濁心
「怖いよ。助けて」
僕はずっと闇の中に居た。
己の中に、小さい自分がいる。
彼は僕の代わりに感情を代弁してくれている。
そうしてくれているお蔭で、僕は如何にか普通に生きることができている。普通に、当たり前に、普通に、当たり前に、普通で、当たり前で、普通に、当たり前に、普通に、当たり前に、普通で、当たり前で、普通に、当たり前に、普通に、当たり前に、普通で、当たり前で、普通に、当たり前に、普通に、当たり前に、普通で、当たり前で、ちゃんと、ちゃんと――ちゃんと、することが出来ている。
ちゃんと人間で、いることができている。
「辛いよ、苦しいよ、助けて」
それは弱い、人には見せることのできない自分である。
人には許されない。普通でもなく、当たり前でもなく、ちゃんとできてもない、駄目で弱くて小さな、本来の自分である。
そのままの自分など、愛されるはずも、必要とされるはずもない。
だから僕は僕を押し込めながら、抑圧しながら生きてきた。
この闇は、今まで抑え込んできた、僕の感情なのだ。
闇は――しかし完全に真っ暗ではない。
僕を中心に、少しだけ光源が灯り。
抑圧してきた感情の濁りを映していた。
「怖いよう、寂しいよう」
己の中のもう一人の僕は、膝を抱えていつも泣いている。泣き声は僕の思考に雑音をもたらす。邪魔だった。でも、泣き止んでくれない。どうしてだろう。ずっと欲しかったものは買ったじゃないか。嫌いな親元を離れたじゃないか。言われた通りちゃんとした大人に、なったじゃないか。どうして泣いているんだ。君は。
「嫌だよう」
何が、嫌なのだろう。
ふっと、闇の中から一つの丸い感情が落ちてくる。
そこには、僕の顔が映っていた。
その顔は、泣いていた。
小学校の時、いじめられて、親に泣きつきたかった時けれど、泣きつけなかった。ちゃんとしなければならなかったから。兄だったから。弟もいじめられていたから。父も母も険悪で、自分がちゃんとしなければならなくなったから。泣かなかった、我慢した
地面に落ちた丸い感情はぱちんと弾けて、濁った液体を残した。
「苦しかったよう」
何が、苦しかったのだろう。
また一つ、渦から感情がぽたりと垂れた。
そこには、馬鹿みたいに笑う、道化のような自分の顔があった。恥の感情であった。
中学の頃、教室の後ろで殴られているのを――皆は見ているだけだった。誰も助けてくれず、指を差して笑っていた。泣きたかった。辛かった。でも泣いたら、また馬鹿にされる。だから泣くのを我慢して、笑った。無理矢理顔を歪めて、笑った。とても醜い笑顔だった。気持ち悪かった。
地面へと沁みた感情は、そのまま黒い沁みを作った。
「妬ましいよう」
一つ、悪臭を放つ感情が、溢れ出してきた。
高校の頃、勉強を頑張って進学校に行くことができた。中学になんて行きたくなくて、高校なんてどうでも良くて、死にたくて、ボロボロで、死ぬほど苦しくて、それでも――皆も苦労しているからと、無理矢理身体を動かして頑張った。父と母から聞いた「皆頑張っているから」「辛いのは皆一緒だから」そう言われて頑張ったのに、高校にいた人たちは、普通に幸せそうで、普通に自分があって、普通に楽しそうで、普通だった。いじめなんて受けていない、家庭環境もある程度しっかりしていて、家がちゃんと帰る場所で、ちゃんと自己主張ができていた。自分が耐えてきた辛さは、ぼくだけのものだと知った時、皆が羨ましくてたまらなくなったけれど――でも耐えた。誰にも言わなかった。我慢した。それは仕方のないことだって、我慢した。辛かった。死にたかった。
地面へと沈んだ感情は、そのまま滓を作ってとどまった。
「寂しいよう」
また一つ、とびきり醜く小さな感情が、手のひらに落ちた。
大学の頃、自分がおかしいことを知った。人と違うことを知った。まともな人間でないことを知った。会話が噛み合わなかった。感情が制御できなかった。人との距離感が分からなかった。何をしても上手くいかなかった。自分が関わったことは全て失敗した。自分がいなければ良いと思った。でも死ぬこともできなかった。どうすれば良いか分からなかった。誰にも分かってもらえないまま死ぬのは寂しかった。でも、理解してもらう方法が分からなかった。だから耐えた。皆はこういう気持ちを抱えて、死にたいのを我慢して生きているのだと――無理して生きていることが当たり前で、それに耐えられる人間が、きっと普通の人間なんだと思って、我慢した。一人は怖くなかった。いつも一人だったから。我慢は慣れていた。自分の感情を適当に扱われることなんて慣れていた。だっていつも自分に、そうしてきたから。嫌も、苦しさも、妬ましさも、寂しさも抑圧しろ。抑え込め。無視しろ――そうすれば、そうしていけば、僕はきっと普通の人間になれる。
そう思っていて――社会人になって。
僕は間違っていたことを知った。
そんな風に生きていたのは僕だけで、皆にはちゃんと友達や家族がいた。
抑圧もなく、不幸もなく、いじめもなく――あったとしても、それらをちゃんと乗り越えて、辛いことをバネに、幸せになっていた。
それを見た時、僕は何を思っただろう。
辛いことは辛いことにしかならなかったし、苦しいことは苦しいことでしかなかった、嫌なことは嫌なだけで、寂しい気持ちは寂しさしか持ってこない。心の傷としてどっしり乗っかって――一生剥がれることはない、いつまで生きればいいのだろう。
「辛いよう、苦しいよう。嫌だよう。寂しいよう」
いつものように、心の中の僕は泣いていた。
いつまで泣いているのだろう。
――うるさいなあ。
僕は、彼の頭を思い切り殴った。
心の中の彼は、驚いたように僕を見上げ、そしてまた泣き始めた。
「っ――痛いよう、痛いよう」
また、一段と大きな声を上げて、彼は泣いた。
それがまた、僕の苛立ちを加速させた。
――どうして泣いているんだよ。
――いつまでもいつまでも。
うるさい。
うるさい。
うるさい。
うるさい。
僕は彼の膝を蹴った。彼は泣いていた。
肘を殴った。彼は泣いていた。
腕をつねった。彼は泣いていた。
爪を剥いだ。彼は泣いていた。
原を蹴った。彼は泣いていた。
髪の毛を引っ張った。彼は泣いていた。
耳を千切った。彼は泣いていた。
蹴って、蹴って、殴って、罵倒して、蹴って、千切って、殴って、殴って、蹴って、ぶって、抓って、殴って、抓って、千切って、殴って、蹴って、殴って、蹴って、ぶって、叩いて、怒って、蹴って、殴って、罵倒して、蹴って、千切って、殴って、殴って、蹴って、ぶって、抓って、剥いで、蹴って。
どれくらい時間が経っただろう。
彼は動かなくなっていた。
多分死んだのだろう。
やっと泣き止んでくれた。
良かった。
これで、安心できる。
僕は、ちゃんとした僕でいられる。
先程まで落ちていた黒い気持ちたちが、水面のように僕の顔を映した。
その顔は、もう泣きだしそうで。
まるで壊れてしまいそうだった。
その直後。
周囲を囲っていた、とても小さな光が消えて。
決壊したダムが如く――濁った黒い感情が、僕を覆って沈めた。
彼が死ぬ間際の言葉を聞き逃しておけば良かったと、最後に思った。
「助けて欲しかった」
こうして僕は、人ではなくなった。
(了)
濁黒 小狸 @segen_gen
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