第二二話 お披露目式典
昭和十二年十月某日――。
青く澄み渡る秋の空を、一羽の大鴉が舞っている。
空中を滑るように高度を下げ大鴉が舞い降りた先、横浜港大桟橋埠頭は、溢れんばかりの人でにぎわっていた。
ここでは昨日から、一隻の豪華貨客船のお披露目式典が盛大に行われているのだ。
その一角で、黒塗りの壁を背にして、正装に身を包んだひとりの紳士が、少々くたびれた背広姿の男たちに取り囲まれていた――。
「
楽隊の奏でる華やかな音楽と、圧倒的な数の人々が生み出す音の圧に負けじと、背広姿の男のひとりが大きな声を上げる。
それと同時にフラッシュバルブの光と、かすかに、アルミニウムの焼ける匂い。――彼らは新聞記者だった。
「いかにも、単純に大きさだけを見るなら、あちらさんに軍配が上がるが、それでも総トン数七万トンなら世界屈指の大きさだ。それにね、熊野丸は、内装の豪華さと最新の設備、お客様へのサービスにおいては、間違いなく世界随一だと自負しているよ」
羅城門総帥と呼ばれたその紳士は、質問した記者の目をしっかりと見ながら穏やかに答える。別に大声を出したわけでもないのに、その声は不思議とよく通った。
日本人離れした大きな体躯でモーニングコートを着こなす彼の目には、自信に満ちた力強い光が宿っている。
威風堂々とは、彼を形容するためにある言葉だろう。
「総帥、うちが入手した資料によると、熊野丸で実際に使われた鉄鋼の量と、同規模の商船を建造するのに必要な量じゃ、まったく計算が合わないんですがね。……新港埠頭の第九岸壁じゃなく、この大桟橋を使わにゃならんほどに喫水が深くなったのもそのせいでしょう? これじゃまるで……」
最初の質問者とは別の、不敵な面構えをした記者が、咥え煙草で鋭く切り込んだあと、いったん言葉を切る――。
そして、彼は咥えていた煙草をゆっくり外すと、羅城門の目をしっかりと見据えて口を開いた。
「……戦艦だ」
記者の言葉で、周囲に一瞬、緊張が走った。世の中には、触れてはならないものもあるのだ。
羅城門はしばらく記者の目を見つめ返したあと、いたずら坊主のようにニッと笑いかけた。
「よく調べたね、きみ。……ご明察どおり、熊野丸の船体、特に水線下の防御構造は、最新の戦艦並みにこしらえてある」
戦艦という言葉に、記者たちは思わず羅城門の背後にそびえる黒い壁を見つめ、ゴクリとつばを飲み込んだ。
当時の人々にとって、戦艦というものは最強の兵器であり、たった一隻増えるだけで世界の軍事バランスに影響を及ぼすほどの、偉大な存在だったのだ。そしてそれは日本のみならず、全世界の共通認識でもあった。空母という艦種と航空機の有用性が世界的に認知されるのは、これより四年少しあと、真珠湾攻撃後のことだ。
「やはり、海軍の要求ですか? 今年施行された〈優秀船舶建造助成施設〉のように、建造資金を一部出してやるから、海軍の要求どおりの船を造れと?」
先ほどまで咥え煙草だった記者は、目の前の偉丈夫に質問しながら、自分の口の中が渇いていることに気づいた。
彼の記憶によれば、〈優秀船舶建造助成施設〉とは、軍部が有事を見越して高性能な徴傭船を確保しておくための政策だが、同様の政策は各国でも採られていて珍しいものではなかったし、要求される性能もせいぜい高速輸送船に使える程度……の、はずだった。
(しかし、こりゃぁ話が別だ、軍部が戦艦並みの性能を要求してきたってことは、いずれ戦艦に改造する気だろう。この大きさの船だ、陸奥、長門を超える戦艦になる! てぇことは、七年以上も前から、軍部は本気で米国と……)
「おいおい、待ちたまえ。きみはいくつか大きな思い違いをしているようだね」
