第三三話 宮島パラダイス 三 四面鹿
宮島口に無事到着して駐車場に車を置いた私たちは、お土産物屋さんにフラフラと吸い寄せられていく真綾ちゃんを引っ張って、本州と宮島を結ぶフェリーに乗り込んだ。
さあ、ここから厳島(通称宮島)まで、短い船旅だよ!
――ギザギザした山がそびえる宮島に向かって、私たちを乗せたフェリーがグングン進んでいくと、まるで海の上に浮かんでいるような朱塗りの大鳥居と厳島神社の社殿が、徐々に大きく見えてくる。
この時間の定期便は〈大鳥居便〉といって、大鳥居に接近する航路を通ってくれるんだそうな。あのまま呉でカレー地獄に落ちていたら、きっと乗れなかったよね。
私たちはフェリーの一番上にある展望デッキに出て、のんびり景色を眺めているんだけど――ヤバい、これムチャクチャ楽しい!
もちろん、船好きのおじいちゃんとお父さんはすっごくいい顔をしているし、長い髪を潮風になびかせて私のとなりに立っている真綾ちゃんからも、なんとなく興奮が伝わってくるよ。
「真綾ちゃん、熊野さんは?」
私はもうひとりの大切なパーティーメンバーのことが気になって、朱塗りの大鳥居をジッと眺めている真綾ちゃんに聞いてみた。
「さっきからずっと楽しそう。『やっぱり、海上を航行するのはいいですね~』だって」
「そっか」
現代の船舶原簿に登録していない熊野さんは、法的に日本の海を航行することができないから、いつもあの湾内で錨泊している……。実は私、ずっと気になってたんだよね。
「熊野さんが航海を楽しんでくれただけでも、旅行に来た甲斐があったね」
「うん」
私の言葉に真綾ちゃんが優しく微笑んだ。――おお、レアだ! この微笑みを見られただけでも、ここに来てよかったって思うよ。
「『花様は本当にお優しいですね』」
真綾ちゃんが熊野さんの声真似で言った。だけど――。
「今のが真綾ちゃんの言葉だってわかるくらいには、私たちも仲良くなったってことかな?」
さっきのセリフを言う時、ほんのちょっとだけ真綾ちゃんが恥ずかしそうな顔をしたの、この私は見逃さなかったよ。
「『……さすがは花様です』」
「今のは熊野さん」
「当たり」
大鳥居の前をゆっくり横切っていくフェリーの手すりに掴まったまま、私たちは、しばらく顔を見合わせて笑い合った。
◇ ◇ ◇
「宮島、到~着!」
「降、臨」
宮島桟橋旅客ターミナル前にデデンと立っている一対のでっかい石燈籠の間で、私と真綾ちゃんは両手をバッと空に掲げて仁王立ちしていた。今日も私の背中には愛用のヒヨコ型リュックが輝いている。
ちなみに真綾ちゃんは、【船内空間】が使えるからホントは手ぶらでいいんだけど、うちのお父さんにバレないように、今回はカラッポのリュックを背負っている。
おじいちゃんの荷物も【船内空間】にしまってあげようとしたら、「まだそんな年じゃないよ」と、笑って断られたらしいよ。もう九十歳を超えているはずなんだけど、男ゴコロは難しいね。
「どれどれ、旅館の位置は――」
旅客ターミナルで貰った宮島の観光地図をガサガサと広げていると、私の視界の隅で何かが動いた。ん? なんだ――。
「ぎゃー!」
いつの間に忍び寄っていたのか、でっかい鹿が地図の端っこをパクっと咥え込んだもんだから、私は無様にも悲鳴を上げてしまった。
「ダメダメ、お腹壊すよ!」
なんとか引き剥がしてジリジリと後ずさる私に、鹿はノッソリノッソリと近づいてくる。つぶらな瞳が可愛いけど、体はでっかくてなんか怖い、コワカワイイよ!
い、いかん、その辺にいた鹿たちもワラワラと私に群がり出した……。
「ひぃぃぃ!」
無言で近づいてくる鹿の群れに修学旅行での悪夢を思い出し、すっかり恐れをなした私は、悲鳴を上げながらターミナル横の広場を逃げ回った。
私が助けを求めてお父さんのほうをチラリと見ると――。
「ハハハ、花は可愛いな~」
「鹿とたわむれる花ちゃんも絵になりますな~」
――お父さんとおじいちゃんは、鹿の群れから必死に逃げ惑う私の姿を眺めて、呑気に笑っていた……。あ、お父さん、ビデオ回してやがる! あとでヒドイ目に遭わせてやるからね、覚えてろよ!
