湖国草子

甲路フヨミ

天槻着任編

第1章 旅立ちの刻(とき)

出会いは冷たい泉の中で(一)

 つい先日まで豪雪に固く閉ざされていた杣道そまみちが、今では柔らかな陽春の息吹いぶきに包まれていた。

 枝々では小鳥がにぎやかにさえずり合い、風にはじける新芽の香りが心地よい。

 深い谷間にうぐいすがまた、ピピピピピーッ、と鋭くいた。

 奥山にも、春は忘れずに訪れてくれる。

 長濱国ながはまこく華正元年かせいがんねん、戦国時代。

 山を下りれば、そこは修羅しゅらごうが渦巻く戦乱のちまた。血で血を洗う人の世の荒野。しかし、それを想うには余りに平和で美しい、春の仙郷せんきょうだった。



 山道を上りつめると、目の前の景色が厳しく変わる。

 柔らかな新緑の木々は影を潜め、代わって荒々しい山肌が深い谷間に向かって落ち込んでいる。道は砂岩さがんのガレ場となって、水墨画のようにそびえたつ険峻けんしゅんな山々を見上げながら青く沈む谷底目がけて続いている。目的の泉が、そこにあった。

 私は、手にしたかめを落とさないように持ち直すと、崖の細道を注意しながら下って行った。

 この谷の泉で、師の求めに応じて澄んだ水を汲むのが私の仕事だった。透き通った香りのこの深山の泉水せんすいは、師が立てる舶来はくらいの茶の湯に最適なのだそうだ。そしてその茶をふるまわれるのは、十里じゅうりの彼方にある長濱本城ながはまほんじょうからの“お客人”が来る時と決まっていた。



朝芽あさめ、聞いた? 今日のお客人はお武家様って噂よ」

 社殿しゃでんを出るとき、親友の水杖みなづえが、興奮した面持おももちでささやいてきた。

「それも四人ですって!」

「まあ、四人も?」

「どんな方かしら。私たち、お目にとまれるかしら?」

 愛らしい頬に手を当てて、水杖がうっとりとつぶやく。

 私は、そんな親友のしぐさに思わず微笑みながらも言った。

「あまり期待しちゃだめよ、水杖。この社には五十名ものお旗女はため候補がいるのよ。お役をいただくには、まずはお師様のご推挙が必要で……」

 それに、と後の言葉を心でつぶやく。


 私たちの運命がかかってくるのよ。


 そう言う代わりに、行ってくるね、と声をかけ、少しショボンとした友の顔を気にしながらも、私はいつもの山道を歩き出したのだった。



 長濱ながはまは、もと有数の巨大な湖水に面した小国だ。気候は温暖、風土は豊かで、道行く人々の顔も明るい。湖から上がる新鮮な魚介と肥沃な土地に実る農作物は、“万年豊作国まんねんほうさくこく”の名にふさわしいうるおいを下々の生活にまでもたらしている。

 豊かさの元はそれだけではない。

 長濱国守護ながはまこくしゅご土岐とき氏は代々名君の家柄で、現領主、土岐とき定照さだてる様もまた、仁愛の心根こころね優れたお方よと、もっぱらの評判だった。

 自ら城を出ては農村に交わり、親しく治水ちすいや収穫の悩みを聞きとっては年貢ねんぐに反映させ、苦しむ民草たみくさを少しでも減らそうと奮闘されている。また政治や軍学にも詳しく、おそばを固めるご家老衆も、みな、名うての逸材いつざいばかりであった。

 沃土よくどに加えて京師みやこに近い交易の要衝ようしょう。近隣諸国がこれほど“おいしい“領知りょうち”を見逃すはずはない。小国であるのが更に食指しょくしをそそるのか、甲兵こうへいの波はこの名君の美しい国にも容赦なく押し寄せていた。国境付近では今もなお戦闘が続き、近隣国主の悪意をくんだ浪人ろうにんたちが、夜盗や山賊となって街道かいどうの平和を脅かしていた。

 しかし、長濱国はびくともしなかった。

 肥沃ひよくな土地と名君に育てられ、代々続く優れた武人たちを将と仰ぎ、誇りと忠誠心を強く持った長濱軍は、すさまじく強かったのである。彼らは一丸となって愛する国土を守ろうと、押し寄せる世の波にあらがった。そして多くの戦場で、美談や武勇伝と共に勝鬨かちどきを上げた。

 それは、今も続いていた。



 三年前の秋、私は親友の水杖みなづえと共に故郷を出て、深山霊峰しんざんれいほうのふもとにあるたき社殿しゃでん……武人お旗女はため養成所……に奉公に上がったのだった。

 お旗女はためとは、長濱軍武将専属の侍女じじょの役名で、軍営における武人たちの日常の世話をうけたまわる。勿論もちろん戦場にも同行し、本陣にてあるじのお世話をつききりで行うため、時には命を投げ出す覚悟も必要となる。そのため、お旗女と主の武人の間には、強い信頼関係がなによりも不可欠だった。

 良き相性のあるじにお仕え出来るか、それが私たちお旗女の人生を決めると言っても過言ではない。

 深山霊峰のふもとで日々の厳しい修練しゅうれんに耐え、一通りの武術と典礼作法てんれいさほうをたしなみ、一人前と認められると、初めてお旗女候補として名前が本城ほんじょうに送られる。その後は社殿しゃでんの長、源翠老師げんすいろうしのかたわら近く仕えながら、あるじとなるべき運命の武人に選ばれるときを待つ日々だった。

 私も、水杖も、すでに候補としての名乗りは済ませていた。どちらかが……運が良ければ両方が……いつ選ばれても不思議はない。覚悟はすでに決めていた。

 だけど私は、水杖ほどこの知らせに関心を持つことができなかった。むしろ、今日の客人が恒例の、ご城主様の時候じこうのお使者であってほしいとさえ願っていた。


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