4-2翌日の朝

 イェーゴーは、ラットに話を始めた。

「今日の朝食はいかがでしたか?」

 ラットはおずおずと答えた。

「う、うまかった。パンが、ふかふかで。だけど少し多かった。なるべく食べるようにはしたんだけど」

 イェーゴーは、ラットが朝食を半分残してしまったことを申し訳なく思っているのだと悟った。

「仕方のないことですよ。むしろ、あなたの健康状態であんなに食べられるわけがありません。お気になさらず。これからはもう少し量を減らします」

 ラットは思わず後ろを振り向きそうになった。

妙な感じを覚えて尋ねた。これからは?

「なあ、俺、もう出て行った方がいいよな?」

 するとあたりに沈黙が立ち込める。だだっ広い浴場が静かになると、一気に恐ろしくなる。

 ラットは焦って言い足した。

「や、こんなにでかい屋敷に俺みたいなのがいたら迷惑だろうし」

 何も物音がしなくなって奇妙に思い、ラットは恐る恐る振り返った。

 そこには息を呑むイェーゴーがいた。


「体が完全に回復しきるまで、ここにいてもいいと主人は仰っていました」


 ーーーーー


 その夜のこと。

 屋敷の一番奥の食堂室で、イェーゴーは給仕をしていた。たった一つの赤い椅子と壁一面に広がる窓が向かい合っている。それだけの空間だ。

 黒い床と、夜空の色の様な壁と、窓の外の闇が、融合する。

 赤い椅子から覗く白い手が、その隣に待機するイェーゴーにワイングラスを傾けた。イェーゴーは透明なグラスに血のようなワインを音もなく注いでいく。

 二人は無言で、窓の外を見つめている。

「・・・何か、異常はあった?」

 艶のある声が部屋の隙間に染みる。

「いいえ、何もありませんでしたよ」

 赤い椅子がきしりと鳴る。女性が座っている。黒い髪は丸いシルエットを描いており、黒い瞳は細められる。

「嘘ね」

 女性、この屋敷の持ち主は音もなく笑ってグラスに唇を合わせた。紅の色がグラスに残った。

「いつもよりもワインが苦いもの」

 イェーゴーの身体が僅かに硬くなる。


 マートレッド・スマイルはこの屋敷の主人だ。彼女は決して裕福な生まれではなかった。しかし持ち前の頭脳と度胸を駆使し、時には悪どい真似まで武器にして、巨大な屋敷を得る程に財力を持ったのだ。

 彼女は陰で逆恨みする者達の愚痴の種にされている。しかしそのこと自体も面白がっている。そういう人間だ。

 面白いこと、力を得ることには貪欲であり続ける。

マートレッドはだからこそ出世した。

「ねえ、ストライダー」

 そして今、マートレッドが面白いと思っているのは、ストライダー・イェーゴー。彼がこの屋敷に執事として入ってきた約十年前から、そうだった。

「はい、マートレッド様」

 イェーゴーは暗闇の中で笑みを作る。

 マートレッドはいつも、「何かを諦めている目で微笑む」。今夜もそうだ。

「あなたがここにくる前のことを思い出すわね。あなたはまだ少年だった。闘技場で自分の欲望のまま、相手をめちゃくちゃにするあなた・・・本当に、そそられたわ」

 マートレッドが恍惚な笑みでワイングラスを思いきり傾けた。真上に上げた首、ごくりと鳴る喉から妖気が醸し出される。

 マートレッドが熱い吐息を漏らした。ワイングラスはイェーゴーの手に渡った。いつもなら食事が終わったサインだ。

 マートレッドは満足そうに微笑むと、椅子にその身をゆったりと委ねるのだった。

 イェーゴーが安心したのも束の間、

「何か隠しているでしょう」

 冷酷な声は響き、食堂室の扉から使用人が5人程現れた。


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