5-2マートレッド・スマイルの悦び


その頃、ラットは3階に居た。教えられていた、客用のトイレに入っていたのだ。

 なんだか下の階から足音がするなあと思いながら、用を済まして手を洗う。冷たい水が指を伝って金色のシンクに落ちていく。

 冷たさは鋭い。ラットの指の温度を奪い、痺れるような感覚を与えてくる。

 ラットは正面を見た。自分の顔がある。鏡はピカピカに磨き上げられている。

 宿の裏側で倒れる前、どこかで鏡を見たことを思い出す。空腹で力が入っておらず、あまりはっきりとは覚えていないが。

 その時も自分の顔を見た。死神のような恐ろしい顔をしていた。

 しかし、今は違う。確かに頬は痩せこけているが、目はちゃんと開いている。

 ラットは胸の内に喜びがぶわりと巻き上がるのを感じた。

「俺、まだ生きてんだな」

 鏡の中の自分の頭を撫でてやった。よしよし、偉いぞ。よく頑張ったぞ。

 今度は勝手に情が込み上げてきて、ラットの頬に涙の筋が通った。


 ラットが自分の部屋に戻ってきた頃にはもう、足音は消えていた様に思われた。

 そういえば昼間、イェーゴーから自室の鍵を閉めておくように言われた。

 ラットは扉の鍵を閉め、もうすっかり冷えてしまった体をさすりながら毛布に潜り込んだ。

 そして、ラットがようやくうつらうつらし始めた時、

 コ、コ、コ・・・とノックの音がした。

 ラットはビクッと飛び上がって、震えながら毛布の端をぎゅっと握り込んだ。

 ノックの音は均一なリズムで続く。

 ラットの思考が固まった。

 どうしたらいいどうしたらいいどうしたらいいどうしたらいい。

 得体の知れないものが外から入ってくる時、ろくな事にならない。ラットはそれを身を持って知っている。体が震えて動かない。怖い。

 かちゃり。

 ラットは絶望した。扉が勝手に開いたのだ。誰かのブーツの音がする。小気味いいその音がゆっくりと近づいてくる。ラットは布団から出ることさえできなくなってしまった。

 もう何もできない。ラットはぎゅっと目を瞑り、体の力を抜いた。

 そうだ、昔から自分にできたことなどほとんどなかった。自分の命がどうなるのかは、自分にさえわからない。抵抗するだけ無駄なのだ、そう思った。

 誰かの足音がベッドの側に辿り着く。静かな数分が経った。

 背の高い男だった。男は左手に隠し持ったナイフの、刃の感触を味わう様に指で弄ぶ。その目はアルコールを摂取した時のように夢見心地だ。

 金髪の前髪がかかんだ拍子に一瞬だけふわっと浮く。

 男は毛布をじっと見つめる。いつでも獲物を仕留められる。

 男のナイフが毛布の表面をそっと撫でた。皮がわずかに剥がれ、白い綿が出てきそうになる。男は綿が赤く染まるのを妄想した。鼠の血でだ。


 助けて,とラットは心の中で呟く。


 しかしラットが縋ろうとしているのは、神ではなかった。

 自分がイェーゴーに無意識のうちに助けを求めているということに、ラットはまだ気づいてはいなかった。

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