自らの導き出した答えに興奮気味の記者に声をかけると、羅城門は指を一本立てた。
「まず、ひとつ目。――ただ船に大砲を載せただけで戦艦になるわけじゃあない。たしかに熊野丸は防御構造こそ戦艦並みだが、巨大で重い砲塔を搭載したうえ問題なく運用する、なんてのは不可能だ、それこそ設計段階からやり直したほうが早い。絶対にね」
指をもう一本立てて、羅城門は続ける。
「次に、ふたつ目。――海軍に要求されたからこの性能にしたのではない。最初からこの性能で計画していたところに、あちらさんが飛びついてきただけだ」
「では、軍部が米国との戦争のために、改造戦艦の基になる船体を建造していたわけではないと?」
「ない。ちなみに、調べてもらえばわかるが……うちは助成金とやらをビタ一文も頂いていない。まぁその代わり、設計に余計な横槍を入れるのはご遠慮願ったし、政府と海軍さんには何かと便宜を図っていただいたがね。計画の詳細を伝えたら大喜びでやってくれたよ、それはそれはもう、まめまめしく……」
羅城門がそう言いながら、芝居がかった仕草で被っていたトップハットを胸に当て、政府と海軍のお偉方が集まっている一角に向かい恭しく頭を下げると、記者たちの間からクスクスと笑い声が上がった。
「しかし総帥、いくらなんでも、巨額の費用をかけてまで戦艦並みの防御力にする必要はなかったのでは?」
記者のひとりが、ここにいる誰もが感じている疑問を口にした。
すると、羅城門は神妙な表情になってそれに答える。
「実際に今、欧州はかなりキナ臭い。いつ何が起こっても不思議ではない状況だ。諸君も〈ルシタニア号事件〉を忘れたわけではないだろう? 欧州航路に就かせるなら機雷や魚雷のことを考慮しておくに越したことはない」
記者たちの脳裏に、第一次世界大戦のさなか、イギリスの豪華客船がドイツ軍潜水艦に撃沈された、痛ましい事件が浮かんだ。
「何しろ、うちが目指したのは世界一安全な船だ。安全に乗客を目的地に送り届けること、それこそがこの船の使命だ。……乗客の生命を最優先に考えれば戦艦並みの構造にせざるをえなくなる、そんな今の世界を思うと誠に残念でならないよ……」
――この二年後、日本の豪華貨客船がイギリス沖で触雷により沈没した時、この場にいた者は全員、今日の羅城門の言葉を思い出すことになる。
「さあ、お次は誰かね? 今日は大盤振る舞いだ!」
羅城門が気前よく次の質問を催促すると、矢継ぎ早に質問が飛んだ。
「莫大な費用をかけてこれだけの大型船を欧州航路に投入するのは、採算面でかなり無理があるのでは?」
「先ほど豪華とおっしゃいましたが、このご時世にいささか不謹慎ではないか、との声も聞かれますが――」
新聞記者といっても、彼らは、御用新聞だけを招き先日行われた〈公式記者会見〉から弾かれた者たちだった。
用意していた質問の内容が、いささか意地の悪いものになってしまったのも、彼らの胸中を察すれば致し方あるまい。
もっとも、羅城門という男の不思議な魅力によって、すでに彼らの毒気はすっかり抜かれてしまっていたのだが……。
「もちろん、採算面で問題があるのは重々承知しているが、それは問題ない。何せ、この事業は利潤の追求を目的としたものではないんだからね――」
記者たちひとりひとりの目を見ながら、羅城門は口を開いた。
「――今事業の目的のひとつは、我が財閥の稼いだ財を社会に還元し、景気を支えること。国民の血税を無駄遣いするのとはわけが違う、このご時世だからこそ、豪華にしなくては意味がないんだよ。現に、巨額の資金が国内に還元されたことで、糊口をしのげた者、潤った者は少なくないだろう?」
それは、記者たちも知っていた。
