8 愛しきどぶねずみ

イェーゴーはベッドから上体を起こした。

 目の下には隈が広がっている。

 左の窓の外では雨粒がザーザー伝い落ちていて、一向に止む気配がない。

 こんな日は、痛めつけた人間達の顔を思い出す。痛みに耐える苦悶の顔、命乞いを始める顔、恐怖で涙を止められない、情けない顔。

 イェーゴーの口元が自然と微笑んだ。

 どの顔も、みな素敵だった。

人を傷つけて、初めて強くなったような気がして、彼はまだその夢幻から逃れられないでいる。

 掌を閉じたり開いたりすれば、そこに浴びせた血の色の光景が蘇る。

 鮮血、少し濃くなった朱、もっと黒くなった紅。イェーゴーは無意識のうちに自身の掌を舌で舐っていた。血を拭き取っているつもりで。

 高揚が、身体の中に帰ってくるのを感じるのだ。闘技場で闘士として生きていた頃に戻りたいと思っている。もう隠すことはできない。

「何がいけない?」

 雨は止まない。それどころか、どんどん強くなる。


 人は人を虐げて生き残るものだ。古来からずっとそうだったではないか。

 なら、人を傷つけることが生きがいの私が、人を傷つけてはいけない理由などない。

 イェーゴーの瞳の中に渦巻く。人のもので無い、どす黒い闇が。

「何が・・・」


 その時、執事室の扉がトントンと叩かれた。

「あのー」

 ラット・ブラウンの声だった。

「ストライダーさん、いるー?」

「いますよ、どうぞ」

『ノックをしてから部屋に入る』。ラットが自分の教えを守っていることが、イェーゴーの心に薄暗い喜びを与えた。イェーゴーを指揮官のような気持ちにした。

 扉が開く音がして、少年が部屋に入った。

 イェーゴーは、どこか緊張している様子のラットを見て、自然と微笑んだ。


 ラットは、ベッドの中で上体を起こしているイェーゴーが自分に向ける微笑みに、思わずどきりとした。それが妖しく美しいものだったからだ。思わず見惚れてからラットはハッとした。まだ挨拶もしていない。

「お、おはよう。その、遊びに来てもいいって言われたからさ。ああ、休んでいたならいいんだ。帰るよ」

 それは言い訳の様にも聞こえた。冷たくあしらわれることへの予防線を張っているのだ、とイェーゴーにはすぐにわかった。

「そんなに怯えないで」

 イェーゴーはラットの瞳を見つめ続ける。今はまだ殺さないと決めた。

ラットを今すぐ手にかけるのは、何か物足りない。

 特別に痛めつけてラットの全てを知り尽くさねばならないのだ。


 手招きすると、ラットはおずおずとベッドに寄ってくる。


 イェーゴーがベッドに寝そべる。隣に来る様に命じると、ラットはかたまった。

 ラットの顔がみるみるうちに赤く染まっていった。初日はできたことが、今はできないだなんて可愛い人だ、とイェーゴーは笑った。

「や、やめとくよ」

「あたたかいですよ、私が今まで眠っていましたから」

 ベッドの毛布を捲る。上目遣いのまま、ラットに視線を送る。

 さあ、ここに入っておいで。悪いようにはしないから。

 イェーゴーは瞳で囁き、誘った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る