6 20日 月曜日

男はしばらくじっとしていたが,ナイフを腰元のポケットに静かに仕舞い込んだ。

 そして、毛布に掌をべたりと付けた。何度か手を左右に動かした。

 毛布が手に従って揺らされた。

 ラットの目が大きく見開かれた。見知らぬ人間の掌、それは気味の悪いもののはずだ。

 しかしどういうわけか、ラットは嫌悪を感じなかった。むしろ、安心感があった。

 信じられないことに、ラットはこのまま眠ってしまいそうだった。こんなに危機的な状況の中、心地よくてうとうとしている自分が、信じられない。

 やがて男はベッドから離れていった。その足音が完全に消えた時、ラットは男が部屋から出ていったのだと気づいた。

 毛布を恐る恐るどかす。ラットの目は、闇に少しだけ慣れていた。

「・・・なんだったんだ」

 ちゃんと鍵をかけたはずだ。何度か確認もした。イェーゴーに言われていたから。

 この部屋の鍵を持っている人間が入ってきたのだろうか。


 ラットはまた不安になってきた。先程のように、また誰か入ってくるかも知れない。この部屋から出ていった方がいいのではないか。

 ラットはゆっくりと立ち上がった。

 その時、鼻をくすぐる香りがした。花の香りだ。

 ラットは不思議に思い、すんすんと鼻を鳴らした。

 金木犀に似た、甘くて優しい香りーーー。


 ラットの瞼の裏に、イェーゴーの甘い微笑みが映る。

『夢じゃないでしょう?』

 ラットと絡み合った細長い指、イェーゴーの体温。

 きゅううと締め付けられた、心。


「・・・ッッ!!!」

 これ以上にないほど胸がどくんと高鳴った。

「な・・・なん・・・」

 胸が苦しい。顔に熱が集まってきて、ラットは目を瞬かせる。

 いてもたってもいられなくなり、ベッドから飛び出した。

 イェーゴーの笑顔が、ビデオテープのように何度も頭の中で再生される。こちらを見て微笑んでいる。

 きゅんきゅんとラットの胸が締め付けられる。

「ーー〜〜〜っ!!」

 ラットは力が抜けてぺたんと尻餅をついた。

 ほっぺたが、燃えるように熱い。

 初めての感情に戸惑い、涙目になるラットに、幻想のイェーゴーは追い討ちをかけるようにラットを包み込む。


 しばらくしても、心身の異常はさっぱり収まらない。

 ラットは恐ろしくなった。イェーゴーのことで頭がいっぱいになっていく。このままだと、自分はどうなってしまうのだろう。

 どこまでも深みにはまってしまいそうで、底が無さそうで怖い。

「どうしちゃったんだよ、俺・・・」

 震えるため息は誰にも届かない。



 ーーーーーーーーーーー


 イェーゴーが取り出したのは、いつか拾った紙切れだった。

 その表の意味が、今ならわかる。理解できてしまった。

 一見なんの意味もなく並べられたかのような数字、これはイェーゴーが闘技場の闘士として稼いでいた時の、記録だ。


縦の欄は戦闘不能にした人数、横の欄は年月。

例えば、闘士にされたルビーの月は13。

その半年後の、ガーネットの月は42。


そしてあまりの残虐性から解雇されたアメジストの月では、79。


一月で79人を絶望に陥れた。

イェーゴーの口元が自然に上がっていた。


あの頃。

相手の闘士の泣き顔に、心が昂っていくのを抑えようがなかった。

斬りつけただけで、痛いと泣き喚く彼らのことが、イェーゴーは大好きだった。


もう一度、人間の恐怖の味を知りたいと体が疼く。

本能が、身を任せてみろと艶かしく囁いてくる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る