻鎧どうまきよろい篠小手しのごての軽装。歳は若い……私より少し上のようだ。その姿は青ざめた顔で水中を見つめ、そのままざぶざぶと泉の中へと入っていく。

 入水自殺……ッ!

「あっ……だめ……っ!」

 思わず叫んで、私は駈け出した。足元で砂利じゃりが飛び散る。何度も転びかけては体勢を立てなおし、私は必死で崖を駆け降りた。

 滑り込むようにして泉のほとりの砂地に駆け込み、かめを地面に転がすと、泉の中に飛び込んで行く。

 冷たい。

 陽春とはいえ、深山の谷間にこうこうとき出る泉水は、足がちぎれるほどに冷たかった。それでもためらう暇はなかった。見る間に脚、腰と上がる泉水を掻き分け、わらじに付いたほこりで澄んだ水が濁るのもかまわず、彼方の人影を目指して走る。

 泉の人影は止まらない。もう胸の深さまで進んでいた。栗色の髪が顔の半分を隠すくらいにうつむいて、思いつめた様子で両腕とも水の中に入れている。今にも顔をつけて沈んでしまいそうだ。私の全身に鳥肌が立った。

「死んじゃ駄目ぇーッ!」

 夢中で叫びながら水面をたたく。深みにはまり、思うように足が進まない。

 人影がはじかれたように顔を上げた……と思った瞬間、足が滑って、私は泉の中に倒れ込んだ。

 バシャン! と派手な音が聞こえ、一気に視界が青くなる。頭の先までしびれるような冷たさだ。あわててもがくが、社衣が体中に巻きついてうまくいかない。溺れる、と思った瞬間、力強い腕が私の腰に回り、ぐいっと水の中から引き揚げてくれた。


「おいおい、大丈夫か!」

 びっくりしたような声が聞こえた。激しく咳き込む私の顔が水につからないように、たくましい腕がしっかりと支えてくれている。

 私はそのまま抱えられるようにして、泉のほとりへと戻ってきた。



「あ……ありがとうございます」

 ほとんど引きずり上げられるようにして、泉のほとりの砂地に這いあがった私は、あえぎながら頭を下げた。

「苦しくないか。水は飲んでないな?」

 肩で息をする私の側にしゃがみこんだ相手が、心配そうにのぞきこんできた。細身の長身。彫りの深い面差し。日に焼けているがきめ細かい素肌の持ち主で、一瞬はかなげな印象も受けるが、そこにいたのは、意志の強そうなあごの線と引き締まった体躯たいくを持つ、堂々とした武人だった。

 すずやかな瞳が、真っ向から私を見つめる。一度に頬が熱くなった。

「え、ええ、大丈夫です……」

「びしょれだ。何か代わりに着る物を……」

 そう言って立ち上がった黄金色のよろいが、日の光に反射してきらりと光った。そこからも、途切れることなく泉水がしたたり落ちている。

 その瞬間、私はなぜ自分がこんなことになったのかを、鮮烈せんれつに思い出した。

「あっ、あのっ、」

 あわてて後ろ姿に声をかける。

「お助け下さり、ありがとう存じます。でも、あなた様が死んではなりません! 事情も知らずにと思われるでしょうが、入水だけはおやめ下さい。私、あなたが水の中に入るのを見て、それで、つい……」

 言葉が途切れる。

 相手は、真ん丸な目をして振り向いていた。

「入水? 俺が……?」

「……違うの……?」

「……。」

 沈黙……。

 次の瞬間、若き武人は、腹を抱えて大爆笑した!!



 はじけるように笑う相手をぽかんと見つめる私の上に、突然大音声が降ってきた。

「コラァーッりょうすけ!! いつまで水遊びしてんだおめェはよぉーッ! 早く行かねぇと日が暮れちまわぁ!」

 仰天ぎょうてんして空を見上げると、はるか高い山肌の岩場に、今一人の武人が仁王立におうだちになっているのが見えた。目の前の青年とは対照的な、深紅しんくの戦服の、派手ないでたちの若者である。頭を振り立ててわめくたび、ひたいに巻かれた鉢金はちがねが、ぶんぶんと華やかな尾を引いている。

「おう、かげよしか! すまん!」

 叫び返した黄金色の鎧が、ハッとしたように私を見る。

「すまないが、これから主命しゅめいで急ぐところがある。びしょぬれの君を置いていくのは気が引けるが……」

「大丈夫です。一人で帰れますから」

 申し訳なさそうな相手の言葉をやんわりとさえぎる。これ以上心配をかけて、大切な御用ごようの妨げになってはならない。

「そうか。気をつけてな」

 私が微笑むと、青年も笑顔になった。笑うととても魅力的な表情になる。思わず心臓が高く鳴った。

「あ、ちょっと待ってろ。」

 ふいに彼は振り向くと、はるか高い人影に向かって大声で怒鳴った。

カゲ! 荷の中にたしか単衣ひとえがあっただろッ! そいつを投げてくれッ!」

「なんだと!? これは先方への土産にと備中びっちゅう殿が……」

「いいんだよ! 持って行っても、どうせ箪笥たんすの肥やしだろッ! 早く寄越せ!」

 渋々、といった感じで、美しい包みが投げ落とされる。崖下で器用にそれを受け取った若者は、私の元に駆けてくると、

「これ、着なよ」

 そっと手渡してくれた。

 戸惑う私ににっこり笑うと、そのままきびすを返し、見る間に崖道を駆け上がっていく。重い鎧からしずくが散るたび、黄金色の光が空に散った。その姿が美しいほど軽々と岩を伝って友人の元へ駆け上がると、二人はそのまま崖道にいた馬に飛び乗り、鮮やかな手綱さばきで駆け去って行った。


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