第一三話 修学旅行 六
二条城から宿泊先の旅館に着いてすぐ、おそらくは白井先生の命令で極限まで短縮されたと思われる、〈修学旅行初日の反省会〉をチャッチャと終わらせ、学校指定の体操服に着替えた私たちは、待ちに待った夕食を大広間で頂いていた――。
「そんな……ありえない……」
私は今、お箸で挟んだエビフライを口の前で止めたまま、目の前で繰り広げられている信じがたい光景を、目ン玉ひん剥いて凝視しているところだ。
真綾ちゃんといえば、いかなる状況下であっても、そこに食べ物がある限り、ひたすら無言で食べることに集中する、というのが鉄則であったはず……。しかも、私と一緒に何かを食べるときは、少食な私が食べきれないぶんまで、きれいサッパリ胃袋に片付けてくれるほど、食い意地が……。
その真綾ちゃんが、である。箸に挟んだ一本のエビフライを、わずかに眉を寄せた目の前で三秒ほど見つめたあと……こともあろうか、となりで座る紅ちゃんのお皿にそっと置いたのだ! しかもそのあとも、子供が好きそうなものを同じようにして、ちょっとずつ紅ちゃんにお裾分けしているのだ!
あの、スイカを盗られそうになっただけで、わずか四歳にしてクロの首根っこを掴んで絞め落とした真綾ちゃんが!
あの、自分は大量に食べたあとなのに、私の食べ残しを熱のこもった視線で見つめてくる、食い意地の張った真綾ちゃんが!
ありえない……。
「ちょっと……花ちゃん……」
おや? となりに座るムーちゃんが私の肩をツンツンしながら、幽霊のようにか細い声で話しかけてきたぞ。
「ん? ムーちゃん、何かな?」
「聞こえていたよ……全部……」
この私としたことが、どうやら口に出ていたようだね……。
ムーちゃんのひとことを聞いて頭の血がサーッと引いた私は、お箸に挟んだままになっていたエビフライを、目の前で私の顔を凝視している真綾ちゃんのお皿に、そっと置いたのであった……。
まあ、そんな感じで、面倒見のいい真綾ちゃんと火野さんの間でお世話されながら、紅ちゃんは幸せそうに夕食を楽しんでいたよ。
◇ ◇ ◇
「もう食べられないよー」
「食べられないよー」
班に割り当てられた和室でお布団の上にゴロンと寝転び、私はポッコリ膨らんだお腹をさすっていた。そのとなりでは、予備に持ってきた私の体操服を着た紅ちゃんが、楽しそうに私の真似をしている。……可愛いやつめ。
お母さんが予備の体操服を私に持たせた理由については、後生だから聞かないでいただきたい……。
この時、はたと気づいた私は、ゴロンと横に転がると、紅ちゃんの耳元にコッソリささやいた。
「紅ちゃん、あのさ…………おねしょ……とか、大丈夫?」
私からの問いかけに、紅ちゃんは一度キョトンとした顔をすると、すぐにニコリと無邪気に笑った。
「うん、この年でそれはない」
「…………あ、そう」
紅ちゃんの言葉を聞いて、なぜか裏切られたような寂しさを抱いた私は、またゴロンと転がると、人知れず涙を流すのだった。
「花ちゃん……。ちょっと……」
私の涙が涸れたころ、怪現象はないかと窓際で外を眺めていたムーちゃんが、おいでおいでと幽霊のような仕草で私を手招いた。
「……怖いよムーちゃん、どしたの?」
「あそこ……」
ムーちゃんが指差した先、旅館前の路上で、物陰に隠れるようにして旅館の中を窺っている、見覚えのあるふたり組がいた。
ひとりは野球帽を目深に被り、マスクとサングラスを掛けた人物。どう見ても体格からして男性だろう。
もうひとりは、伸ばし放題のボサボサヘアに、これまた長く伸ばしたヒゲ、そしてボロボロの着物が印象的な男性。白髪が結構交じっているところを見ると、お年寄りなのかもしれない。――若白髪の人もいるから断言はできないけどね。この寒さのなか、この人はなんと裸足である……。
このあからさまに怪しいふたり組、最近どっかで見たような……。
「あ、思い出した。大阪城と伏見稲荷にいた人たちだよ」
そのふたり組をどこで見かけたのか思い出して、私がちょっぴりスッキリ感を味わっていると――。
「奈良にもいたよ、ずっといた」
――いつの間にか私の頭上から外を覗いていた真綾ちゃんが、なんとも怖ろしいことを口にした。
「……それじゃあ、あの人たち、私たちのあとをずっと尾行してきたってこと?」
「私にはわかる……。あれは……人ならざるもの……。きっと、学校の誰かに憑いてきたの……八尺様のように……」
「うん、人ではない」
オカルト大好きっ子のムーちゃんが、水を得た魚のように妄想を爆発させたかと思ったら、私とムーちゃんの間からピョコっと頭を覗かせた紅ちゃんまで、追い討ちをかけるように怖ろしいことを言い出した。
「なんやなんや、なんぞオモロイもんでも――」
オモロイもんの匂いを嗅ぎつけてきた火野さんが、私たちと一緒になって窓の外を見たとたん、なぜだか急に黙り込んだ。……どうしたんだろう?
