5 マートレッド・スマイルの悦び


 現れた使用人たちは、主人の元へと歩いてきた。

 マートレッドは振り向きもしないまま、夜の闇を見つめながら告げた。

「捜しなさい」

 イェーゴーが息を呑んだ。

 使用人たちはすでに示し合わせていたかのように、また食堂室を出て行った。

 イェーゴの心臓がどんどん高鳴っていく。

 しかし、ここで動揺を見せるのは相手の罠にはまるのと同じことだ。

「マートレッド様。捜す、というのはどういう・・・?」

 マートレッドの肩が上下する。彼女は、笑っている。

 闇の向こうで、木々の葉がざわめいている。


 マートレッドは何も言わなかった。

 屋敷中で扉を開ける音やものを動かす音が鳴り始める。やがてそれはどんどん大きくなる。使用人たちがばたばたと走る音がこだまする。イェーゴーは思わず両耳を覆った。ラットが、もし見つかってしまったら。

 イェーゴーは侮蔑に満ちた目で、笑うばかりのマートレッドを睨んだ。

 この主人の考えていることは今まで一度だってわからなかった。

 もし使用人に突き出されたら、ラットが危険な目に遭わないとは言いきれない。


 イェーゴーは出口に向かった。いけないと頭では分かっていた。マートレッドに自分が焦っていると思わせてはならない。それは彼女の思う壺だ。

 しかし、考えに反して足は止まらなかった。

 そして食堂室の扉を開け放そうとした時、悦ぶマートレッドの声に捕らえられる。

「どうした?」


 イェーゴーの足がぴくりと止まった。

 マートレッドの声が、あまりに冷たくて身体が凍りつくような気がした。

「いいの?ここから出ても。異常は何もないのでしょう?」

 上から誰かが移動している音がする。使用人がとうとう2階に上がった。イェーゴーは歯を食いしばる。

 マートレッドがハイヒールの音をわざと鳴らしながら近づいてくる。扉の前で固まるイェーゴーのすぐ背後に、ぴたりとくっついた。



「誰か、入れたのね」

「・・・っ」

「私思うのだけれど、あなたってそんなに優しかったかしら?」

 誰かを匿っているのも・・・あなたのことだから多分、身寄りのない子供でしょうけれど、

 ぜ〜んぶ、自分のためでしょう?

 自分は残虐な化け物じゃないって証明したい、それだけでしょう?


 言葉の洪水がイェーゴーを溺れさせる。

 息ができない。


 マートレッドの赤い爪がイェーゴーの首筋にかかった。それは戯れのようにイェーゴーの肌に爪痕を遺していく。

「もう一度聞くわ」

 イェーゴーの頭の中に浮かぶのはあの少年だけだった。

 ラット・ブラウン。

 その怯えた瞳も、遠慮ばかりの態度も、今まで生きてきた苛烈な環境を想像させる小さな仕草も、イェーゴーの胸を抉ってきた。

 包んであげたい、守ってあげたいという優しさを呼び起こした。


 気の所為だ。

 掌にべっとりと絡みつく血の生温かい感触や、あの悦楽なんて、思い出すはずもない、気の所為のはずだ。


 イェーゴーの心音が自分の身体中に響いてくる。

 そして、彼の背中から囁かれる声は、冷たく、残虐だった。

「異常はあった?」

 ヴァニラの香りがマートレッドのうなじから漂ってくるのだった。


 

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