「ひー、四面楚歌ならぬ四面鹿だよ、コワカワイイよう」
こ、これはヤバい、とうとう鹿に包囲されてしまった……。
「ほい」
「ひゃー」
四方からグイグイ来る鹿の鼻面を見て涙目になっていたら、真綾ちゃんが私を持ち上げて助け出してくれた。やっぱり真綾ちゃんは私の王子様だよー。
「これ、食べたらお腹壊すよ」
私を縦抱きにして真綾ちゃんが注意すると、鹿たちはようやく諦めたのか、ノソノソと散っていった。「お腹壊す」って……。
「いや、鹿も別に私を食べようとしたわけじゃないんだけどね……。とりあえず、ありがとう真綾ちゃん。……え~ん、怖かったよ~」
「ヨシヨシ」
「あ、でもなんかこの体勢、落ち着くかも……」
「…………」
鹿の群れに包囲されて予想以上にストレスを感じていたらしい私は、真綾ちゃんに縦抱きされた状態で頭をヨシヨシされると、幼児退行を起こして自分の親指を吸い始めたのだった……。
◇ ◇ ◇
「はっ!?」
私が正気に戻ったのは、真綾ちゃんからお父さんにパスされる寸前だった。……どうやら、幼児退行した私を見て久しぶりに抱っこしたくなったお父さんが、真綾ちゃんにチェンジをお願いしたようだね。ふう、危なかったよ……。
「断固拒否!」
「そんなぁ。花ぁ、もう一度あのころのように抱っこされて、そしてまたパパと呼んでおくれよ」
「斎藤さん、わかります。喜ばしいこととはいえ、子供はすぐに大きくなりますからなあ……。信じられないかもしれませんが、真綾も昔は本当に小さくて愛くるしかった……。あの小さかったころの真綾をもう一度抱っこできたら、どんなに……」
「!?」
私に抱っこを拒否されたお父さんが、しつこく食い下がってきたかと思ったら、おじいちゃんが横からしみじみと語り出した。……あ、真綾ちゃんが、ちょっとダメージを受けたみたいだよ。
「あれ? ここって……」
真綾ちゃんに抱っこされたまま、お父さんをフシャーフシャーと威嚇していた私は、今いる場所が海沿いの道に面した旅館の玄関先であることに、今さらながら気づいた。
どうやら私が幼児退行している間に、ターミナル横の広場から海沿いの道を歩いて来たみたいだね。
「ここが今日泊まる旅館だ。ここまでずっと花のことを抱っこしたまま、真綾ちゃんが歩いて来てくれたんだぞ。ほら、いい加減降りなさい」
お父さんは呆れたような表情でそう言いながら、ピシッと地面を指差した。
「は~い。――ホントにごめんね真綾ちゃん」
「可愛かったからオッケー牧場」
ごめんなさいする私を、真綾ちゃんはそっと地面に降ろしてくれた。あれ? なんだかちょっと寂しいぞ……。
「ママ……」
「花たん、パパでしゅよ~」
「フシャー!」
再度幼児退行しかけた私が真綾ちゃんの顔を見上げていたら、すかさずお父さんが赤ちゃん言葉で手を伸ばしてきた。それを見て一瞬で目が覚めた私は、毛を逆立てた猫のごとく威嚇するのだった。
「さて、そろそろチェックインしましょうか」
私たち親子の寸劇を温かく見守っていたおじいちゃんの、穏やかながらも冷静なひとことで、私たち四人はゾロゾロと旅館に入っていった――。
旅館の中は、ジャパニーズモダン……とでも呼べばいいのだろうか、なんかオシャレでイイ感じにリフォームされていた。――ふむ、旅館業界も生き残りをかけて、定期的な投資を余儀なくされているようだね。頭が下がる思いだよ。
フロントで手続きを済ませてきたお父さんから、好きな浴衣が選べることを聞き、私たちはウキウキと跳ねるように浴衣置き場へ移動した。すると、様々な色や柄の浴衣がサイズごとに並べられている前で、真綾ちゃんがちょっと嬉しそうな声を出した。
「サイズがあった」
現在、推定身長一八〇センチの真綾ちゃんは、いつも服を買うのに苦労しているらしいから、まさか自分に合う浴衣が置いてあるとは思わなかったんだろうね、すぐに好みの浴衣を選び始めたよ。
うんうん、よかったね真綾ちゃん。さて、私も――。