昭和恐慌のさなか、当時の国家予算の一割近い巨費が投じられた熊野丸建造によって、直接的、間接的を問わず、かなりの数の人々が助けられていたのは事実であるし、記者の中には家族がその恩恵にあずかった者もいる。
「それと昨今、欧米人からの日本人に対する風当たりが強いが、その根っこには我々に対する偏見があると私は考えている。では、その偏見はどこから来る? 彼らの、日本人に対する無知、無理解、誤解、これが大きいんじゃないだろうか――」
心に染み入るような深みのある声で、その場にいる全員に羅城門は語りかける。
「――熊野丸建造のもうひとつの目的、それは、欧米人に我が国の技術力と優れた伝統文化を知ってもらい、さらに、温かいもてなしの心に触れてもらうことで、無知から生まれる我が民族への偏見を緩和させ、ひいては偏見から起こる不幸な戦争を回避するための一助となることにある」
この時、羅城門という男が一隻の船に託した願いを知った男たちの、心が震えた――。
そんな彼らに、羅城門は大きく手を広げて言う。
「どうだい、素晴らしい船だろう? だが忘れないでくれたまえ諸君、この船を造り上げたのが、自分たち日本人だということを!」
男たちは揃って、目の前にある黒い壁を見上げた。
そこにあるのは、見る者に畏敬の念を抱かせるほどの巨大な船。
今、地球上に、これだけの船を造ることが可能な国は、ほんのわずかだろう。
「この船を……」
「俺たち、日本人が……」
そして、胸の奥から込み上げてきた民族の誇りという熱い感情は、やがて涙に姿を変えて彼らの視界を滲ませるのだった……。
◇ ◇ ◇
「嘘がお上手なこと……」
大桟橋の中ほどに建つ鉄筋コンクリート造りの上屋の二階、桟橋レストランの中で、満足そうな顔をしてテーブルにやってきた羅城門を、儚げな佳人が迎えた。
今日の式典のためか、彼女はローブ・モンタントと呼ばれる襟の高い長袖ドレスに身を包んでいる。
彼女の艶やかな黒髪は、光の加減で青や紫の光沢を帯びて見える、見事な
ここからでは絶対に聞こえるはずのない場所での会話が彼女には聞こえていた、という不思議を、まったく気にした様子のない羅城門は、いたずらっぽく笑うと向かいの席に着いた。
「嘘はついてないさ、一番重要な目的を言っていないだけだよ」
彼は給仕にコーヒーを頼むと、感慨深げに窓の外を見た。
「やっとだね、クラリッサ」
「ええ、やっと……。わたくしの考えが正しければ、これできっと……」
羅城門にクラリッサと呼ばれた女性も、その知的な目に薄く涙を浮かべ、窓の外を眺めている。
「あとは、海軍さんが上手いこと仕上げてくれるさ……」
意味深なこと口にした羅城門に向き直ると、クラリッサは深々と頭を下げた。
「あなた……ありがとうございました。ラーヴェンヴァルト家の当主として、羅城門家からの多大なるご助力に感謝いたします」
「おいおい、やめてくれ、こっちだって何度きみに救われたか、それに――」
慌てた様子でクラリッサの頭を上げさせてから、羅城門は優しく彼女に微笑んだ。
「――俺たちの曾孫のためじゃないか」
「……ええ、そうね」
羅城門に微笑み返した彼女は、自分のとなりで窓の外を食い入るように見ている、五歳ほどの少年に向かって、優しく語りかけた。
「
「はい、お母様」
その利発そうな少年は、一度振り返って元気に返事をすると、すぐにまた窓の外に夢中になった。そのキラキラした瞳には、彼が今までに見たことのない、大きくて美しい船が映っている。
この時、満船飾に飾り立てられたその船が、少年の目には、少し恥ずかしそうに見えたのだった。
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