「なんでや……」
聞き取れないくらい小さな声でそうつぶやいた火野さんの顔を、私が気になり覗いてみると、勝ち気な目をなぜか驚いたように大きく見開いて、火野さんは外にいるふたり組を凝視していた。
その目に浮かんでいるのは、驚きと怒り、そして喜びと寂しさ、そういったものが交ざり合ったような、言葉にはできそうにない複雑な感情……そう私には感じられた。……でも、なんで?
「火野さん、知ってる人?」
そう私が尋ねると、火野さんは三秒ほど遅れてから、ようやく気がついたように口を開いた。
「……え? ……さあ、誰やろな? ウチ知らんで……」
あれ? 慌てて否定する火野さんの瞳には、どこか痛いのを我慢しているような光がある……。うーん、なんか気になるけど、他人に触れられたくない場所ってのが人にはあるからね。……私、小学生なのに大人じゃん……フフ……。
「そうか……。じゃあ、やっぱり真綾ちゃん狙いの誘拐犯なのかな? おじさんが世界有数の大企業の会長兼、最高経営責任者だし……。いや、美人だからストーカーっていう可能性も……」
火野さんのデリケートなところには触れないであげようと、私がテキトーなことを言っていると、何を思ったのか真綾ちゃんが窓をガラガラと開いた。
すると、その音に気づいた例のふたり組がこちらを見上げる。二階にある私たちの部屋は彼らとあまり距離が離れていないから、私にはその様子が結構ハッキリと見えた。
野球帽を被っているほうの人が私たちを見たまま固まっている。私には、なぜかその人が、サングラス越しに火野さんのことを見つめているように思えた。
「ちょっと、成敗してくる」
唐突に物騒なことを言い出した真綾ちゃんが、窓枠に手をかけて外に身を乗り出した、その時――。
「あかん!」
――火野さんの大きな声が、京都の夜空に響いた。
真綾ちゃんはピタリと動きを止め、火野さんを見つめる。すると、しばらくの静寂のあと、火野さんはハッと我に返ったように私たちを見回して、取り繕うようにしゃべり出した。
「……いやー、でっかい声出して堪忍な。……ほら、なんぼ姫様でもこんなとっから飛び降りたら危ないやん、裸足やし。それに外さぶいから風邪ひいてまうで? ……まあそもそも、誘拐っちゅうんは考えすぎやわ花、それやったら犯人は黒いバンに乗ってくるもんやろ、映画みたいに」
「……あ~そうだね火野さん、私の考えすぎだったよ。たしかに、誘拐犯だったら黒いバンだよね、黒いバン」
などと空気を読んだ発言をしながら、私がチラリと外を見ると、例のふたり組の姿はもう消えていた。
何やらデリケートな問題っぽいから、彼らが何者なのか、火野さんが自分から話してくれるまで聞かないでおこうと私は思う。
その後しばらくして、気を取り直した私たち〈チーム姫様〉は、キャッキャウフフと大浴場で戯れ、女湯前で湯上がり真綾ちゃんの出待ちしていた〈チーム木下〉を成敗したあと、主に真綾ちゃんがおやつを貪りながらみんなでゲームに興じ、健康優良児の真綾ちゃんと紅ちゃんがスヤ~と眠りに就いたあとは、真っ暗な部屋の中でムーちゃん秘蔵の怪談を聞かされて、ガタガタ震えながら一日を終えた。
思えば非常に濃い一日だったよ。何より鹿のヨダレを洗い流せて、私は幸せだ……。
◇ ◇ ◇
そして修学旅行最終日――。
鹿に蹴られる夢を見て目が覚めると、火野さんのカモシカみたいな足が私の顔面を蹴っていた……。今日は朝から顔が痛い。……まあ、私も寝相が悪いから、足が火野さんの脇腹にめり込んでいるんだけどね。
気になって紅ちゃんを見ると、私たちと違って寝相のいいふたり、死体のように眠るムーちゃんとスリーピング・ビューティーの間で、幸せそうに寝息を立てていた。……可愛いやつめ。
「ん……ああ、花か、おはようさん。うわ! 自分の顔、ムッチャヨダレ乾いてんで。カピカピやん……あれ、ウチちょっと脇腹が痛い、なんやろか?」
「……おはよう火野さん、私は顔が痛いよ。なんだろね……」
こんな感じで次々に目を覚ました私たちは――。
「うわー姫様また取りに行きよったで、こんで何回目や? 回遊魚か。ホンマ朝からようあんだけ入るわ……鬼やで」
「まあ、真綾ちゃんだからね~。見ているこっちがお腹いっぱいになってきたよ。あれだけの量があのスリムな体のどこに消えていくんだろうね……」
「紅ちゃん、ほら見なさい……。姫様の胃袋は、こことは異なる世界とつながっているの……。良い子は決して……真似をしてはいけないわ……」
「うん……」
――ビュッフェスタイルだった朝食会場で、朝から真綾ちゃんが無双する姿を目の当たりにして、すっかりお腹がいっぱいになったあと、私たちはお世話になった旅館に別れを告げた。
今日、私たちが最初に向かうのは……いよいよ、紅ちゃんのお父さんがいるという、北野天満宮だ!
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