「ない…………」
一番小さいサイズの下限でさえ一四〇センチ……。おはしょりしたら大丈夫かな? そもそも裄丈が無理か。
これより小柄な人は子供用を着ろということか…………。
「花ちゃん、これ」
「うん?」
私が浴衣置き場の前でションボリしていると、きれいに畳まれた浴衣を真綾ちゃんが差し出してきた。
「熊野さんから」
「あっ!」
ひとつのことに思い当たって、私は思わず小さい声を上げた。
――かつて、日本と欧州を結んでいた豪華貨客船、熊野丸の売りのひとつに、〈オーダーメイドサービス〉というものがあった。
それは、船内にある羅城門百貨店熊野丸支店でオーダーすると、船内に常駐する、和装に洋装、靴や宝飾品の一流職人たちが、最高の素材を使って航海中に仕上げてくれる、というものだった。
だから当然、着物や浴衣の反物も大量に保管されていたんだよね。先月、おじいちゃんの前で演劇した時も、熊野さんに舞台衣装を仕立ててもらったよ。
前に私、浴衣を持っていないって言った気がするから、きっと、そんな私のために、熊野さんがこの浴衣を、ひと針ひと針、チクチクと縫ってくれていたんだね。
すごいな~、一流職人の手縫いか~。何より熊野さんの心遣いが嬉しいよ。
真綾ちゃんから浴衣を受け取った私は、ワッフルみたいな格子状になった生地のサラリとした手触りと、何より、その軽さに驚いた。
「うわ、すごく軽い!」
「それ絹勾配、とても軽くて涼しいよ。『現代では、浴衣を着て外出されるのが一般的になっているようですが、その浴衣でしたら夏着物のようにも着られますので、よほどかしこまった場以外なら、どちらへお出かけになっても大丈夫ですよ。――旅館では、のちほどお渡しする帯と肌着をお使いください。お出かけ用の長襦袢と名古屋帯その他は、町に帰ってからお渡ししますね』だって」
私が浴衣の予想外な軽さに驚いて声を上げたら、着物に関して私よりはるかに詳しい真綾ちゃんと熊野さんが説明してくれた。――この浴衣、絶対にお高いやつだ! ひえ~、私なんかに勿体ないよ~。
「でも、これってすごくお高そうだし、お手入れとか大変なんじゃ……」
「ううん、【船内空間】があるからダイジョウブイ。『はい、お任せください。――それよりも、花様がその浴衣をお召しになったら、大人の雰囲気で他のお嬢様方に差をおつけになること、請け合いですよ』だって」
「お、大人にょ!」
大人の雰囲気! ああ、何と甘美な響きなんだろう……。私の心は絹勾配の浴衣よりも軽く、フワフワと宙を舞うのだった。
「ありがとうございます、熊野さん! 私、成長著しいから、たぶんあと一年くらいしか着られないけど、大事にします」
「……。『少し大きめに仕立ててありますから、あと一〇センチくらい成長されても大丈夫ですよ』だって」
なるほど、さすがは熊野さん、ちゃんと私の成長も考慮して浴衣を仕立ててくれたみたいだね。
「そっか~。私、最終的に一六〇センチになる予定だから、それでもあと二年くらいしか着られないけど、大事にします」
「…………。『はい、喜んでいただけて幸いです』だって。……熊野さんも、嬉しそう、だよ……」
私が心からの感謝を口にしたら、妙に長い間のあと、真綾ちゃんが熊野さんの様子を教えてくれた。いつも無表情なくせに、なんで真綾ちゃんが憐れむような目で私を見ているのか、まったく意味不明だけど……。まあ、いっか。
部屋に上がって荷物を置いた私たちは、お茶請けに置いてあったもみじまんじゅうとお茶でひと息ついてから、ふたたび旅館の外に出ることにした。
本当なら、ゆっくり館内を探検したいところだけど、あまりのんびりしていると厳島神社の閉門時間になってしまうからね。
「さあいよいよ、世界遺産厳島神社に向けて、発進!」
「レッツラゴー」
私たちは、意気揚々と旅館をあとにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます